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「よっしゃ、こんなところかな」
「わっ、すいません」
どさりと降ってきた段ボール。
凪は慌ててそれを両手で受け支える。その腰を横からぱしんと叩かれた。
「あんた細いのにいい腰してるねぇ」
「は、はは」
あまりうれしくない褒め言葉。
穴倉みたいな倉庫を出た途端、先を行く九石ケイが激しいくしゃみを連発した。
「ここに来るといっつもこうなんの、何かアレルギーの元でもあるのかな」
ずずっと鼻をすすって、またくしゃみ。
確かに……。
と、凪は自身の頭にはりついた糸くずみたいなものを横眼で見る。
両手が自由になれば早くむしりとりたいが、どうやらそれは蜘蛛の巣のようだった。
神田、九石ビル四階。その一角にそなえつけられたゴミ捨て場――もとい、資料室。
冗談社が収集した取材資料、雑誌等々が、天井までぎっしりと収められている。中で確認したところ、それは昭和の時代にまでさかのぼり、かなりレアなものもありそうだった。
「向こうの部屋使いなよ、今は誰もいないと思うからさ」
ケイが顎で廊下の向い側を示す。
「すみません、迷惑かけます」
「ま、正直言えば、すっごく無意味なことやってんなぁって思うけど」
それには、凪は二の句が継げない。
先月の夜、歌舞伎町。
ここにいる人にも、前原大成にも――そして雅之にも東條聡にも、凪は、どう詫びても足りないほどの迷惑をかけてしまったのである。
そして今日も、それに絡んだ頼みごとをするために、冗談社を訪問した。ケイに言われるまでもなく、自分でも無駄なことをしているんだろうな、との自覚はある。そして、やっていることへの迷いもある。
が、ふいにケイは、いかめしい相好を笑うように崩した。
「それが若さなんだろうね。いいんだよ、誰が何言おうと、どんだけ批判されようとさ、あんたが気がすむまでやれば、それでいいんだ」
「……人に、迷惑かけてまですることじゃないですよね」
「そういうことはね」
勢いよく背中を叩かれる。
「分別ついたあたしら大人が考えることで、誰かの迷惑になるとか誰かが傷つくとか、あんたはなーんにも考えなくてもいいんだよ。だって、どっかで誰かが壁こわさなきゃ、世界ってのは絶対変わらないんだから」
「…………」
世界は、
絶対に変わらない――。
「やっと判ったよ。あんたらみたいな無鉄砲な連中が壁を壊して、それを修復するのが私ら大人の役目なんだってね。つかそれ、柏葉将に教えてもらったんだけどさ」
柏葉さん。
凪は、ぼんやりと瞬きをする。
「あんた見てるとストームの連中思い出すよ。いや、あんたよりはるかに馬鹿で無鉄砲なことやらかしてんだけどさ。あいつらは」
ストーム。
先週から今週にかけての騒動のことを思い、凪は、わずかに表情を陰らせている。
柏葉さんは、ストームは、今どうしているのだろう。
「……ここも、先週まではものすごい騒ぎでさ」
パンツの埃を払いながらケイは続けた。
「どうにも仕事にならないんで、ミカリは大森のマンションに緊急避難させた。ま、うちは、最悪私と高見がいればなんとかなるからね」
怖くて誰も近づけないみたいだしね。そう付け加えてケイは鼻に皺を寄せる。
先週まではものすごい騒ぎ。
今は……どうなんだろう。
凪は、そっと人気のないビル内を見回す。
二階にある冗談社も、三階にあるJ&M事務所も、階段の下は静まり返っているようだった。
ケイは凪の視線に気づいたように苦笑すると、開きかけの窓を閉める。
十一月初旬。まだ日差しはまぶしいのに、もう風には冬の匂いがひそんでいた。
「下の事務所は開店休業状態。電話もつながらないようにしてるから、それでようやくマスコミも足が遠のいたって感じかな」
「みなさん、どうされているんですか」
「直人の自宅が事務所代わりだよ。てゆっても小さな貸しマンションだけどね。まぁ、しょうがないよ、あれじゃ仕事なんてできやしないさ」
「……本当に、すごいことになりましたね」
もう、あの衝撃の一夜から十日あまりが過ぎている。
あの夜。
ストームのメンバーが正式発表された同日夜、ジャパンテレビでストームを特集したドキュメンタリー番組が、午後8時、いわゆるゴールデンタイムに全国ネットでオンエアされた。
翌日、ビデオリサーチ社が公表したその視聴率は29.7パーセント。
裏番組の貴沢秀俊、東邦のメディア買収を特集したニュース番組を大きく抜き去り、ドキュメンタリーでは脅威ともいえる異常な数値を叩きだしたのである。
「テレビってのは、本当に数字が全てだからね。視聴率絶対主義、数字のためならモラルなんて簡単に捨てちまう連中揃いだ」
ケイが自嘲気味に呟くとおり、その翌日から、各局のワイドショーが、こぞってストームの映像を流し始めた。
結成、苦節、成功、転落……その過程をドラマチックに編集し、そして将は、城之内静馬の無念の死を晴らす、悲劇のヒーローに祭り上げられていた。
復活柏葉将、父の仇打ちコンサート。
亡き父に捧ぐ「奇蹟」
城之内静馬を死に追いやった黒幕とは?
「……いってみれば、何もかもジャパンテレビのシナリオどおりだよ。あいつらはストームの知名度を利用して、東邦とケンカしたいだけだったんだ」
ケイは、口惜しそうに唇を噛む。
確かにその通りだった。ストーム擁護論は、それはそのまま当前のように、東邦プロダクション――真田孔明への批判・バッシングにつながった。
当時、いかに巧妙な手段で真田が城之内静馬を追い詰めたか。さらに発足したばかりのJ&Mへ、いかに卑劣な妨害工作を加えたか――さえも、当時の関係者の口から赤裸々に告発されたのである。
世間のバッシングに押されてか、東邦の株式買い増しは進まず、買収はこう着状態。
そしてジャパンテレビは、週明けの今日、株主に向けて「MBO」――マネジメント・バイアウト。経営陣買収の可能性があることを公表したのである。
凪もコメンテーターの解説を聞いて初めて知ったのだが、MBOとは、社員が株主から株を買い取るなどして、経営権の一部を譲り受けるという、一種の買収防衛策らしい。
その呼びかけに応じ、すでに大手株主が株売却の意向を示しているなど、世論の風向きは概ねジャパンテレビよりのようだった。
それが、ジャパンテレビが描いていたシナリオなら。
確かにストームは、柏葉将は、利用されただけだったのかもしれない。
「でも……」
凪は、控え目に言葉をはさんだ。
「奇蹟が、もう一回リリースされることになるって聞きました」
しかしそれは、ストームにとっても、想像以上の追い風になったのである。
一度は廃盤に追いやられた「奇蹟」が、アーベックスから再リリースされることになっただけではない。
東京ドーム公演、一般販売枠はほぼ一秒でソールドアウト。回線はパンクし、五万のチケットに二十万人からの応募が殺到。それも大きな話題となった。
東條聡の主演映画も、成瀬雅之の主演舞台も、同様に大きな注目を浴び、放送中止となったミラクルマンセイバーの復活さえ囁かれている。ストームの誰かがワイドショーに出ない日を探す方が難しいほどだ。
「ま、アタシもそこまでいくとは思わなかったかな。まさにトントン拍子ってやつだ。テレビのオンエアに噛んで、真咲さんは最初からアーベックスに打診してたんだろうね、奇蹟のリリースをさ」
ケイはさばさばと言って、凪の髪から白い糸の塊をなぎ払う。
「奇跡っつーか奇術だね。得体のしれない帽子をのけたら鳩が山ほど出てきたって感じ」
本当に、奇跡だ。
凪は、思う。
殆んど死に体で、むしろ世間の同情を買っていたストームは、たった一夜にして、押しも押されぬスターダムにのし上がったのである。
その背景にジャパンテレビと東邦の争いがあったにしろ、それを上手く利用し、波に乗ったのは――まさに奇術としか言いようがない。
「ま、……今は、怖いほど順風万帆ってとこなんだろうけど」
それでもケイの苦笑は陰っていて、その理由は、なんとなく凪にも判った。
いきなりヒーローにされた柏葉将は、それをどう思っているのだろう。
記者にコメントを求められても、どこか硬い表情でありきたりな受け答えしかしない柏葉将は、本当に、この展開を望んでいたのだろうか。
そうではないような気がした。
おそらく柏葉将は、父親の仇打ちなどというセンチメンタルな感情で復活を決意したわけではないはずだ。もしそうなら、それは逆にエゴという気もする。
凪には、インタビューに受け答えしている将が、まるで普段の彼らしくないように見えた。むしろ、彼の本意ではない部分で周りが騒いでいる分、――以前より痛々しいようにも見えた。
「怖いのは、……ま、今それ言っても仕方ないか」
言いさしたケイは、ふっと笑って肩をすくめた。
凪も笑ったが、ケイの言いたいことは理解できたつもりだった。
東邦から、未だに何の反撃もない。反論さえない。それが怖いと言いたいのだろう。
「光が当たれば影ができる、前と同じさ」
ケイはそう言って、肩を落としたまま背を向けた。
「影に呑まれなきゃいいけどね……前みたいに」
ひとつ、聞いてみたかったことがあったが、切り出す言葉が出ないまま、凪は一人取り残される。
真咲副社長、突然の辞任。
明るいニュースの中、それはささやかな不安要素のように、小さく取り上げられていた。
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「今のところ、目立った動きはないですね」
電話から聞こえる声は冷静だった。
「ならいいけどさ」
ケイは机の端に尻を預け、肩で挟んでいた携帯を持ちなおす。
ようやく火のともった煙草が、ニコチン中毒に餓えた体内を満たしていった。
「ただ……ケイさんの予測どおり、今週に入ってテレビの論調がトーンダウンしてきましたね。おそらくネット上の反発を意識してのことでしょうが」
ミカリの声が続ける。
ケイは目をすがめて窓越しの曇り空を見上げた。
世論。
その見えない悪魔は、まだ形としてその姿を現していない。
「マスコミ自身が、報道が偏りすぎたことにようやく気づき始めたというかんじです。一部識者も、この報道合戦の裏にジャパンテレビの世論操作を読み取り、……また、柏葉将の事件や彼の父親が殺人未遂という大罪を犯したことを忘れてはいけないと、ブログや論評で警鐘を鳴らしています、ストームは」
ミカリの言葉が、そこで切れる。
「下手したら、スケープゴートにされる可能性があるね」
後を継いだケイの言葉に、返ってくる返事はなかった。
危険水域が近付いてきたな。
ケイは、自身の杞憂が現実味を帯びてきたことに眉をしかめる。それには憂いというより、むしろ憎悪がこもっていた。
あの女――
今度見つけたら、絶対に息の根を止めてやる。
またやりやがった。また、手品を仕掛けるだけ仕掛けて、一番肝心な時にあっさりと姿をくらませやがった。
あれだけスタッフ全員の信頼と期待を一心に背負いながら、いともあっさり。
「ネットの反応はどうだい?」
「ひどくなる一方ですね」
事実を、淡々とミカリは述べる。
開店休業状態の冗談社。ミカリは大森のマンションに住み暮らし、今はストームに関するネット情報を拾いながら、世論の動向をチェックし続けていてくれる。
「擁護論が主流をしめたのは、オンエア後2日程度です。すぐに反対派が主流になり、今やネットでストーム擁護の意見を吐こうものなら、たちまちブログが炎上するといった有様です」
「アンチストーム、アンチJ&M……もともとが世の男性の嫉妬の的だったからねぇ、アイドルは」
努力もしない、勉強もできない、これといった才能もない、ただ顔がいいからというだけの理由で選ばれたラッキーな子供たち。それが芸能界で脚光を浴び、ちやほやされて女からはもて放題――。
それが、世間一般からみたアイドル像だ。
学力や努力で世渡りをしている男性からみれば、なんとも言えず苦々しく疎ましい存在だろう。
夢を持つことができず、うらぶれている連中からしてみれば、なんとも腹立たしい、いっそ死ねばいいとさえ思われる存在だろう。
選ばれた彼らが、その後過酷な競争を生き抜き、偏見ゆえに立ちふさがる高い壁を、どれだけの努力と気力で超えていかなければならないか――何も知らずに。
『情熱王国』
あの番組には、恐ろしく危険な両刃の剣が含まれている。
最初から、ケイはそれを危惧していた。
はっきり言えば、今、テレビがストームを持ち上げすぎるのは、危険なのだ。
むしろ冷遇され、批判される程度でよかったのだ。
唐沢直人が自身を悪人にしたてあげた最初の記者会見、あれで成功だったのだ。
無関心層でもある大衆は、マスコミがストームを無視することで満足し、小さな批判は多少起きても大きな波にはならなかったはずだ。
後は、柏葉将の名前を出すタイミングさえ見誤らなければいい。それで、全ては上手くいくはずだったのだ。
幕さえ開けば、ドームは確実に満員だったろう。ストームのファンは、最終的なファンクラブ会員だけで十万を超えていた。その半分がファンをやめてしまったとしても、それでも何万ものファンが、復活を待ち望んでいたはずだ。
―――だからアタシは言ったんだ。
ケイは自然に唇を噛む。
大きな風を起こすと直人は言った。しかし、心ごと信頼していた相棒に失踪され、今直人は精神的にもひどく追い詰められている。
確かに大きな風は吹いた、しかしその風は、いつ向かい風となって新生J&Mに襲いかかるかわからない、まさに両刃の嵐なのである。
そして、ケイは知っている。世論形成の過程には、ある時点までは一定のパターンがある。
いきすぎた反発には、逆の反発が必ず起こる。その天秤が偏りすぎた途端、正論であると思えたことに、それと同じ重さの異論が出てくる。
その異論が、やがて正論に思えたことを覆していく。人とは、常に他者より優位な思考を保ちたいものなのだ。他者――すなわち大多数の代表だと思われているマスコミの論調には特に、絶対にそれに反発する論調が出てくる。
怖いのはここからで、逆にマスコミが、そのネットの論調に歩を合わせ始めたら――「世論」とは、ここではじめて形成されるものなのである。
今、その予兆がネット上に満ちている。
しかし、それにも当然反発はある。そこから先は、読み切れない変化と流れに満ちている。バタフライ効果、北京で蝶が羽ばたくとニューヨークで嵐が起こる。そのくらいに予測不可能なカオスの世界。
正直、それから先の展開はケイにも全く予測ができない。対象者の反応ひとつでまるで違った結末になる。そこに、一定のパターンなどないからだ。
が、現実に今、ストームを取り巻く状況が、ケイが思うところの「世論形成」に移行しつつあることだけは間違いないような気がした。
ネットの論調がマスコミを動かす前にそれを止めなければ、ストームは再び夏と同じ惨禍に巻き込まれる。
「その炎上騒ぎだけどさ」
ふと気づいてケイは言った。
「誰かが意図的にやってるって可能性はないかい」
ネット上の情報操作――片瀬りょうの彼女がスクープされた時に同じことが起きたはずだ。高見ゆうりが掴んだアクセス元のひとつに、冬幻社、ケイの元上司で、今や真田の御用聞きになりはてた筑紫亮輔の会社が洗いだされた。
しかしケイは、それにはやや猜疑的な思いを拭いきれない。
筑紫は――こう言っていいなら、取材上沢山の危険な修羅場をくぐり抜けている男だ。違法取材はお手の物だし、ネットのノウハウも知りぬいている。その筑紫が、あれほど判りやすい痕跡を残したりするだろうか。
「それは……調べてみますけど」
「頼む、高見は今、それどころじゃなくてさ」
ケイは、横眼でちらりと相棒を振り返る。
いつから帰ってないんだろ。
と、さしものケイが呆れるほどの異常さで、高見はここ三日、ずっとパソコンと向き合い続けている。
「まぁ、やるだけやってみますけど、期待しないでください」
「わかってる、危険な真似はしなくていいよ」
筑紫にとっては、ミカリもまたターゲットの一人だ。筑紫には、ミカリの元同僚の大澤絵里香という相棒がいる。ミカリの裏も表も全て知り尽くしている女――おそらく東條聡との関係も掴まれている。ミカリは、それを理解したから東京から姿を消したのだ。
電話を切った時だった。「きた」囁くような、けれど抑えきれない歓喜に満ちた声がした。
「どうした」
ケイは、声の主を振り返る。
高見ゆうりは血走った眼で、画面に刻まれるコードの動きを追っていた。
「引っかかったんですよ、例のナイトが」
白馬の騎士か。
ケイもまた、かすかな緊張を感じつつ、その背後に立っている。
「実はシステム内に罠を仕掛けたんです、ハニーポット、はちみつの壺」
「なんだよ、それ。クマのプーさんでもひっかけるつもりかい」
「カッコウはコンピューターに卵を産む、ご存じじゃないですか」
「……?」
「1987年、一人の天文学者がハッカーを捕まえるために作り出したトラップです。偽のデータベースを作って、ハッカーをその中に誘いこむんです。通信ログをとってハッカーの居場所を逆探知するんですよ」
「そんなことできるんだ」
いつもそうだが、あまりその手の話には深入りしたくないケイである。
どこまでが犯罪でどこまでがそうでないのか、正直さっぱり判らないからだ。
「専用ソフトなら市販でも買えますよ。ただしこれは、私が三日がかりで作った特製の追跡用ソフトです、性能は半端じゃありません」
高見の場合、これは完全に私怨である。
彼女の全頭脳を用いて構築した冗談社システム(実際、そこまでする必要は何もない)に侵入され、あろうことかファイルの一部を書き換えられたのだから。
その時画面に現れた白馬の騎士の動画を、高見は執念深く自らのパソコンの壁紙に据えている。
しかし今となっては、白馬の騎士の存在もまた、予測不可能な未来へ繋がる事象のひとつに違いなかった。
一体、その正体は何者で、何のために近づいてきたのか。
「ま、頑張って、アタシは見ざる聞かざるだからさ」
何かが、起きようとしている予兆がある。
それが判っているのに、何もできない。
ケイは無言で溜息を吐いた。
アタシには、所詮、後始末しかできないのかね。
誰かが壁を壊すのを、ただ祈ることしかできないのだろうか――。
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