53


 パソコン画面から目を離し、ミカリはかすかな溜息をついた。
 これは、どういう意味だろう。何を暗示した前哨だろう。
「やっぱり、どこにもいないのかい?」
 ケイの声に、ミカリは頷いて、立ちあがった。
 東京神田、冗談社。
 深夜十一時。まだ社内には、ケイと高見が残っている。というより高見は、すでにこの事務所の住人も同様だ。
 ただし、仕事は一切しない、ひがなパソコンとにらみ合い、血走った眼でキーを叩き続けている。
 立ちあがったミカリは、デスクで煙草をくゆらせているケイの前に歩み寄った。
「会社自体は清算していません。けれど筑紫亮輔は、今月に入ってから、消えています。なじみの記者や印刷所とも連絡を絶って、行方をくらましているようなんです」
 彼の唯一の相棒である、大澤絵里香も、同様に消息を絶っている。
 ミカリは眉を寄せていた。
「……企画中の本も、何もかも放ったままで、何か、トラブルでもあったんでしょうか」
「…………」
 夕方外出先から戻ってから、ずっと浮かない顔で煙草を吹かしていたケイは、ふうっと煙を吐き出した。
 灰皿の上の吸いがらの量に、ミカリは少し驚いていた。何かを迷っている時の、ボスの癖だ。
「逃げたのかねぇ……」
 眉を寄せ、呟くようにケイは言った。
 逃げる?
「……なにから、ですか?」
 それには答えず、ケイは口をつぐんだまま、新しい煙草に火をつける。
 ミカリは気付く。ケイは、ひどく暗い目をしている。夕方、取材だといって一人で出て行ったが、そこで何かあったのかもしれない。
 思い当たることは、それこそいくらでもあげられる。ミカリにしても、今はストームに関する報道を耳にする度に、どうにもやりきれない気持ちになる。何もできない自分が、歯がゆくて、悔しくて、無力感に打ちのめされそうになる。
「あのさ……」
「はい」
 ケイの視線が、物憂げに天井に向けられる。その目に、苦悩にも似た深い迷いの色がある。
 閉じた唇から唸ったような声をあげ、ケイは耳を軽くこすった。
 何を迷っているんだろう。ミカリは不審に思いつつ、ボスが口を開くのを待った。
「実はさ、覚えてるかな、情熱王国のカンチ君」
「……?」
「若くて熱心なADでさ、反町っつったかな。一度うちにも挨拶にきたじゃん」
「……ああ」
 何の話だろう、と思いつつ、ミカリは記憶を手繰って頷いた。
 そういえば、来た。随分な童顔で、子供のような笑い方をする青年。
 ストームをメインにして放送された、ジャパンテレビの看板番組「情熱王国」のアシスタントディレクターだった男だ。
 ケイに制作の意図を根ほり葉ほり聞きただされ、最初は迷惑そうだったが、結局最後は意気投合。二人で東邦許しまじ、と大いに盛り上がっていたような気がする。
 ケイは続ける。
「ジャパンテレビの新社長、東宮なんたらさんの甥っ子でさ。他の連中は全員解雇されたのに、カンチ君だけは報道部にめでたく異動になったんだとさ。ま、いってみりゃ栄転だ」
「へぇ……」
「ただ本人の気持ちだけが収まらない。随分悔しそうだったねぇ。現場じゃカンチ君は、新社長のスパイ扱い、一人だけ上手い汁を吸った裏切り者ってわけだ」
「もしかして、今日会われたんですか?」
「呼び出されてね」
 ケイは引き出しを開き、中から一枚のコピー紙を取り出した。手帳を写したもののようだ。コピーをコピーしたものなのか、画質はかなり悪い。  薄い筆跡で、何かメモ書きのようなものが記されている。
「どう思う?」
「…………」
 ミカリは眉をひそめていた。
 I→1000
 H→500
「金銭の受け渡しの記録ですか、もしかして」
「手帖の持ち主は東邦関係者、Hが国営放送理事、平原剛三。Iが郵政大臣の今泉健……だったら、どう思う」
 さすがにミカリの表情も変わる。
「どこから出たメモですか」
「カンちゃんがやってるナイトニュース11あてにきた匿名のリーク。最もその程度の噂なら業界じゃまことしやかに囁かれてはいたけどね。ただし、匿名といっても、アタシたちにとっては非常に馴染みの深い名前だ。問題はそこさ」
「……白馬の騎士」
 ミカリは思わず呟いていた。
「ビンゴ」
 白馬の騎士。
 柏葉将の逮捕情報を警察発表より早く掴み、そして東條聡の携帯に、J&Mの将来を見越したような企業情報を送ってくれた、謎に包まれたネットの住人。
 後者は、単なる道楽者の、気まぐれないたずらとも思えるが、前者に至ってはそうではない。警察以上の情報網を持つ人物、ということになる。
「同じハンドルネーム、だったんですね」
「アクセスポイントは全くの別ものだけどね。ただし、同一人物だとみて間違いはないだろうさ」
「どうしてですか」
「なんでカンちゃんが、わざわざアタシにそんなもんを見せたと思う?」
「……いえ」
「そのメールはね、うちのアドレスを使って送られていたんだよ。そんな手のこんだいたずらをする奴なんて、他にはいないだろ」
「………………」
 ミカリは思わず、背後でパソコンを叩いている高見を振り返る。
 会話が聞こえているのかいないのか、高見は画面から顔をあげようとさえしなかった。
 ここにきて、また白馬の騎士か。
 しかし、一体何故、ジャパンテレビの報道部に。しかもわざわざ冗談社のアドレスを経由して。
「ナイトニュース11では、社には極秘にチームを組んで、この疑惑を調査するっていってたよ。……っても実質動いてるのは、カンちゃん一人なんだろうけど」
 ケイはそこで、わずかに唇を噛んでから、息を吐いた。
「筑紫さんはさ、どこまで東邦の暗部に関わっていたんだろうね」
「………………」
 その意味を悟り、ミカリは自身の手肌が粟立つのを感じた。
「どうされるんですか」
「さぁねぇ……ひとまず、一人で動くなとは念を押しといたけど」
「わかりました、それで」
 ミカリは思わず呟いた。
「東邦が、あれほどスムーズに買収を進められた理由が。郵政大臣の今泉さんは、次期総裁選に立候補するとの噂があります。もしそうなら」
「たかだかなぐり書きのメモが出たくらいで、滅多な想像するもんじゃないよ、ミカリ」
 ケイの声は、厳しかった。
「まだなんの証拠もないんだ、下手に騒ぐとカンちゃんがやばいことになる」
「……でも」
 ミカリは、言い淀む。
 判っている、ケイの言いたいことは、全部。
 でも。
「ケイさん、このままだとストームもJ&Mも、終わりです」
「…………」
 それこそ、言われなくても判っているのか、ケイが無言で眉を寄せる。
「ゲネプロ会場がキャンセルされ、運送トラックも電源車も、国内でのリースはもう絶望的だそうです。全部、東邦からの圧力です。彼らはどんな手を使っても、徹底的にコンサートを妨害しようとしてるんです」
「わかってるよ、全部」
「白馬の騎士は、今までも、J&Mを助けるスタンスで情報提供してくれました」
「だからって、今度もそうだとは限らないだろ」
「他の情報とは違う、もしかしたら」
「ミカリ」
 強い口調で部下を遮り、ケイは怖い目になった。
「あたしだって本音を言えば悔しいんだ。悔しくてしょうがないよ、でもあたしらに、一体何ができるんだよ!」
 煙草を灰皿に押し付けたケイは、それを強く握りしめた。
「あんたの考えてることは判るよ。全部判る、でもこればっかりは私らの手にはおえないんだ。東邦がジャパンテレビ買収を公開してから、報道各社がこぞって東邦の荒さがしに走ったのは知ってるだろう?それでも何もでてこなかったんだ。何ひとつ出てこなかった。カンちゃんも言ってたよ、東邦のブロックは、ちょっとやそっとじゃどうにもならないベルリンの壁だって」
「…………」
「報道のプロにだって手に負えないネタなんだ。一介の芸能記者の、出る幕じゃないんだよ」
「…………もし」
 わかっている。
 それでも、ミカリは言い募った。
「もし、それで、少しでも真田会長の動きを封じることができるなら」
「ミカリ」
 ケイが、疲れたような眼をあげる。ミカリはその前で頭を下げた。
「ケイさんに迷惑はかけません、なんでしたら辞表を出してもかまいません!」
「…………」
「このままじゃ、ストームは確実に終わります。もしかしたら、この疑惑を明るみに出すことで、それが止められるかもしれない。その可能性が少しでもあるのなら、私、やってみたいんです」
「それはあたしも考えた、あんた以上に考えたよ」
 ケイが苛立ったように立ちあがった。
「でもどうやって?何ができる?手がかりは白馬の騎士だけ、成功する可能性より、リスクの方が大きすぎる。わかってんのかい?大物政治家への収賄容疑だ、あたしらが関わるレベルをとうに超えてんだよ?」
「私たちはできることを、できる範囲ですればいいと思うんです」
 ケイとの間に火花が散ったような気がした。
 先に目をそらしたのは、ミカリだった。判っている、ケイにとって大切なのは、ストームもそうだが、自分であり、大森であり、高見である。この冗談社を守ること。それがケイが、一番に考えてくれた事だ。
 自分も、高見も、大森も、決して他人には言えない残酷な過去を持っている。行き場をなくして彷徨っている所を、ここにいるケイに拾われたのだ。
「すいません」
「いいよ、アタシは元来臆病なんだ、ミカリが謝ることじゃない」
 苦笑したケイが、再び元の席につく。
 うつむいたミカリは、それでもやはり、顔をあげてケイを見ていた。
「……それに、私、彼女のことも放っておけないんです」
「彼女?」
「筑紫さんと消えた彼女……大澤絵里香です」
「…………」
「私のこと、結局一度も出なかったんです」
 ケイが、いぶかしげに眉をあげる。
「……言っていませんでしたけど、私、東京を出る少し前に、会ってるんです。大澤絵里香と」
「…………」
 大澤絵里香。
 筑紫の唯一の相棒で、ミカリにとっては、自身を地獄にたたき落とした裏切り者。
「彼女、私のことは何もかも知っていました。片瀬りょうと末永さんのケースと同じです。写真も、テープも……東條聡を落とすための証拠が、周到に用意されていました」
 ミカリは何も変わらないのね、感情移入しすぎて、取材対象と正しい距離が保てない。
 編集者としても失格だったけど、記者としても失格よ。
 どうせ耐えられないんでしょう?だったら、とっとと東京を出て行きなさい。
「……正直言えば、その夜、死んでしまいたいと思ったほどです」
 でも……。
 出なかった。
 結局一度も、ミカリと聡のスキャンダルが、紙面をにぎわすことはなかった。
「……あの頃、東條聡には、もっとおいしいネタがあったから」
 そこは少し言いにくそうに、ケイ。判っている、グラビアアイドルとの熱愛発覚のことだろう。
「そうかもしれません、私もそう思ってました、……でも」
 それでも、と、ミカリは思う。
 それでも、もしかして――絵里香はあの時。
「とにかく、私、大澤絵里香の所在だけでも、もう少し調べてみたいんです」
「いいけど、注意した方がいいですよ」
 声は、背後から聞こえてきた。それまで、いや、今日一日、一言も口をきかなかった高見ゆうり。
「……どういう意味ですか」
「ケイさんの推測どおり、筑紫さんの失踪には、間違いなく東邦が噛んでるからですよ」
 パソコンを見つめたままの高見は、顔さえあげずに声を返してきた。
「彼らは存在ごと、隠匿された可能性があるってことです。ここからは、決して表に出ない闇の部分です。あまり深入りしない方がいい」
「……あんた、白馬の騎士を追ってたんじゃなかったのかい」
 ケイが立ち上がる。
「だから、捕まえたんです」
 高見が言った。相変わらずその目は、17インチの液晶画面に向けられている。
「捕まえた?」
「追跡には成功しました。でも、その先に進めない」
 ケイとミカリは、その高見の背後に立つ。
 黒い画面に、読みとれないほどの速さで解読不能の文字が表示され、流れていく。
「たどり着いたネットワークに、ものすごいプロテクトに守られた箇所があるんです。いってみれば、ペンタゴン級の」
「……つまり?」
「軍事並ってことです」
 ミカリとケイは、互いの顔を見合わせている。
「破るには、特別なソフトがいります。まぁ、市販はされていないでしょうが」
「判ってると思うけど、違法なことはよしときなよ」
「心配しなくても、私レベルじゃ手も足も出ませんよ」
 淡々と言い、高見はキーを叩き続ける。
「もしかするとここまでたどり着いたこと自体がトラップだったのかもしれません。でも、今の話を聞く限り、ここに導かれたことへの必然性はある」
「どういう意味だい?」
 ケイの問いかけに、高見は初めて顔をあげた。
「そのネットワークが、東邦EMGの社内ネットだったからですよ」
「東邦の?」
 ケイが声を荒げる。ミカリもまた緊張していた。
 淡々とした声で、高見は続けた。
「これがトラップでなきゃ、間違いありません。白馬の騎士は、東邦EMGの人間です」
「…………」
 ミカリは思わずケイを見ている。
 勿論、罠という可能性もある、が、これは――もしかすると、願ってもない内通者かもしれない。
 蟻の這い出る隙間もないほどの鉄壁な守りを誇る東邦の中に、もし、獅子身中の虫がいたとしたら。
「一芸能会社が、軍事級の防御ソフトまで使って、一体何を守ろうとしてるんでしょう、非常に興味深いと思いませんか」
 高見の声は笑っている。
「高見……あんたは」
 溜息をついてケイ。
「これは、白馬の騎士から私への挑戦なんです。ケイさんが止めても、私、その謎を解き明かすつもりですから」 
 その高見の表情が、ふいに固まるのが同時だった。
「どうした」
「やられました。やっぱり私の動きは、完全に読まれてるみたいです」
 高見は無言でディスプレイを指し示す。
 ミカリは、目を凝らしていた。
 暗い画面には、またもや白馬の騎士が踊っている。
 そこに、小さな文字が流れ始めた。
「……僕は、救世主……?」
 ミカリは眉をひそめていた。

 僕は救世主、白ウサギを探せ。



              54


 長い手紙を書き終えてから、柏葉将はようやくほっと一息ついた。
 都内だから、今投函すれば明日には届くだろう。
 暗く陰る客室の照明。締め切った窓から、冬の雨の匂いがした。
 今年の冬は暖冬になりそうです。ひがな観ているテレビがそう言っていた。そうじゃなくても雪など降らない東京の街。この雨が、雪に昇華することはないのだろう。
―――悪いな、りょう。
 もう少し早く決断してればよかったのに、俺がいつまでもぐずぐずしてたから。
 携帯を取り上げて、少し考えてからメールを開いた。
 四人には、毎日メールを入れている。憂也とりょうからは返ってこないが、後の2人からは、毎日のように返ってくるし、近況報告もある。
 今日も、未開封のメールが二件きていた。
 
 今日は完璧、サイコーの出来。
 アンコールで手広げるのが超キモチいい。
 俺もしかすると、マジで役者の才能あるのかな。
 怖くなるぜ。

 いや、ないだろ。
 将は思わず苦笑している。
 せっかくチケットもらったのに、観にいけなくて、ごめんな、雅。

 尾崎君と二人で上映館に営業しに回ったよ。
 最悪、自主製作映画のコンテストに出そうかって話してる。
 俺もそうだけど、現場の連中はみんな明るい。
 心配しなくても、大丈夫だからね。


 聡のことは、悪いけどこれっぽっちも心配してねーよ。
 むしろ、俺なんかより、全然大人だと思ってるからさ。
「柏葉君」
 ノックと共に聞きなれた声がする。
 将は手紙を裏返しに置いて、ロックを外して扉を開けた。
「悪い、遅くなった」
 入ってきたのは片野坂イタジである。
「相変わらず、息がつまりそうだな、ここは」
 声は明るかった、けれどその頬は、げっそりとやつれている。
 都心の外れにあるビジネスホテル。ここに逗留してから、もう一週間以上たつ。
「そっかな、結構快適だけど」
 将は笑って、傍らのベッドのスプリングを軽く叩いた。
「それに、俺が自分で決めて、こうしてることだから。むしろ会社に迷惑をかけて、申し訳ないと思っています」
 口元にわずかな微笑を浮かべ、室内を見回していた片野坂の目が、ベッドサイドのトーブルで止まる。
「手紙か?」
「ちょっと実家に、いろいろ心配かけてんで」
「そうか」
 特に疑うこともなく、イタジは軽く将の肩を叩いた。
「行こう、下に車を待たせている」
「はい」
 何の用で、とイタジは言わないし、将も聞かない。
 将がマスコミに出るのを一切拒み、ここに居続ける理由を、何も聞かずにいてくれるように。
「唐沢さんは?」
「記者にべったり張り付かれてるからな。別便で行かれた、向こうで落ち合う段取りになっているよ」
「そうですか」
 サングラスをかけて上着を羽織る。髪を少しだけ整える。
「ネクタイは……どうかな」
 鏡の背後で、腕を組んでイタジが呟く。
「いいですよ、別に」
 将はわずかに肩をすくめた。「就職試験にいくわけでもないし」
 笑うイタジの目元に、寂しさが滲んでいる。
 二人で連れだってエレベーターホールに出る。すれ違う宿泊客も、地味なスーツに、会社員にしては浮いた髪をしたサングラスの男が、今、テレビで騒がれるだけ騒がれている暴力アイドルだとは夢にも思わないだろう。
「……ひとつ、訊いてもいいか」
 フロアの照明が眩しいのか、すがめられたイタジの目が落ちくぼんでいる。
 将はそれを、横眼で見ながら頷いた。
「もしかして、君には、こうなることが最初から判っていたのか」
「…………」
「今日のことも、特に驚いた風ではなかっただろう」
「……どうかな」
 曖昧に、将は頷いた。
「……判ってたのとは少し違うけど、真田さんが、いずれ俺に接触してくるだろうとは思ってました」
 そうか。
 力なくイタジは頷く。その唇が何かを言いかけ、そのまま閉じられた。
「君は、その時を待っていたのか」
 最初は、別のことを聞こうとしたのだろう。将はそれには答えず、昇ってくるエレベーターのランプを見つめる。
 これから向かうのは、東邦EMG本社ビル。
 呼び出された唐沢と将を待っているのは、――すでにジャパンテレビの取締役に名を連ねた、真田孔明。




                

 

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