9


 バスを降りて、広々とした歩道を歩く。
 夕暮れ、時折傘をさした観光客とすれ違う。みな、聡たちとは逆の方向に向かって歩いている。この先に何があるのかミカリは言わないし、聡もまた聞かなかった。
 ひとつしかない傘が、自然に2人の距離を近くしている。
「私ね、逃げたの」
 広大な駐車場の傍ら、歩道沿いに文字が刻まれた石柱が規則的に並んでいる。
「どんなえらそうなこと言っても、結局は逃げたの。怖くて怖くて、また同じことになっちゃうんじゃないかと思って、また、何もかも無くして一人ぼっちになるんじゃないかと思って」
 ミカリの横顔は佇む石のように静かだった。
「また、自分の体も心も、コントロールできなくなるような気がして……そうなる前に、逃げたの」
 聡は頷き、傘をミカリの方に寄せてやった。
 雨脚が、少し強くなる。
「自分が傷つくのが怖かった。聡君のためでもストームのためでもない。大人の私が踏みとどまって支えてあげなきゃいけないの、全部判ってて、……逃げたのよ、私」
「…………」
 ミカリさんの言葉。
 ミカリさんの、心。
「読んだよ、ミカリさんの書いたもの、全部」
 聡は言った。
「俺、ミカリさんが逃げたなんて思ってない、それでもやっぱりストームのために、俺のために身を引いてくれたんだと思ってる」
 俺の言葉。
 俺の……心。
「だって、実際、もしあの時、ミカリさんがスクープでもされてたら、絶対俺が将君になってた。もしかすると、もっとひどいことになってたかもしれない」
 どちらも涙のような雨曇りの中、本当の何かを隠している。
 もう、結論は見えているから。
「苦しかったけど、」
 言葉が詰まって、聡は息を吐いて、唇を噛んだ。
 視界にミカリの脚が見えた。カシス色のパンプス、血管が透けそうに白い肌。
「やっと判ったから、俺」
 今は。
「……今は、離れた方がいいんだって」
 言葉がないまま、ミカリが小さく頷くのが判った。
「だから、俺のことは気にせずにさ」
 明るい声、出せてるかな。
 もうミカリを見るのがつらくなって、聡は風景に視線を向ける。
「戻ってほしいんだ、冗談社に、ミカリさんのこと必要としている人たちがいるんだから、あそこには」
「……うん」
 ミカリは頷いて微笑する。
 けれどそれは、暗黙の拒否にも見えた。おそらく戻らないだろう、そんな気がする。
 聡にしても、東京での近すぎる距離が、正直言えばまだ辛い。
 悔しいけど。
 まだ――
 まだ、こんなに好きだから。
「…………」
 どうして、こうなっちゃうのかな。
 本当に、こうするしかないのかな。
 考えると、悔しくて涙が滲みそうになる。でも、結局思考はそこへいきつく。
 ミカリがいなくなってから、何度も何度も考えたこと。
 あと数年もすれば二十代が終わるミカリに、聡は、約束さえしてあげることができない。かつての堕胎を夢でうなされるほど悔いているミカリは、何も言わないが、子供が欲しいに違いない。それはもしかすると、治療によっては実現可能な夢かもしれない。でも――それさえ、聡といるだけで、希望は、可能性は、確実に遠のいていく。
 俺じゃない方が、いいんだ。
 俺じゃない誰かの方が、この人を幸せにできるんだ。
 顔をあげた聡の視界、正面に青碧の三角屋根を持つ横長の建物が見えてくる。
 鹿児島県知覧町。
 ここに来るまでに見た看板で、行先の見当はついていた。
 知覧特攻平和会館。
「意外なとこ、選ぶんだね」
「そう?知ってた?」
「うん、名前だけは」
 来たのは初めてだし、ここにあることも知らなかったが、ドキュメンタリーか何かで存在だけは知っている。
 特攻隊。
 太平洋戦争時、沖縄本土決戦で、爆弾を飛行機に搭載し、いわば人間爆弾として敵船に激突していった日本空軍の若者たちの記録、写真、遺品などが収められている場所だ。
「あと少しで閉館ね、あまりゆっくり見られないかもしれないけど」
「まいったな、俺、涙もろいんだ、みっともないとこ見せるかも」
 庇で傘を閉じながら、聡は苦笑する。
 テレビでドキュメンタリー番組を見たときも、特攻隊員が母親に遺した手紙の紹介で、号泣してしまった記憶がある。
 受付で料金を払い、中に入る。
 閉館30分前、館内に人気はまばらで、静まり返った広い空間に、飛行機のミニチュア模型、遺品、手紙が収められたケースなどが、ゆったりとスペースをとって並べられていた。
 壁には大きなモノクロの写真、当時の模様を収めたビデオ映像が流れ、そして順路側の壁にはぎっしり、特攻隊員一人一人の写真が貼られている。
「私はね、絶対泣かないようにしているの」
 写真を見上げながらミカリが言った。
「私がこの子たちだったら、絶対に泣いてほしくないと思うから、それが同情の涙だったら、なおさら」
 同情の涙。
 その涙が、どういった感情から出てくるのか咄嗟にわからず、聡はミカリの横顔をみる。
「行きましょう、もうあまり時間がないわ」
 ミカリは、微笑して聡をみあげ、先にたって歩きだした。
 人気のない展示場。空気はどこか冷ややかだった。
 あれこれと目を奪われながら、聡の視線は、どうしても壁に並ぶ戦死者の写真に引き寄せられる。
 展示場の壁一面、若い飛行士たちを写したモノクロ写真は延々と、途切れることなく続いている。
 こんなに……いたんだ。
 せいぜい、不幸のくじを引いた数十人が、この死の攻撃に駆り出されたのだと思っていた。
 何人いるんだろう、百人、二百人、いや、それ以上だ。若い、まだ頬がふくよかで、子供っぽい笑顔をそのまま写真にやきつけている。今の若者と変わらない髪型をしている者もいる、気まじめな顔もあれば、絶対にふざけているとしか思えない顔で写っている者も。
 今の聡と、何も変わらない若さと無邪気さが、写真の中で弾けている。
「かわいそうに、みんな洗脳されてたんだねぇ」
 少し離れた場所に立つ、年配の夫婦連れからそんな声が聞こえてきた。
「天皇陛下万歳か、これじゃ、今の北朝鮮の子供と同じだよ、日本も昔は同じようなことをしていたんだな」
 かわいそうに、か。
 聡は苦い思いで、ミカリの顔をそっと見る。
 ミカリが、決して泣かないと言った意味が、少しだけ判ったような気がした。
「今は、国を守るために死ぬことが、なんらもてはやされなくなった時代。だけどこの時代はそうじゃない、彼らがいたから平和があるなんて、綺麗事を言うつもりはないけれど、……自分が覚悟して決めた生き方を、他人に憐れだと決めつけられたくはないわね」
 独り言を言うように、ミカリがそう呟いた。
 歩いているうちに、途切れない写真の数に、聡は次第にやりきれなくなる。写真の年はどんどん若くなる。18歳、16歳。
 さすがに、目を逸らしていた。
 一体、何人の犠牲を出せば、これが愚行だと、人は気付いたのだろうか。
 これほど沢山の若い、これから輝く命をただ死なせた罪は、一体誰が、どうやって背負っているのだろうか。
 子犬を抱いて笑っている特攻隊員と、それを取り囲むようにして映っている四人の写真。聡は足を止めていた。
 特別な写真ではなく、まるで生活の一枚を切り抜いたような若者5人の自然な姿。
 それが、自分に見え、将に見え、雅之に見え、憂也に見え、りょうに見えた。
 聡はミカリには気づかれないように、目の端にたまったものを指で拭った。
 彼らは、この写真を撮ってほどなくして、確実に死んだのだ。 
 たった一人で暗い飛行機に乗って、死を目指して空に飛びだす。
 逃げたいとか怖いとか、思わなかったんだろうか。最後に見る空は、どんな色に見えたのだろうか。
「聡君、人を殺したこと、ある?」
「……え」
 ミカリの手のひらが、自分の腰の当たりに添えられている。
 その辛い意味を悟り、聡は視線を下げていた。
「想像したこと、ある?」
「…………」
 ミカリの横顔は、静かで、虚無で、目の前のものすべてを見ているようで、何も見ていないようで、もっと深い別の何かを見ているような気がした。
「その時、どんな気持ちなんだろうね。戦争の罪深さは、この子たちが無垢な殉教者であると同時に、同朋を殺すという罪を、同時に背負わされてしまったことにあるのかもしれないね……」
 人は、罪深い。
 この時代の延長に今がある、もしかすると、今の延長にこの時代があるのかもしれない。
 閉館が近いのか、館内にメロディが流れだす。
 暗い、重いものを抱えたまま、聡は視線を下げて展示室を後にした。
 この重さは、他人のものではない、聡を含めた人類すべてが背負うものだ。でも、何ができるだろう、ただ陰っていく世界、この未来に再びこの悲劇が待っているとしても、聡には何もできない。
 ただ、小さくて無力な存在。決して赦されない罪を背負ったまま、今の時代の安寧を享受している……。
 先に展示室を出た聡は、出入り口で足を止める。
 入ったときは時間がないので、よく見ずに通り過ぎた、壁一面の、見上げるほどの巨大な絵画がそこにあった。
「………………」
 初めて、聡の目に涙が伝った。
 許しの絵だ、聡は思った。
 炎と煙に包まれた日の丸機。
 操縦席から、赤く焼けただれた特攻隊員の亡骸を、6人の光輝く天女がそっと抱き支え、天に運んで行こうとしている。
 人が背負ったあらゆる罪がこの無垢な少年の魂に凝縮され、けれどそれさえ、救われている、赦されている。大きな、大きな光の中で。
「……ミカリ、さん」
 背後に立つ人に、聡は言った。
「これ、俺の勝手な独り言だから、……聞いて」
 涙がこぼれた、幾筋も、幾筋も。
 俺の罪も、いつかは許されるのだろうか。
「俺は……君と、結婚できない」
 いつか、この残酷な思いも、許される時がくるのだろうか。
「君を……絶対に、幸せには、できない」
 この人を傷つけるために、愛することが。
 聡は、歯を食いしばって、手のひらで涙を拭った。
 俺の言葉。
 本当の心。
「…………別れたくない」
「…………」
「何もできないけど、俺は、何もしてやれないんだけど」
 背後に立つミカリが、そっと手で目もとを覆うのが判った。
「俺が生きている間は……ずっと、そばにいて欲しい……」











 



 

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