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「俺たちは門前払いか。ったく、何サマだと思ってやがる」
 逢坂真吾は、悔し紛れに吐き捨てた。
「真田様だよ。メディアの一角を握られた以上、たかだか芸能事務所の俺たちが、絶対に逆らっちゃいけない相手じゃないか」
 肩を並べた片野坂イタジが、うつむいたままでそう言い、缶コーヒーのリングタブを力任せに引き抜く。
 空が高かった。
 夕べまでの雨はからりとやんで、寒空にはめずらしく青い色彩が広がっている。
 初冬の頃は終わり、もう明日からは12月である。
 暖冬だと言われているが、ここ数日で、都内の平均気温は一期に下がった。吐く息は白く、往来に立つ2人は厚手のコートをまとっている。
 熱い缶コーヒーをすする2人の前を、サラリーマン風の男が忙しなく通り過ぎる。この界隈に、逢坂が昔務めていた自動車メーカーがあった。ふと今過ぎた光景が、懐かしく胸に迫る。
 この師走に、失業か。
 逢坂は、ふいに笑いだしたいような奇妙な感慨に襲われた。それでも不思議と、あの日、J&Mに戻ろうと決めた自身の選択を恨む気にはなれなかった。
 夢のように濃密で、そして子供のように興奮した二か月だった。この世とは別の場所、何ものにも代えがたいその時間を得るために、俺は今、ここにいるのかもしれない。
「ひとつ、訊いてもいいっすか」
 空になった缶をダストボックスに投げ込みながら、逢坂は隣に立つ人を振り返った。
「どうして唐沢さんは、何もしないんですかね」
「何も、とはなんだ」
 まだ未練がましくコーヒーをすすっている男は、顔もあげずに聞き返してくる。
 片野坂イタジ。ストームが売れなかった頃からの、古参マネージャー。
イタジにしてみれば逢坂はいつまでも新人なのか、当然態度は横柄だったりする。以前はそれで反目しあったこともあったが、今は、何にも代えがたい運命共同体。多分、互いが互いを自分よりバカだと思い合っている。
「もう、何やったって、ダメじゃないっすか」
 溜まっていた思いを吐き出すように、逢坂は言った。
「………………」
「ここまで来たら、結論なんて見えてるじゃないっすか。俺だって判りますよ、コンサートをやってから会社を解散するか、やる前に解散するか、もう選択肢はそれだけしかない」
 ずっと口にできなかったタブーを言いきって、すっきりする。逢坂は自嘲気味に笑って、肩をすくめた。
「俺のこと、弱気になってるとか逃げてるとかって思わないでくださいね。本当は怖いし、逃げたいしぶるってるけど、この状況で、あいつらがどれだけ頑張ってるか、俺だってよく知ってるんですから」
 イタジは無言のまま、空き缶を手のひらで押しつぶす。
「綺堂が消えて、片瀬が消えても、夏の時のあいつらとは違う。残りのメンバーで一生懸命励まし合って、乗り越えようとしてるんです。俺みたいないい年した大人からみると、子供だしバカだなって思うけど、あいつらこんな状況になった今だって、年末のドームに立てなくなるなんて、これっぽっちも思っちゃいないんです」
「…………」
「……なんとかしてやりたい……でも、大人の選択ってあるじゃないですか。傷が浅いうちに修復してやるのが、俺ら大人のすることじゃないですか」
 逢坂は拳を握りしめた。
「なのに、唐沢さんは、何ひとつ動こうとしない。マスコミ相手に釈明もしないし、ずっと静観しているままだ。コンサートだって、やるとすればもう学祭レベルのものしかできないでしょうに、機材の発注のキャンセルだってしていない」
「…………」
「わかんないっすよ。今日だってそもそも、なんのために真田会長と会談なんかするのか」
 返事は返ってこなかった。
 逢坂にしても、明確な回答が欲しくて振った話題ではない。
「寒いな、やっぱり喫茶店にでも入るか」
 ぶるっと震えた片野坂が、そう言って歩き出した。
「自腹なら、勘弁してくださいよ」
「おごってやるよ、水くらい」 
 先を行くちぢこまった背中から、ふいに低い声がした。
「唐沢さんは……待ってるんじゃないかな」
 待っている?
 逢坂は眉をひそめている。
「何を、ですか」
「何かを、だ」
「だから何を待ってるんですか」
「それは俺にも判らないが、何かを、だ」
「…………」
「多分、唐沢さん自身にも判ってないものだ。……以前、織原さんと真咲さんが話していたのを聞いたことがある、それは、多分」
 風が片野坂の言葉をかき消した。
 それは、多分……。
 うつむいて歩きながら、逢坂はその意味を考える。
 そんな世界が、本当にあればいいと思いながら。



             56


「これが、私の出せる最終条件だ」
 将は無言で、その言葉を聞いていた。
 広い来客用の会議室。靴がうまるほど柔らかい緋色の絨毯に、磨き抜かれた人工大理石の机。
 隣には、唐沢直人が座っている。将と同じで、最初から一言も口を開かず、目の前に座る男と対峙している。
 真田孔明。
 最初から最後までJ&Mを追い詰め、そして今、完全たる勝利を手にいれた男。
「年末のドーム公演は、当社が全面的にバックアップしよう」
 穏やかな声で、真田は続けた。
「被害者を名乗る徳道君も、その程度の理解は示してくれるだろう。もうストームは十分に社会的制裁を受けた。彼の本意は、何も君らの会社を潰すことにあるわけではないだろうからね」
 思わず机の下で、激情が拳を震わせた。しかしそれを、将は無言で飲み込んだ。
「その条件が、柏葉のストーム脱退ですか」
 初めて、それまで黙っていた唐沢が口を開いた。
 意外なほど、その口調は淡々としていた。真田は眉をあげる。
「むろん、そうでなければ、くだんの被害者も納得すまい。そしてメディアも、決してこの先ストームを起用したりはしないだろう。わからないかね、唐沢君、これはもう、避けられない流れなのだ」
「貴沢は、納得しているのですか」
 重ねての唐沢の問いに、真田は楽しそうに頷いた。
「確かに、まだ話はしていない。あれもプライドが高い男だ、そう簡単にはうんと言わないだろうが」
 将は黙って、紙面に記された会社合併の条件に目を落とす。合併というよりそれは、実質吸収されるに等しい内容だった。

 柏葉将をストームから脱退させること。
 柏葉将の管理、マネジメントは今後一切東邦EMG芸能部がとり行うこと。
 欠員となったストームのメンバーには、貴沢秀俊を充てること。

「時間を取るから、ぜひとも彼には、柏葉君から話をしてみてもらいたい。君の、いわば代役という形でストームに入るのだからね」
「貴沢ヒデには、年末、紅白の司会が入っていますね」
 唐沢の声は、やはりあくまで冷静だった。
「うちのコンサートも年末、紅白と同時刻を予定しています。そこを、どうなさるおつもりですか」
「むろん、コンサート全てに貴沢を出すわけにはいかない。最後のサプライズ出演だ。アンコールまでにはドームに到着するよう、国営テレビにヘリを用意させておくつもりだよ」
 真田は、満足の笑みを浮かべ、将と、そして唐沢をゆったりと眺めた。
 獲物を完全に征服した、猫科の獣の目をしていた。
 どんな条件を出されようとも、拒否するすべがないことを、将はよく理解している。
 倒産して、関係者全員が芸能界を永久追放されるか、東邦の救い舟に乗るか、選択肢はそれだけしかない。
「コンサートの様子は、ジャパンテレビの深夜番組であますところなく放送されることになるだろう。貴沢秀俊を擁してのストーム再出発。間違いない、君たちは2006年の新しいスターになる」
 君たちは。――将を除いたストームは。
 将は、メンバー全員の顔を思い浮かべる。
 雅之は、憂也は、聡は、りょうは、みんな――許してくれるだろうか。
 いや、許してはくれないだろう。
 何故、話さなかったのかと思うだろう。何故、一緒に考えなかったのかと思うだろう。
 信頼という関係への、裏切り行為だとも思うだろう。
 それでも、一度でも打ち明けてしまったら、今日この場に、立っていることはできなかったと将は思う。
 一緒に地獄へ行こうと言う声に、どんな状況でも五人でいれば大丈夫という声に、どうたって抗しきれはしなかったろうから。
「幸い、柏葉君は、まだJ&Mと正式契約を交わしていないというじゃないか。それだけでも話は早い。今ここで、サインして帰るかね、柏葉君」
「いえ」
 立ちあがったのは、将ではなく唐沢だった。
「お話はよく判りました。大変ありがたい申し出に、ただ、感謝するばかりです」
 うながされ、将もまた立ち上がった。
「ただ、社内の他の者にも意見を伺いませんと、ここで即答はできません。また改めてお返事に伺いますので、今日のところは失礼させていただきます」
 微笑した真田の眼差しに、わずかばかりの不満の色が見えた気がした。
 それは、ここで返事がもらえなかったことにではなく、すでに敗北の将となった唐沢直人の、不思議なほどの落ち着きぶりにあるような気がした。



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「お前が決めろ、柏葉」
 ひっそりと静まり返ったエレベーターホール。
 背中を見せていた唐沢の声がした。将は、ゆっくりと顔を上げる。
「会社のことも、他のやつのことも、何も考える必要はない。お前自身の頭で、価値観で決めろ」
 振り返った唐沢の眼差しは、やはり場違いに落ち着いている。
 将は、黙ってその目を見上げた。言われている意味も、その底にあるものも判っている。けれどもう、将の中では揺るぎない結論が出ていた。
 初めて将は、真咲しずくが消える前に言っていた言葉が判ったような気がした。
 これは、私の戦いじゃないもの。
 どれほど支えられ、助けられ、励まされても、最後には自分で決めなければならない一線がある、どんな戦いにも必ずある。
 それが、多分今なのだろう。
 唐沢の本音が判っていても、将の気持ちは揺らがないし、唐沢もそれを判っている。
「本当に、他の奴のことを考えないでいいなら」
 並んでエレベーターに乗り込みながら、将は言った。
「お願いがあります。はっきり結論が出るまで、今日の話は、誰にもしないでもらえますか」
「…………」
 かすかに嘆息し、唐沢は無言で目をすがめる。
「俺があなたを、この世界に呼び戻したのも同然なのに」
 将は、唇だけで笑って、足元に視線を落とした。
「無責任ですよね、俺、沈みかけの泥船から、一人でさっさと逃げようとしてる」
「誰もそんなことを思う奴はいない」
「じゃ、唐沢さんの口から、みんなにそう伝えといてください」
「…………」
「でなきゃ俺の人生、真田の爺さんにくれてやる意味なんかねぇから」
「…………」
 ゆっくりと降下していくエレベーター、無言の唐沢を、将は見上げた。
「唐沢さんは、これからどうするんですか」
「どうもこうもない、俺が真田の下で働けると思うか」
 不思議なシンパシーを初めて感じながら、将は、この年がいくつも上の男を見つめる。
 親父同士が同郷で親友だった。ハリケーンズ、一時ではあるが、ひとつのパッションを共有していた。人の縁とは不思議なものだ。そんなことを知っていてJ&Mに入ったわけではないのに、この広い世界の中で、偶然のようにめぐり逢い、ひとつの時を共有している。
「……無理を承知で、お願いしても、いいですか」
「お前の言っていることは、一から十まで無理ばかりだ」
 ガラス張りのエントランスの向こうで、しなびたコートを着た片野坂イタジと逢坂真吾の姿が見える。
 その二人に片手をあげて、将は続けた。
「りょうのこと、身守ってやってほしいんです。あいつはすごい才能があるのに、はっきり言えば臆病で、その半分も出しきれていない」
「…………」
 唐沢の横顔は黙っている。
「東邦の下で働きたくないっていう唐沢さんの気持ち、よく判ります。判るけど……あと少しだけ、みんなのことを、身守ってやっててほしいんです」
 振り返った唐沢が、怒った眼で何かを言いかけた。
 が、それは力なく閉じられ、再び男は前を向く。
「俺には、もう無理だから」
 将は横を向いて、わずかに笑った。
「別に俺のこと、可哀相とか無理してるとか思わないでください。今、俺、すっげー満足してるんです。真田の爺さんの条件しだいでは、喧嘩するしかねぇかなって思ってたけど、どんな形であってもストームが残るなら」
「………………」
「残るなら……絶対に、成功するって、信じてますから」



                



 

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