7


「びっくりした……いきなり、名前なんて呼ばれたから」
「元気だった?」
「元気よ」
 微笑したミカリは、指の先で、額にほつれた前髪を払った。
「聡君も元気そう」
「体だけは丈夫だから」
 立ったままの2人の前を、二本目の列車が通過していく。
「…………」
「…………」
 髪、伸びたな。
 肩甲骨をゆうに超えた、厚みのある艶やかな髪。切りそろえてあった前髪も伸びて、額で分けてサイドに流している。
 メイクの雰囲気も、少し違って、まるで別の人を見ているようだ。
 あれから、半年近くたってるんだ、そういえば。
 不思議だな、この人との思い出は、何もかも昨日のことのように鮮明なのに。
「どこ、行くの?」
 何故来たのかは、聡は言わない。
 ミカリもそれを、訊こうとはしない。
「んー、久々の故郷だから、いろいろみて回ろうかなって」
「じゃ、俺もつきあっていい?」
「時間、いいの?」
 ミカリは、笑う。含んだようないつもの笑い方。少しかすれ気味の優しい声。
 聡も笑って、ポケットに手を突っ込んだ。
「最近、旅行が趣味なんだ、時間あったら、一人で色々回ってる」
「本当?あの出不精の聡君が?」
「免許も取ったんだ、車は中古のボロだけど」
「方向音痴の聡君が?」
「ひどいなぁ、さっきから何だよ、それ」
「だって、信じられないもの」
 2人で、肩を並べて歩き出す。
 前と同じようで、それでも決して埋まらない距離を開けたまま。
「困ったな、特に行先は決めてないの」
「どこだっていいよ、どこ行ったって初めてだから」
「……うーん」
 ミカリは、迷うような眼差しを、天井から吊下がる電光掲示板に向ける。
 それでもやがて、意思を持って歩き出した背中を、聡は無言で追っていた。
「みんな、元気?」
「りょうは戻ってないけど、他のみんなは元気だよ」
 乗り込んだ列車の行先は、鹿児島。
 空いた車内、二人は隅に並んで腰かける。
 一時会話が途切れ、聡はミカリの膝に置かれた小さな手を見つめる。
 窓ガラスが曇っている。外は降りやまない灰色の雨。
 規則的に揺れる列車は、まるで揺りかごのように暖かい。
「あれから、いろいろあったんだ。……話したら、長くなるけど、本当にいろいろ」
「聞かせて」
 暖かく揺れる車内、聡は沢山の話をした。
 別れてから今までの、本当に沢山の話を。
 ミカリは黙って聞いている。
 おそらく、ミカリの立場では、聡以上に知っていることもあるだろう、でも黙ったまま、ただ優しい眼差しを聡に向けて、静かに、全ての物語を聞いてくれる。
「じゃ、本当にもう一回やるのね、ストーム」
「うん」
「がんばって……私には何も、できないけど」
「ありがとう」
 アナウンスが到着時刻を告げている。
 鞄を引き寄せ、コートを羽織ろうとしたミカリに、聡は未練のように訊いていた。
「ミカリさんは、どうするの、これから」
「フリーで仕事をしていくつもり。まだ食べていけるほどじゃないけど、仕事はいくつか来てるから」
「冗談社には、戻らないの」
「上に唐沢さんがいるんでしょ?」
 ミカリはいたずらめいた苦笑を浮かべた。
「怖くて」
「本気かな、それ」
 少し笑って、それから黙る。
 電車の速度が緩やかになっていく。
「…………」
「…………」
 聡は、膝の上にあるミカリの手に、自分の手を重ねる。
 二人とも、判っているのかもしれない。
 話が尽きてしまえば。
 この小さな旅が終わってしまえば。
 そこが、本当の別れだということに。



                8



「真白……?」
 玄関の鍵は開いていた。
 なのに、日が陰っているにも関わらず、部屋は暗く静まり返っている。 
 不思議な胸騒ぎを感じ、澪は急いで靴を脱いで室内にあがった。
 ひんやりと冷えた部屋は、いつものように、埃ひとつないほど綺麗に片づけられている。
 冷たい空気を感じ、顔を上げる。半ば開いたままのベランダの窓。外には洗濯物が揺れている。
「…………」
 窓からのぞく夕暮れの暗さに不安を感じ、澪は窓の傍に歩み寄った。
 背後で、玄関の扉が開いたのはその時だった。
「あれ?澪、帰ってた?」
 明るい声。
 振り返った澪は、大きく安堵の息を吐く。
「何やってんだよ、……もう」
「何って」
 逆に真白は戸惑っている。その手に抱えられた白いシャツ。
「雨降りそうだから、慌てて来たの、そしたら澪のシャツ、下に落としちゃって」
 普段着、髪をひとつに括っている。いままで店を手伝っていたと一目で判る髪型。
「いいよ、それくらい」
「だって、もう少し遅くなると思ってたから」
 澪の不機嫌に、不思議そうに首をかしげた真白が、その横をすり抜ける。馴れた手で電気をつけ、開けたままのベランダに向かう。
「これ、洗い直さなきゃ」
「いいよ」
「だって、袖に泥がついちゃった。昼過ぎに少し降ったのね、随分地面が湿っていたから」
「いいって」
 言いかけて、言葉を切り、澪は真白の腕を掴んだ。
 驚いた真白を、少しためらってから抱き寄せる。
「……どうしたの」
「別に」
「何かあった?」
「…………」
 何もない、そう何も。
 現実の温みを胸にしてようやく、不思議なほど不安で苛立っていたものが、落ち着いていくのが判る。
「いや、いつも悪いと思ってさ」
 澪は苦笑して、抱いていた真白の肩を軽く叩いた。
「洗濯くらい俺がやるし、掃除だって得意なんだ、前言わなかったっけ、基本一日一回は掃除する人だって」
「知ってる」
 見上げてくれた真白の目も笑っていた。
「その時は、むしろ面倒な人って思ったけど、私も自分で思ってた以上に面倒な女だったみたい」
「なんだよ、それ」
「何もかも完璧にしたいの。きっと、奥さんにしたら、重たくてうんざりされちゃうタイプね」
 澪の腰のあたりを軽く叩き、真白は再びベランダに立つ。
 澪もその隣にたって、洗濯物を取り込むのに手を貸した。
「うんざりはしないけど、男をダメにするタイプだね、真白は」
「なにそれ」
「すっごい、怠け者になりそう、俺」
「澪は今、することがたくさんあるじゃない、仕事だってそうだし、勉強だってそう」
「……まぁ、ね」
 そこは、確かに反論できない。
 真白は、澪の手にある洗濯物を引き取ると、室内のラックに入れて、窓を閉めた。
「澪のことは、私が好きでやってるし、私の判断でやってるの。うちの親にもきちんとそれは説明してる。澪こそ、余計な心配しなくていいよ」
「…………」
 確かに、手におえない。
 まぁ、昔から、この人を制御できると思ったことは一度もないんだけど。
「さ、することしようよ、お互いに」
 きびきびと言う真白のすること、というのは、無論、ロマンスの欠片もないものである。
 澪は、肩をすくめてから上着を脱ぎ、勉強するために用意した卓についた。
「今夜は、少しごちそうするね」
「マジ?」
「うん、うちから少し食材分けてもらったんだ、高級食材」
「フグとか」
「まさか、二人で心中でもするつもり?」
 手際よく洗濯物をたたみながら、真白の声は楽しそうだった。
「今から買い物いってくる、ワインでも飲んじゃおうか」
 澪も自然に楽しくなる。昼間感じた馬鹿げた杞憂が嘘のように思えてくる。
 夢を追うだけが、人生の全てじゃないはずだ。
 追う者からみたら、なんとも虚しい負け犬のようにみえるかもしれないけど、小さな幸せを守ることにも、生きていく意味は必ずある。
 そういう意味では、澪は一度も、東京の過去を未練で振り返ったことはない。
「やっぱり、これ……」
 落としてしまった白いシャツを丹念に見ていた真白が、かすかな溜息を洩らした。
「もう一回洗わなきゃ、今からでも間に合うかしら」
 別に今じゃなくても、と、言いかけた澪は、諦めて口をつぐむ。
 もう、家事のことで、真白に何を言っても無駄なような気がしたし、真白が楽しんでやっているなら、もうそれでいいような気がした。
「雨が降る前に買い物行ってくるね、九州の方じゃ、もうかなり降ってるんだって」
 そう言って立ち上がった真白が、空を見上げてカーテンを閉めた。














 



 

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