31


「おつかれ」
 一階のロビー。エレベーターの前に立つしずくの表情は明るかった。
 将はポケットに手をつっこみ、その傍に歩み寄る。
「先帰ったのかと思ってたよ」
「ごめん、だってあの人と一緒にお茶なんてぞっとしないもの」
 あの人――ああ、と将は納得する。ミミヅカ、と呼ばれていた真田に付き添っていた男のことだ。
 珍しいな、と、将は思う。もし外見のことを言っているなら、しずくとは、決して他人の容貌や服装で好き嫌いを判断したりしないのに。
「車?」
「ううん、でも送ってくれなくていいから」
「いや、俺も電車で来たからさ」
「あはは、今夜から有名人よ?奮発してタクシーで帰りなさい」
 肩を並べて歩きながら、聞かないのかな、と将は思う。
 俺があのおっさんに何言われたか、聞かないのかな。
 前も、そういやこんなことがあった。ミュージックアワードの時だ。真田孔明が一人で将の楽屋に現れて……あの時も、この女は、それを止めようとも聞きただそうともしなかった。
 信じられていると……思いたいけど、それだけでもないような気もする。それが何かと聞かれれば分らないが。
 エントランスを出た時だった。黒塗りのベンツが車寄せに止まっている。将としずくを待ちかまえていたように、中から一人の男が降りてきた。
「お送りしますよ」
 耳の、別の場所から聞こえてくるような声だった。
 ミミヅカ――耳塚だろうか、食事の間、真田の後ろに控えていた不気味な老人。
 慇懃に一礼し、男はあるかなきかの笑みを薄い唇に浮かべた。その目はあいからわず、あらぬ方に向けられている。
「お乗りください。会長に申し付かっていますので、ご遠慮なくどうぞ」
 鋭いものがこすれあうような不愉快な音階。人は目で会話するとはよくいったものだ。焦点の定まらない目が、ここまで他人を不安にさせるものだとは思わなかった。将も思わず身構えている。
「遠慮しておくわ」
 しずくが、その将の前に出た。背中がすでに嫌悪感をあらわにしている。片手を将の前にかざす様は、見ようによっては庇っているようにも取れる。
 将はようやく気がついた。耳塚という男としずくは、今日が初対面ではないのだ。これ以前に、何か――互いに不愉快になる形での邂逅があったに違いない。
「お気持ちはありがたいけど、私たち他に仕事があるの、真田会長によろしくとお伝えください」
 男は笑った。笑ったのだろう、多分。唇だけが赤く大きく左右に広がる。
「テレビを拝見しましたよ。まさに大胆不敵、というやつですかな」
 しずくの背中は動かない。
「が、正直、多少がっかりしましたよ。ジャパンテレビまで巻き込んで……メディア戦略はお得意のようだが、あれがあなたの言うところの切り札ですかな。だとしたら残念としか言いようがない」
「何がおっしゃりたいのかしら」
「いいえ、ただゲームというのは、最後にカードを切った方が勝ちだと、そういうことですよ」
「…………」
「会長の手元には、まだまだいくらでもカードがある。あなたには他に何がありますかな」
 耳塚の視線が、定まらないまでもじっとしずくに注がれている。底の底まで見透かすように、まるで衣服の下に隠しているものでも見ているように。
「ご身辺に、別れたご主人がつきまとっているようですな」
 ふっと笑いのような息をついて耳塚が言った。
 それに、顔をあげていたのは将の方だった。
「おせっかいな人なの。別れても私のことが心配でたまらないみたい」
 平然としずく。
「いい心がけです。あなたほどの美人なら、何がおきても不思議ではない。身辺には十分ご注意なさい」
「ご忠告ありがとう」
「これ以上、あなたのマネジメントやらで、ストームのイメージが黒く染まらないことを祈っていますよ」
 きびすをかえした男の背が、車の前で再び振り返る。
「今後のためにはっきり言ってあげますが、今夜のテレビ放送は致命的な失敗でした。実際、あらゆる意味においてね。それまで上手くやっておられただけに、他人ごとながら悔やまれます」
 しずくの動かない背中を、将は見つめる。
 最初と同じで慇懃に一礼し、耳塚は車に乗り込んだ。
 ゆったりと、優雅な車体が二人の前を移動していく。
 生ぬるい夜風が額を撫でる。雲が月を覆っている。将は暗い夜に視線を馳せる。これからどうなるんだろう――この夜の向こうに、一体何が待っているんだろう。運命のドームまで、あと二か月。
「もう少し時間ある?」
 え、と将は顔をあげる。
「ちょっとつきあって」
 振り返ったしずくの横顔は笑っていた。



               32


「唐沢さん、なんて?」
 聡が電話を切った途端、かたずを飲んで見守っていた雅之の声がした。
「……うん」
 言いにくいな。
 聡は振り返り、各々の定位置に座ったまま、こちらを見つめている三人の顔を見る。
 五人が寮代わりに使っているマンション。午後十時、夕方から出かけてしまった将をのぞき、全員が揃っている。
 雅之、りょう、憂也。
「将君、今、どこにいんのかな」
 ソファの上で、膝を抱いたままりょうが呟く。
 暗く陰るりょうの顔には、先ほどテレビを見た衝撃の余韻がまだ残っている。
 雅之にしてもそれは同じで、ひどく陰鬱な目をしている。憂也はむっつりと押し黙ったまま、先ほどから一言も口をきかない。
 気持ちは、聡も同じだった。
 まさか――あそこまで、センセーショナルな内容だとは。
 城之内静馬を追いこみ、究極、死にまで追いやったのは、東邦EMGプロの真田孔明。はっきりと社名や個人名は出なくても、結局はそう言っているに等しい内容。
 あの番組は、ストームの宣伝などではない、聡はじんわりと襲ってくる衝撃と共に、ようやく理解しつつあった。
 あれは、形を変えた東邦バッシングなのだ。
 だからジャパンテレビは、あえてテレビで干されていたストーム起用に踏み切ったのだ……。
「唐沢さんも、詳しいオンエアの内容までは知らなかったらしい」
 苦いものを吐き出すような気分で、聡は言った。
「みんなで今……真咲さんの居所を探してるみたいだ」
 ようやく繋がった事務所との電話。
 電話に出てきたのは片野坂イタジだった。その慌てふためいた口調から、今、事務所が、どれだけ混乱しているのがうかがい知れた。
 君らは事前に知っていたのか。
 イタジの第一声が、まずそれだった。
(今夜の放送は、真咲さんがジャパンテレビに企画を持ち込んで、彼女一人が構成もチェックも全部やったものなんだ。唐沢さんには簡単な企画書しか渡されていないし、無論、僕らも詳しい内容まで知らされてはいなかった)
(唐沢さんにしても、真咲さんを全面的に信じてるから一任したんだ。……もしかすると彼女も、今回はジャパンテレビに利用されたのかもしれないが)
 しずくはいない。将も、いない。
 将君……こんな時に、どこにいるんだよ。
 聡は唇をかみしめる。
 迂闊だった――メディアの怖さは、夏の事件で身にしみて知っていたはずなのに。
「どういうことだよ」
 雅之が、眉をしかめて立ち上がった。
「今、上がそんなことでもめてる場合なのかよ、一体どういうつもりなんだよ、真咲さんは!」
「今更怒ったってしょうがねぇだろ」
 珍しく沈んだ口調で、憂也。
「今夜のテレビで、世論がどう変わるかわかんねぇけどさ。……もしかすると、いい方向に向かうのかもしんないけど」
 苦い吐息をもらし、憂也は軽い舌打ちをした。
「つか今回は俺も抜けてた。真咲さんを信じすぎてた。少なくとも今日の番組、あれはストームの復活とは全く別もんになっちまってたな」
 聡は無言で、唇を噛みしめる。判っている、今夜のメインはストームじゃない。しずくの意図だったか、しずく自身もジャバンテレビに欺かれたのかは知らないが、今夜のメインは――城之内静馬だ。
「……将君、これから……前みたいなことにならなきゃいいけど」
 膝の上で拳を握りしめながら、りょう。
 身震いを感じ、聡はリビングの窓が開きっぱなしになっているのに気がついた。
 カーテンの向こうで、膨らんだ夜が揺れている。
「…………」
 夜の闇が、見えない恐怖となって襲いかかってくるような気がした。
 見えない敵が、この闇の向こうで牙をむき出して、様子をうかがっているような気がした。
 どうなるんだろう、これから。
 どうなるんだろう、ストームは……。



              33


「君はテレビ、観てないんだ」
「え?」
「なんでもない」
 乾いた小気味よい音がする。
 勢いよく振り下ろされたバット――実際、フォームはひどいものなのに、球はきれいな起動を描き、夜の空に吸い込まれていった。
「いつまでやんの」
「君もやったら?すっきりするから」
 夜のバッティングセンター。
 こんな時間なのに、利用客がちらほらといる。本格的な体格の持ち主から、いかにも飲み屋帰りのサラリーマンまで。
 俺とこいつって何に見えるんだろう。ボックス裏のベンチに座ったままの将は、やや呆れた眼差しをバッターボックスに立つしずくに向ける。
「つか、やけになってるとしか思えないんだけど」
「だって、むかついたんだもん」
 また一発。
 特大のアーチが夜空に消える。 
 ボーリングで、フォームも球筋もひどいのに、何故かいつもストライクを出すのと同じだ。さっきから一球も外すことなく、しずくは球を打ち上げ続けている。
「言われっぱなしってのが性にあわないの。あーーっっ、悔しいっっっ」
 また一発。
 むしろ、その激しさが恐ろしくさえある。
「だったら言い返せよ」
「できないわよ」
 将は立ち上がって、しずくの手からバットを取った。
 しずくが下がり、将がバッターボックスに立つ。
「なんでだよ、お前らしくもない」
「だって、言ったじゃない」
 何を。
 唸り声をあげた機械から、意外なほどの速さで白球が繰り出されてくる。
「これは、私の戦いじゃないもの」
「…………」
 空振り。
「下手」
「うっせーよ」
 もう一球。
 気を取り直して、将は真剣な目で身構える。球は今度はあやまたず、しずくより大きなラインを描いて、ネットめがけて飛んで行った。
「さっすが男の子」
 椅子に腰かけたしずくが盛大に手を叩く。
「当たったら気持ちいいね」
「でしょ?あとでもっかい変わってね」
「……つか、まだやんのかよ」
 芯が球を捕らえるたびに、しずくの歓声が夜に響く。
 不思議だな。
 なんだろう、この時間は。
 まるで昔に戻ったみたいだ。俺が子供で、あいつが俺の家庭教師だった頃。
 再会して初めてだ。あの時みたいに無防備に、互いが互いの傍にいる。まるでそれが、昔から決まってた当たり前のことみたいに。
「飲み物買ってくるけど、何がいい」
「甘いのはパス、水かお茶にして」
「オッケー」
 将の腕を軽く叩いて、しずくがひらりときびすを返す。
 将はその背中を見送ってから、再びボールに向き合った。が、ボールを捕らえようとした刹那、背後から聞こえた大声で手が止まる。
「どっちもなかったらどうするー?」
「い、いいよ、なんでも」
 つか、聞くなよ、そんな大声で。
 みんなが振り返ってんじゃん、恥ずかしい。
 駆けていく背中が、プレハプの扉の向こうに消えていく。将は自分の目が、今、ひどく優しくなっていることに気がついた。
 自分の中で。
 幸福と不安が、曖昧に溶けて混じり合っている。
―――こうやって、また、少しずつ。
 日常の、ささいなことの積み重ねで。
 俺にとって、あいつが、ますますかけがえのない存在になっていく。
 どっかでもう、諦めているのに。
 この先何年も先の未来、二人が同じ場所に立っているとは、どうしても思えないのに。
 りょうの言うとおりだな。
 将はふと苦笑している。
 俺たちには、多分、今しかない。人と人のかかわり方が運命みたいに決まっているなら、それはもう動かせないような、寂しい予感がぬぐい去れない。
 ボールが切れる。
 額には薄く汗が浮いていた。
 手の甲でそれを拭い、ふと将は、しずくを一人で行かせたことに、わずかな胸騒ぎを感じていた。
 そういえば、少し時間がたちすぎている。無人の受付カウンターはすぐ傍で、自販機はその隣にあったはずなのに。
「…………」
 まさかね。
 あの不気味なおっさんが、おかしなこと言ってたから――。
 多少の苛立ちを感じつつ、将はバットを置いて歩き出す。
 別れた主人って御影のおっさんのことだろう。まだあのおっさんのこと引きずってんのかな。というより、何か別のやっかいごとにでも巻き込まれているんだろうか。
 どうせ聞いても、教えてはもらえないだろうけど。
「……どうしたんだよ」
 しずくは、自販機横のベンチに腰かけていた。
 ほっとした将は、その傍に歩み寄る。
 が、片手をあげたしずくは、明らかに表情が陰っていた。顔をあげると笑ってはいたが、目にはまるで精彩がない。
「気分でも悪いのか」
「もう年なのね、急に酔いが回ってきちゃった」
 酔い?
 食事の席では、飲むどころかほとんど食べていなかったのに。
「帰ろう、泊ってるとこまで送るから」
「……うん……」
 珍しく曖昧に口調を濁し、しずくはミネラルウォーターのペットボトルを将に手渡した。しずくがそのまま動かないので、将は仕方なくその隣に腰を下ろす。
「もうちょっと、いいかな」
「……いっけど」
 なんだろう。
 今夜のこいつは、本当にへんだ。
 静けさの中、しずくのものか将のものか、携帯が震える音がした。
 多分、互いの携帯には、着信やらメールやらが溜まりっぱなしになっている。テレビのことだろう――多分。
 出なければならないのは判っている。けれど今夜、今だけは、少しでいいから現実を忘れていたいような気がした。
 将は無言で、しずくの手に自分の手を重ねた。
「……休んでく?」
「誘ってるの?」
「ばーか、そんなんじゃねぇよ」
 面白そうに笑ったしずくが、ようやく目に生気を浮かべて将を見上げた。
「花火しない?」
「えっ、今から??」
「うん」
 将の手の下で、しずくの手のひらが向きを変えて、自然に指をからめていた。
「いこっ、そうと決まったら、時間がもったいないし」
「え、つか」
 お前、気分悪かったんじゃ……。
 その言葉さえ言う間もなく、手を引っ張られて走り出している。
「おい、マジかよ」
「どこで売ってるだろ、コンビニかな」
「無理だって、今何月だと思ってんだよ」
 夜風が涼やかに額を撫でる。
 手を繋いで夜を駆ける2人を、月が柔らかく見下ろしている。



             34


「……なに?」
「いや、本当に見つけてくんのがすげーなと思ってさ」
 で、こんなとこまで来ちまう俺もすごいと思うけど。
 夜を映した海の向こうに、東京の街がきらめている。
 風が少し冷たかった。それがごく淡く、潮の香りを含んでいる。乾いた砂は、刻む足跡をすぐに新しい砂で覆っていく。
「静かだねー、世界に二人だけしかいないみたい」
 しずくはすでにヒールを脱ぎ棄てている。
 将も靴を脱いで、砂だらけの靴下を払って素足になった。
 レンタカーで、約一時間。
 東京からさほど離れてはいないのに、随分遠くへ来てしまった気がする。
 黒い岩陰。しゃがみこんだしずくが、持っていた紙袋から花火を取りした。
「火、つけてくれる?」
「いいよ」
 案の定季節外れの花火なんて、どこのコンビニにも置いていなかった。
 しずくはそれを、コンビニ店員に頼みこんで、店員の家に残っていたものを譲ってもらったのである。
「いつもそうだったな、お前って」
「んー?」
「絶対無理でムダなことで、それが実現不可能だって判ってても、ものすごくあきらめが悪いんだ。ものすげー執念深い女だなって、正直昔は怖かったよ」
 向かい合ってしゃがみこむ2人の顔を、赤と黄色の火花が明るく照らしだす。
「たっまやー」
 明るく笑うしずくの顔は、まるで十代の、初めて出会った頃のように見えた。
「……そうでもないよ」
 それは花火が燃え尽きるとともに、暗く、どこか寂しげに陰る。それが光陰の見せる気のせいだと判っていても、将は火が消える度に、理由の見えない不安を感じた。
「そうでもない、諦めたこともいっぱいある……。世の中にはどうにもならないことがいっぱいあって、それがむしろ当たり前なんだって、……判った時はさびしかったな」
 炎に照らし出されたしずくの手首が、思わず手を延ばしたくなるほど儚く見えた。
「それに、諦めた方がいいこともある。こだわって前に進めなくなるくらいなら、どこかで諦めて、他の道を選んだ方がいいこともある……」
 将は顔をあげていた。
 しずくの喋り方が、いつもと違う。
「昔ね、……どうしてもどうしても、……どうしても、諦められないことがあってね」
「…………」
 将のことを、年下と見下している喋り方ではない。
「そのために私、当時大切にしていたものを、何もかもなくしたのね。……多分、その時、君のこともなくしたんだと思う」
 俺のこと。
「……何が、あったの」
 多分、しずくがいきなり姿を消した時のことを言っているのだろう。
 本当にいきなり、全ての繋がりを断たれた時の。
 花火をかざして、しずくは首を横に振った。
「……言えないし、言いたくない。わかるのは、マリさんに殴られるまで、私は周りが全然見えてなかったってこと。ものすごくバカな真似をしようとしてたってこと」
 マリさん。
 眉をひそめた将の気持ちを察したのか、しずくは笑って言い添えてくれた。
「海老原マリ、覚えてないかな。片瀬君の舞台の演出やってた人」
「……ああ」
 あの、怖そうな老婦人。
 やっと将の中の、ひとつの疑問がほどけていく。彼女が、以前聞いた真咲真治の元恋人で……そのつてで、しずくはりょうを、劇団ラビッシュに預けたのだ。
「あの時はね、もうそのためなら、死んでもいいって思ってた。何もかもなくしていいと思ってた……ばかね、若かったから、自分が死ぬことなんて絶対にないと思ってたから、そんなこと軽々しく言えたのね」
「…………」
 何があったんだろう。
 将には、当時のことは想像さえできない。ただ、突然姿を消して、一切連絡が取れなくなって、どのクラブを回ってみても、誰も消息を知らないような――そんな不可思議な消え方をしたのだ。
 たくさんの約束をしていた。
 来年の夏の花火、ライブで一緒にステージにたつこと、バイクの乗り方を教えてもらうこと、それから、それから……。
 思い出すだけで、胸が苦しくなるほどの、初恋。
「片瀬君に足りないものはなんだと思う?」
 しずくの話題がふいに転換する。花火は、もう終わりに近づいていた。
「彼はね、ある意味本物の天才なの。才能だけなら綺堂君だってかなわないし、綺堂君もそれは判ってると思う。でも、役者として生きていくには、才能だけじゃダメなのね」
「……わかるよ、なんとなく」
 それが、りょうの長所でもあり、致命的な短所でもある。あまりにも強すぎる感受性と、それを受け止めきれない脆弱な神経。
 その不安定さが、表情にも演技にもステージにも出ているから、逆に観客の心をひきつけるのだ。
「大きすぎる才能……でも、心がそこに追いついてないの。一度島根に戻って、随分成長したみたいだけど、まだ彼自身が、殻を破りきってない気がする」
「……これからだよ、りょうは」
 これから。
 年末のドーム、それからその先に待っているステージ。
 いくつもの場数を踏めば、きっとりょうは、もっと大きな世界に羽ばたいていけるはずだ。りょうだけじゃない、雅之も、聡も、憂也も、だ。
「終わっちゃった」
 最後の花火が、小さな火種を残して消えて、それもやがて砂に落ちる。
 暗く闇に沈むしずくの顔から、その表情は読めなかった。
 終わった……か。
 今何時だろう。まるで夢のような時間だった。いや、確かに夢ではないけど、ここを出て東京に戻れば、きっと夢だったとしか思えないような現実が待っている。
 不思議な寂しさを噛みしめたまま、将は、砂の上に落ちた花火の残骸を拾い集める。ついでに、その辺のゴミも拾い集める。くすくすと笑う声がした。
「まめだねぇ、相変わらず」
「うるせーな、お前も拾えよ」
「デートで延々それやってたら、相手冷めちゃうと思うけどな」
「そんな相手はこっちから願い下げ」
「……忠告で言ってあげてるのに」
 立ちあがったしずくが、ふいにゆらめくようにバランスを崩した。将は咄嗟に、それを腕で支えている。拾いかけの花火が脚元に落ちた。柔らかく、思いのほか華奢な身体。
「大丈夫かよ」
「……平気」
 腰にしずくの腕が回され、シャツを強く掴まれる。
 肩を抱いて顔を見ようとした将は、少し驚いて手を止めている。将の肩に額を預けるようにして、しずくはそのまま動かなくなった。
「……どした」
 抱いている身体が、いつになく熱い気がした。首筋にあたる頬にも、不思議な熱が感じられる。
 病気です。でもそれを君が知る必要はないですから。
 御影亮の笑えないジョークが、何故かふいに蘇った。今はボイストレーニングのコーチをしているウッディが、昔しずくと出会った場所――ロスの、ホスピタル。
 まさか。
 想像しても、いなかったけど。
「お前、どっか悪いんじゃ」
「神様って、いるんだね」
 将の声は遮られ、しずくの静かな声が、耳元で響いた。
「……今夜君が、オンエアを見てたら、とてもこんな時間はなかったと思うから」
「…………」
 どういう意味だろう。
 しずくが顔をあげる。
 額がそっと、将の額に押しあてられた。熱をおびた肌、将は息苦しいまでの切なさを感じ、その細い腰を抱いた。
 鼻先が触れて、吐息が重なった。目を閉じる――。
 好きだ。
 愛しい……。
 激しい情熱は、静かに冷めて、やがて深い感情に包まれる。
 決してそれ以上を求めない互いの唇は離れたまま、額だけを重ねて、今の感情を抱きしめる。
「……私のこと、憎んで」
 囁くような声だった。
 将は目をすがめ、顔をあげる。
「憎んで、嫌いになって、絶対に許さないで」
「…………」
「私はそのために戻ってきた。君の記憶に残る私は、もうそれだけで構わないから」
 どういう――
 繋がっていた熱が離れ、しずかに身体が解けていく。
 一人取り残された将を見上げ、しずくは不思議な微笑を浮かべた。
「もう、気がすんだからって伝えておいて」
 気がすんだ?
「……誰に」
「唐沢君、追伸、あとはよろしく」
「………………」
 将は、無言で、その笑顔を見つめていた。意味が、わからない。
 しずくは軽やかに笑うと、きびすを返して片手を上げる。
「タクシー拾うから心配しないで、じゃあね、さよなら!」



               35


「入れ」
 振り返らない真田の背後で扉が開く。
 パソコン画面。大仁多から届いたばかりのリストを眺めていた真田は、軽く嘆息してそれを閉じた。
 東邦EMG株式会社本社。
 最上階にある真田のオフィスに、秘書への伝達なしに入ってこられるのは一人しかいない――耳塚恭一郎。
「そういうものを、データで残すのは不用心ですな」
 真田の背後に立った男は呟く。「なにもかもあなたが確認する必要などないのです。少しは部下を信用したらどうですかな」
「この部屋と同じでな」
 真田は椅子を回して振り返った。
「たどり着くには、恐ろしい手間を踏まねばならん。大仁多がいうには軍事並だそうだ」
「私にはサイバーの世界はよくわかりませんが、ここに来るのはさほど難しいことではありませんよ」 
「それはお前だからだ」
 苦く吐き捨て、真田は立ち上がり、窓辺に立った。
「ジャパンテレビの動向が掴めましたよ」
 陰鬱な声だった。どんな時でも耳塚の口調はそう聞こえる。
「明日十時のワイドショーを皮切りに、城之内静馬を追い詰めた犯人探しを、特集としてオンエアする予定のようです。もちろん彼ら本来の目的であるテレビ局買収の是非をそこにからめて」
「…………」
「メディア買収反対派をずらりと集め、いかに東邦真田が表現の自由にとって危険人物か、じっくりと検証するおつもりらしい。しばらく周囲が騒がしくなるでしょうな」
「好きなようにやらせておけ」
 真田は苦笑して振り返る。
「騒げば騒ぐほど自分の首をしめるだけだ。いってみればこちらの予定どおりだな」
「その通りで」
「準備はできているんだろうな」
「いつでも、あなたのいい時に」
 将。
 君は近いうちに、必ず私の所に来ることになる。
 2005年最後の日、君がドームに立っている可能性はゼロだ。
 しばらくは辛いだろうが、我慢したまえ。正義、そう君の正義は、いずれ必ず、私の手で書き変えることができるのだから。
「標準は11月15日、成瀬雅之の舞台初日だ」
「簡単なことですな」
 真田は満足して腕を組んだ。
「さて」
―――反撃開始だ。











                

 

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