49


「馬鹿野郎!!」
 幕が下り、袖に降りた直後だった。いきなり襟首を掴みあげられる。覚悟はしていたが、衝撃の方が大きかった。
 初めてみるような顔で、雅之を睨んでいるのは、普段温厚で、決して感情を荒げないおはぎである。
 カーテンコールに出たばかりの出演者、スタッフみんなが息を飲んで見守っている。
「この舞台なめてんのか」
 低く押し殺したような声がした。
 雅之は何も言えない。息もできず、声も出ない。もともと体格はプロサッカー選手にもひけを取らないおはぎである。
 苦しさに呻いて、身をよじる。
「なめてんのかって聞いてるんだよ!」
 冷たい床の上に投げ倒される。
 雅之は咳きこんで、よろめきながら立ち上がった。
 舞台に立っている間中、雅之を支配していた苛立ちや憤りのようなものは、全て飛んで真っ白になっていた。今判るのは、自分がとんでもないことを――絶対にしてはならない時にしてしまったということだけだ。
「すいませんでした」
 震える声で、雅之は言った。
 今まで何があっても、決して感情を荒げることがなかったおはぎの激しさが、今日の雅之の失態が、どれだけの深い意味を持っているかを物語っているようだった。
「見損なったよ」
 冷たく突き放した声がした。
「おはぎさん、そこまで言わなくても」
 女性スタッフの声、けれどおはぎの怒りは収まらない。
 動けないままの雅之を見下ろし、さらに冷徹な声でおはぎは続ける。
「今日、君は、自分の舞台を自分の手でぶち壊しにしたんだ。君らに少しでも同情した僕がバカだった。やっと判ったよ、さいたまアリーナ、君らのコンサートが中止になったのは、妨害のせいでも観客のせいでもない、君ら自身の甘えのせいだ」
「…………」
 俺たち自身の。
 甘えのせい。
「女ばかりの観客のせいか、野次を飛ばした記者のせいか、誰かのせいにするのはやめろ!今日だって君は、誰でもない、自分自身に負けたんじゃないか!」
 真っ白な頭の中に、おはぎの言葉だけが何度も響く。
 何度も、何度も。
「……本当に、すいません」
 俺……。
 言いかけて、雅之は零れた涙を指で拭った。
 心の底に、深く深く、おはぎの言葉がしみていく。
 怒っているのは、それでも雅之を大切に思ってくれているからだ。成長させようとしてくれているからだ。スポンサーの降板、打ち切りの危機、今日の初日まで、どれだけみんなが苦労してこの舞台を育ててきたか、知らないわけではなかったのに。
 なのに。
 なのに、俺は。
 最低のことをした。
 取り返しのつかないことをした。
「とにかく……着替えて、反省会でもやろうよ、な」
 場を取りなすように誰かが言った。
 スタツフや出演者が、一人一人ためらいがちにカーテンの向こうに消えていく。
 最後におはぎが、一度だけ雅之を振り返り、そして静かにきびすを返した。
「……ありがとう、おはぎさん」
 雅之はそれだけ呟いたが、おはぎの背中は止まらなかった。
 静けさの中、一人になる。
 先ほど聞いた言葉がまだ、胸の中で尾を引いている。
 君らのコンサートが中止になったのは、妨害のせいでも観客のせいでもない、君ら自身の甘えのせいだ。
 今日だって君は、誰でもない、自分自身に負けたんじゃないか!
 ぼんやりと空を見つめながら、雅之は、夢から覚めたような思いで、その言葉の意味を噛みしめる。
 俺たちが、負けてしまったもの。
 俺たちが……負けてしまったもの。



             50


「反応は上々のようだな」
 朝刊を開く真田孔明の声は、いつになく上機嫌だった。
「そのようで」
 屹立したままで、耳塚は短く答える。
 前後の説明を聞くまでもない。柏葉将に対する止まらない批判。綺堂憂也が日本中の期待を集めていた映画から降板させられていたこと、あろうことかそれを、一か月以上もスポンサーに隠していたこと。そして初めての舞台で、素行と性格の悪さを見事に露呈してくれた成瀬雅之――。しかも。
「綺堂が、消えたか」
 ボスの問いに、耳塚はゆっくりと頷いた。
「オフィス水嶋の社長と共に、どうやらロサンゼルスあたりに隠れているようです。スポンサーを激怒させた上に、たちの悪い金融会社の借金も抱えている。頼みの綺堂は、一切仕事が入らない――あの会社はもう、終わりでしょうな」
「こいつらも懲りない奴らだ。またぞろ同じパターンで自滅していくか」
 ひとりごちる真田に、耳塚はかすかに笑ってみせる。
「なにもかも筑紫君のおかげですな」
 オフィス水嶋がひた隠しにしていた綺堂のスキャンダルを暴くことができたのは、ひとえに筑紫亮輔の嗅覚のなせる技である。
 成瀬の舞台潰しに一役かったのも、筑紫が飼っていた不良記者の一人だ。
 綺堂が致命打なら、明日発売の週刊誌が、実質最後のとどめになると耳塚は思っている。ストームが抱えている最大の爆弾、片瀬りょうの父親の醜聞。
 随分前に筑紫が売りこんだもので、一度はお蔵入りとなったが、ストームバッシングの波に乗って出すことに決めたのだろう。そういう意味では、血も涙もない連中だ――マスコミは。
「私は、何も指示しておりませんので」
「ふん」
 それには鼻で笑い、真田は開いていた紙面を閉じた。
「真咲しずくがいなくなってからというもの、J&Mは格段に動きが鈍くなったな」
 柏葉は沈黙を守り、綺堂は消えた。この最悪の状況で、いまだJ&Mは、釈明会見のひとつも開こうとしない。被疑者不在のまま、メディアはストームを叩き放題、いいかげん食傷気味になってきたほどだ。
「小娘の居所は、まだ掴めないか」
「日本を出たところまでは掴めています。しかしもう大丈夫でしょう」
 耳塚は時計をちらりと見ながら答えた。
「もう戻ることはないでしょう。以前も報告しましたが、再発が確認されたのが去年の春……まぁ、二度と戻ってこないと思いますな」
「そう考えると、かわいいものだな」
 真田の口元に憐みの微笑が浮かぶ。
「所詮は女だ、最後の最後に、父親の仇打ちがしかたったわけか。ストームを犠牲にしてまでも」
 時間です、耳塚は言った。真田は頷いて立ち上がる。
「浅葱建設と鏑谷プロはどうなっている」
 背広を羽織りながら真田。
「先生を通じて警告済みです。じきに動きを見せるでしょう」
 心配されなくとも、耳塚は続けた。
「奇蹟の再リリースを引き受けたアーベックスにも内乱が起こっている。J&Mの崩壊は目前です。あなたの出番は――そこからですよ」
 

            51


「……うん、色々手を回してもらったんだけど、どうにもならなかったったみたいで」
 電話の向こうから、力ない声が返ってくる。
 りょうは、慙愧の思いを噛みしめながら、携帯電話を強く握りしめた。
「……本当に……ごめん」
 暗い廊下。膝を抱えたまま、顔を伏せる。
 遠い故郷の静かな町で、これから家族がどんな惨禍に巻き込まれるか。
 想像するだけで、息苦しくなり、胸が引き裂かれそうになる。
 再び家を出たいと言った時、電話の向こうの人は何も言わず、翌朝、机の上に預金通帳だけが置かれていた。
 名義は片瀬澪。随分古いのに、初めて見るものだった。
 開いてみて、苦しさから唇を噛みしめた。
 子供の頃のものだった、お年玉などがそのまま貯金されている、そこに、最近になって、多額の金額が振り込まれている。
 その時に、初めて気がついた。
 息子が、いずれ東京に戻ることを。
 この人もまた、随分前から覚悟していたのだ――。
 どこかから、雨の音が聞こえてくる。
「なにもかも、俺のせいで……」
 澪は呟き、そのまま唇を噛みしめた。
 もう、言葉が出てこない。
 おふくろが死んだのも、今、父親が社会的地位を失おうとしているのも、どう言い訳しようと、それはまぎれもなく息子が有名人になってしまったからだ。
 窓の外は灰色の雨、一人きりの部屋。
 唐沢直人が借りているマンションの一室に、今、りょうと聡は間借りして住んでいる。唐沢も聡も仕事で戻らず、今夜、残っているのはりょう一人だ。
 憂也とは、あれから連絡が取れなくなった。
 CMスポンサーは、法的措置も辞さないといきりたち、テレビでは、海外逃亡などと囁かれている。でも、憂也に限って絶対に逃げるはずはないと、りょうはそれだけは信じている。
 ただ、唐沢がいくら連絡を取ろうとしても、オフィス水嶋からは一切の返答がないらしく、本当に逃げ回っているのか、水嶋と憂也、二人の行方はいまだ判っていないらしい。
 雅之の舞台は、初日で大きく躓いた。
 観客席に向かって怒鳴り返す映像は、形を変え、悪意を混じえ、何度も何度もオンエアされた。
 考えうる限りの、最悪の状況。
 暖かく思えた目は、今は恐ろしい毒矢となって、5人に襲いかかり、叩き潰そうとしている。
―――同じだ……夏の時と……。
 それでも救いはひとつだけある。
 一番辛い目にあっているはずの将から、毎日のように届くメール。

 元気か。
 ちゃんと飯食ってるだろうな。
 俺は元気だから、あんま、余計な心配すんなよ。
 歌の練習、しっかりしてろよ。
 いつでもコーチしてやるから、暇だったら電話してこい。
 

 毎日毎日、……本当は、一人でホテルに閉じこもっている将の方が、よほど精神的にきついだろうに、そんなことはおくびにも出さず、メールは、りょうのことを気遣うものばかりだ。
 聡にしても、それは同じだ。あとはアフレコを済ませるばかりになっていた主演映画は、この騒動を受け、上映館からの受け入れ拒否が相次いだ。打ち切られたミラクルマンセイバーのテレビ放送復活も、企画だけで立ち消えとなった。
 一度聡とスクープされたグラビアアイドルが、さも嬉しげにワイドショーの取材に答え、聡のことをあれこれ勝手に語っている。
 苦しくないはずがない。憤らないはずがない。
 なのに、聡も、自分のことは一言も話さず、むしろりょうのことを心配してくれてばかりいる。
―――本当は……。
 苦悩で息がつまり、りょうは自らの目を押さえた。
 判っている、全ての根源は自分にある。誰も何も言わないが、りょうだけはそれを知っている。何を言われても、将がひたすら沈黙を守っている理由を。
 どうしたらいいんだ、俺は。
 どうすればいいんだ。
 何もかも捨てて戻ってきたのに、もう怖いものはないと思ったのに、結局は何も変われなかった。みんなにすがるばかりで、荷物になるばかりで、迷惑をかけるばかりで――俺が……。
 俺がいたばかりに、ストームは。
「澪……」
 かすれた声が、受話器の向こうから聞こえてきた。
 澪は、黙って、その声に耳を傾ける。
 父は、全てを失うだろう。
 美貌と財力を持つ父は、若いころにいくたの不倫を繰り返し、女をゴミみたいに捨ててきた。因果応報といえばそれまでだが、今父は、故郷で真面目に仕事をし、確実に地域社会との信頼を築いていたのに。
 途絶えていた雨の音が聞こえてくる。
 電話が切れても、りょうは、ぼんやりと窓の外を見ていた。
 そして、父が最後に言った言葉の意味を考えていた。
 


               52


「えー、本日、株式会社ジャパンテレビは、東邦EMGプロダクションと正式に業務提携いたしましたことを、ここにご報告いたします」
 見慣れた顔が、満面の笑みを浮かべ、向かい合う男と握手を交わしている。
 一人はジャパンテレビの社長、東宮晴彦。たどれば皇族の血を引いているという雅な男だ。買収をめぐり真っ二つに割れたジャパンテレビの中で、常務から一気に取締役社長の座に躍り出た。からくりは考えるまでもない、この男が東邦との内通者だからだ。
 対峙する男は、東邦の現社長、篠田真樹夫。唐沢にも面識があるが、柔らかな面差しをした温厚な男だ。物腰も低く、その地位特有の強引さもない代わりに、決断力もない。
 社長職にはどう見ても若すぎる容貌は、この会社が年功序列を排した、いかにも近代的で画期的なシステムを採用しているとアピールしているようだが、実のところ、真田会長の実子だから、それだけの理由である。
 東邦EMGは、長年にわたりずっと――おそらくこの先も、真田孔明一人によって支配されていく会社なのだ。
 笑顔で円満解決ぶりをアピールする両者は、今まであれだけ世間を騒がせたことなど、まるでなかったかのように振る舞っている。日本史に残る巨大な買収劇、その影で一体いくらの金が動いて、いくらの人間が欺かれ、切り捨てられてきたか――。
 ストームとJ&Mも、いずれそのひとつとして、振り返る時がくるのだろうか。
 背後では電話がひっきりなしに鳴っている。
 唐沢はそれを無視したまま、目の前のテレビ画面を見つめていた。
「今回の買収に絡みまして、国民の皆様に、多大なご迷惑、ご心配をおかけしたことを、ここに改めて謝罪いたします」
 篠田真樹夫が、神妙な面持ちでマイクを取った。
「特に私どもが、東邦さんとの確執に絡み、報道被害という形で、暴行事件の被害者でもある一般人を傷つけてしまったことは、とれだけお詫びしても足りないことだと思っております」
 東宮晴彦。
「今後の方針といたしまして、同じ過ちを決して繰り返さぬよう、格別の配慮をもった番組づくりをしていく所存でございます。視聴率を得るために犯罪歴のあるタレントを起用するなどもってのほか、そのような軽挙盲動は、今後一切行わないことを、ここにお約束いたします」
 それは――実質、ストームを、今後一切テレビから干すという宣言に等しい。
 唐沢は無言で、テレビを切った。
 久々に戻った小さな事務所は閑散として、机にも、床にも、ほこりが薄く積もっている。
 アーベックスから、正式に奇蹟再リリースの中止が伝えられたのは、一時ほど前のことだった。これも明日、大きなニュースになるだろう。アーベックスをここまで育て上げた業界の異端児、荻野灰二は突如取締役から解任され、副社長がその座についた。周到に用意された内紛劇に、果たして東邦が絡んでいたかどうか、それはもう、知るよしがない。
 鏑谷プロでは、近日中にも、臨時の取締役会が開催される。決議事項は鏑谷会長の引責辞任について。鏑谷と一部取締役の対立が激化し、もう、そうするしか株主を説得できない、それが電話で聞いたカンの説明だった。
 ライブライフは再びマスコミの猛攻撃にみまわれ、織原は、その対応に追われている。当然だが、社内では社長解任の動きも出ているだろう。
 レインボウには――少なくとも、資金面では絶対に迷惑をかけてはいけないと、唐沢は思っている。
「うちなら大丈夫ですよ、何があっても対応できるよう、準備は念入りにしておきますから」
 すっかり痩せた前原大成は、それでも元気に笑ってくれたが、コンサートが中止、もしくは失敗に終われば、彼が率いる小さな会社の命運も尽きる。
 そして今、事態は急激に、その段階にまで移行しようとしている。
 携帯が鳴る。着信の相手を見て、唐沢はそれを耳に当てた。逢坂真吾。
「そうか、ダメだったか」
 昨夜、第一報を受けた時から、もうこの決定が覆ることはないだろうと、覚悟はしていた。
 ゲネプロ先でもある幕張メッセが、当日の混乱を理由に正式に断ってきたのである。
「悔しいです……」
 電話の向こうから、今日1日、なんとかその決定を覆そうと奔走してくれた逢坂の、軋むような憤りが聞こえてきた。
「でもこんなのってありなんですか。今になってキャンセルなんて、俺らにコンサートを中止しろって言ってるようなものじゃないっすか」
「…………」
「榊さんに相談したら、訴訟を起こせば勝てるかもしれないって言われましたよ。でもそんなことしてる間に、ドーム公演が終わっちゃうじゃないですか」
 耐えていた怒りが爆発したのか、逢坂は早口でまくしたてる。
「まるで人ごとみたいに冷めてるんですよ、あの弁護士さん。真咲さんがいなくなっちゃったからですかね。てゆっか真咲さんって、そもそも何がしたかったんですかね」
 わずかに息を吐いてから、唐沢は電話を持ちなおした。
「前にも言った。彼女は自分の仕事をここまでと決めて、やり遂げてから消えたんだ。プライベートな理由までは俺は知らん。しかし、もらったチャンスを生かすも殺すも、それは俺たち次第だと言ったはずだ」
「チャンスか……」
 呟いた逢坂が、かすかに笑うのが判った。
「今更だけど、こんなことになると判っているなら、最初からジャパンテレビに出させるべきじゃなかったんだ」
「今更だ、判っているなら口にするな」
「だってもう、判ってんですか、唐沢さん!」
 悲鳴のような声がした。
「ゲネプロができないってことは、本番ができないのと同じなんです。これじゃ消防の許可だって下りない、コンサートは、中止するしかなくなるんですよ!」
 12月24日の最終リハーサル、ゲネプロ。確かに言われるまでもなく、ドーム規模のリハができるキャパは限られていた。この時期からそれを探すとなると、もう不可能と言ってもいいだろう。
「なんとかするしかないだろう」
 唐沢はつとめて冷静に言った。
「野外でもどこでもいい、セットが組める場所を、探すしかない」
 唐沢にも判っている。あれだけの規模の、そして特殊な演出を盛り込んだコンサートを、リハーサル抜きで敢行するのは不可能だ。
 巨大な機材が組み立てられるステージは、一歩段取りを間違えると、死に繋がる危険もある。危険な演出も数多く盛り込まれている。フライングひとつをとっても、スタッフとアーティストの息があわなければ、絶対にやらせるわけにはいかない。
 しかし逢坂にはそう言いながら、そんな場所を今から押さえること自体、無理だろうとは察していた。
「いいにくいですが、まだ、ありますよ」
 怒りをかみ殺した声が続ける。背後からは陰鬱な雨の音がした。
「……移動用トラックを契約している日野原通運、電源車をレンタルすることになっていたKAZAMI建設さんからも、断りの電話が入ってきました。申し合わせたように、今日になって」
「………そうか」
 それも、予想できなくはなかった。
 浅葱悠介の父親を名乗る男から電話があったのは、一昨日のことだ。息子さんの現在の所在は関知しない、と唐沢は答え、一時でも巻き込んでしまったことを丁重に詫びたが、男の怒りは収まらなかった。
 日野原もKAZAMIも、浅葱建設の主要取引先の一つである。
「……論外に、ですが、浅葱建設さんからの圧力があったことを、示唆されました。今さら言ってもしょうがないですが、柏葉君が案じていたとおり、家出している浅葱悠介君のことが、その原因かもしれないと」
「……もう、うちとは関係のない人間だ。しかしそれを言っても始まらないだろう。わかった、前後策は明日考えよう」
 あえて、事務的に答え、唐沢は電話を切った。
 今日考えても、明日考えても、結論は同じだろう、――策など、ない。
 ここが、終わりか。
 ここが俺たちの、戦いの行きつく場所か。
 この先に、真咲しずくが見ていた未来がもしあるとしても、5人の若者が、その5人に賭けた男たちが、夢の全てを失うことにはかわりはない。
 あります!
 大丈夫です!
 もう一回ストームができるなら。
 俺、どんなことだって耐えられます!
 明るい声が、まるで過ぎた青春の残滓のように、部屋のどこかから聞こえてきた。
 楽しかったな。
 ふと、笑みが漏れていた。ここで笑えるとは、俺も随分変わったものだ。それが、何故だかむしょうにおかしい。
 不思議だな。
 唐沢は思う。
 これからしなければならないことは、もうある程度みえているのに、関係者の負担や負債を最小限に抑えるために、やらなければならないことは判っているのに、どうして俺は、こうも静かな気持ちでいられるのだろう。
 もう一度電話が鳴る。今度は片野坂イタジからだった。
 挨拶も前置きもなく、いきなり男は、衝撃的な事実を切りだしてきた。
「片瀬が消えただと?」
 さすがに唐沢は立ち上がっていた。
「いつのことだ」
「ほんの数時間前のことです。今日は随分落ち着いていたから、油断したのが間違いでした」
「…………」
 言葉が、何も出てこない。
 ここ数日、片瀬が相当追いつめられていたのは知っていた。父親のゴシップが出ると聞かされた日から、夜もろくに眠らず、食事も殆んどとっていない。
 夏の二の舞をさせてはならない、忙しいイタジを常に片瀬の傍につけるようにしたのはそのためだ。
「……手紙が、置いてありました」
 電話の声は、明らかに憔悴していた。口調には、慙愧の思いが滲んでいる。
「しばらく休みたいと、財布くらいしか持ち出していないので、おそらく実家に戻ったんじゃないかと思います」
「………………」
 唐沢は目を閉じる。眉を寄せたまま沈思する。
 これで、本当に終わったか。
 それでも自分を支えているものが崩れないのが不思議だった。
「ストームの連中は、こんな時でも互いが互いを支え合って、よくやっていたと思いますよ」
 イタジの声が、必死で冷静さを取り繕っているのがよく判る。
「あいつらはこんなになっても、絶対にコンサートができるって、心の底から信じてるんです」
「…………」
「それでも……、乗り越えられなかった」
 声が、かすれた。
「唐沢さん、……僕の口から、言いたくはありませんが、」
「………………」
「……もう、……」
 言葉が途切れ、電話の向こうで男がすすり泣きをしているのが判った。
 悲しいのではない、悔しいのだろう。
 ここまでストームを支えてきた片野坂イタジ。それはもう、損得とかそういうものではない、仕事を超えた、親のような愛情だ。そのイタジが、多分こう言おうとした。
 もう、諦めましょう。
「責任は全部、俺にある」
 唐沢は、優しい声で言った。
「とにかく今は落ち着いていろ。東條と成瀬のフォローを頼む、それから柏葉にも気をつけてやってくれ」
 電話の向こうで、それでも気丈な返事が返ってくる。
 首をくくるしかない、結末か。
 電話を切った唐沢は、静かな眼差しを冬の空に向けた。
 なのにどうして、俺はまだここにいるのだろう。
 なのにどうして、すべきことに、まだ手をつけられずにいるのだろう――。




                

 

                 >next >back 

 
          
感想、お待ちしています。♪内容によってはサイト内で掲載することもあります。
Powered by SHINOBI.JP