5

……病院って、迷路みたいだな。
 いくら案内図を見ても、現在地と目的地がよく判らない。
「えーと」
 聡は戸惑いつつ、メモを取り出し、先ほど電話で聞いたばかりの、病棟の名前を確かめる。
 西病棟308号室 麻生慶一
 別に会って、どうなるわけでも、何を話すわけでもないけれど。
 伝えたいと、それだけを思った。
 あなたの娘さんは素晴らしい人ですと。
 本当に素敵な人なんです、と。
 かえって迷惑かもしれないし、怒られるだけかもしれないけど。
 それさえ伝えずに帰ったんじゃ、本当に何をしにきたのか判らない。努力もせずに理解されるはずがない。今はありえなくても、いつか―――それが、どこかにつながっていくかもしれないから。
 尾崎からのメールで、それを教えてもらったような気がする。
 総合病院、規模で言えば、かなり大きな病院だった。
 方向感覚に疎い聡は、所在なく周囲を見回してみる。
 午後の外来の受付が始まったばかりなのか、一階ロビーは煩いほど混雑していた。雑多な人の声やどよめきや笑い声、そこに交るアナウンスや呼び出し音。思わず、人に酔いそうになる。
「西、……西って、どっちだ」
 うろうろ歩きまわり、ようやく見つけた西病棟。
 階段から降りてきた人の姿に、聡はふと眼をとめていた。
 目を引くすらりとした長身、グレーのワンピースに後ろにひとつでまとめた髪。
 一瞬迷ってすぐに判った。
 ミカリさんの、妹だ。
 麻生由加里。
 無表情で聡の横をすり抜けた由加里の胸には、紙に包まれた花束がある。胸もとに、鮮やかな黄色い花片がのぞいている。
「あー……」
 咄嗟に声をかけようとして、タイミングを逃してしまう。
 早足でロビーをつっきった由加里は、壁際で足を止めた。その前には青緑色のダストボックス。後を追う聡の視界で、女の背中が、手にしたものをダストボックスに投げ込んでいる。
「…………」
 声をかけようとした聡は、そのまま言葉を飲み込んでいた。
 ひどく奇異なものを見てしまったような気がした。例えて言えば、決してみないでくださいと念を押された女の素顔を見たような。
 手にしたものを全て捨て去った女は、せいせいした表情で、再び聡の前をすり抜け、元来た階段に向かって行く。
 聡は、悪いと思いつつも、そっとダストボックスの中をのぞきこんでいた。
 花だ。
 しかも、包装紙に包んだままの、まだ活き活きと色鮮やかな。
 なんで、花なんか捨てるんだろう。
 零れた花を一輪、すくいあげた聡は、その色味に目を止める。同時に、忘れていた過去の一風景が、押し開いた窓から入り込むそよ風のように吹き抜けてた。
 ゴミだめみたいな部屋、投げ散らかされたコンビニの容器、パソコン、むさくるしい汗と垢の匂い、フィギュア、三つ編……。
 窓際に、一輪だけ挿してあった小さな向日葵。
「…………」
 ミカリさんだ。
 閃くように、聡はそう理解した。
 花を掴んで、駈け出した。
 ミカリさんだ。
 間違いない、ミカリさんが、今、ここに来たんだ。



                6



「ちょっと待って」
 階段の半ば、腕を掴まれた人は驚いたように振り返った。
「なんですか、あなた」
「さっきの、花」
 聡は、息を継いで、階段の数段下から由加里を見上げる。すぐに聡を認識してくれたのか、女の表情から驚きが消え、初見と同じ、能面のような無関心さに覆われた。
「ミカリさんが持ってきたんだろ」
「……言われている意味がわかりませんけど」
 眉に冷静な嫌悪を浮かべ、由加里は腕を振りほどこうとする。
「ミカリさんに会いたいんだ、彼女は、僕を避けてるのかもしれないけど」
「私に言われても判りませんし、関係ありませんから」
「いや、だって」
「放してください、あまりしつこくされると人を呼びますよ」
「…………」
 冷ややかに淡々と拒絶され、聡は少し黙ってから、由加里を掴んでいた手を離した。
 親子だからなのかもしれないが、話し方の癖が母親とそっくりだ。
 聡から見れば、どこを切り口にしていいかまるで分からないタイプ。
「彼女の……好きな花なんだ」
 言葉の代わりに、聡はダストボックスから取り出した一輪を、由加里の前に差し出していた。
「お姉さんの、ミカリさんの好きな花なのかな、部屋にも、仕事場にも、いつも飾ってあったから」
 小さな、ミニチュアのようなミニヒマワリ。
 初めて由加里の能面に、かすかなひびが入った気がした。
「……知りません」
「ミカリさん、お父さんには会えたのかな」
「だから知りませんって言ってるじゃないですか」
 一転怒気を含んだ声で鋭く言われ、聡はひるんで口をつぐんだ。
「もういいですか」
「いや……」
 そういうわけにはいかない。
「不愉快にさせたのなら、申し訳なかった、ただ、僕は」
「姉の話なら、一切聞きたくないんです、私」
「………………」
「いい加減に察してください。わからないですか?迷惑なんです」
 判らない。
 ここまで妹が姉を拒絶する、その理由が判らない。
「これ以上しつこくされると、本当に大声だしますよ」
 冷たい目にはあからさまな棘が含まれている。そのまま由加里はきびすを返し、階段を再び上がろうとした。
「どうして嘘をつくんだ、何のために」
 聡は、初めて苛立った声を上げていた。
 階段の半ば、女の足が止まる。
「なんのために、ミカリさんが戻ってきたことまで、隠さないといけないんだ」
 由加里は、言葉を遮るように振り返った。
「ストレスやショックが発作の引き金になるんです。難しい手術を終えたばかりで、今が一番大切な時なんです」
 父親のことか。
 聡は黙る。
「母にしても、もう何年もうつ病同然で、やっと状態が落ち着いてきたばかりなんです、今、姉さんに会わせて、何もかもぶち壊しにするつもりですか」
 とりつくしまもない、能面の顔。
「それを、全部私一人が面倒みてるんです、これからだってそう、それを赤の他人に軽々しく口をはさんでもらいたくありません」
 正論だ、聡には何も言えない。でも、
「会えば……そこから、何かが変わってくるかもしれないじゃないですか」
 辛い過去に蓋をしておいても、何も解決しないのではないだろうか。
 少なくとも聡には、時を止めたままの麻生家が、健全な状態だとは思えない。
 が、由加里は冷ややかに笑って、首を振った。
「ありえません」
「でも」
「姉は、我が家にとっては厄病神ですから」
 その冷酷さに、聡の心の中の何かも、亀裂が入りかけている。数時間前、麻生家で抑えた気持ちが綻びそうになっている。
「そんなこと、会ってみないと判らないじゃないか」
「会わなくても判ります」
「どうして」
「とにかく、会わせるわけにはいきませんから」
「どうして!」
「何度言わせるんですか、父や母のためじゃないですか!」
 互いの口調に熱がこもる。
「君は両親を守りたいんじゃない」
 聡は咄嗟に言っていた。
「君は本当は、自分自身を守りたいだけじゃないか」
 どうしてこんな言葉を吐いてしまったのか、聡自身にも判らなかった。
 言ってから、その残酷さにはっとして、二人の姉妹の容貌や母親の語り口から、こんな浅ましい理由を想像した自身に、嫌悪さえ感じた。
 由加里は何も言わなかった。ただ能面のように白い顔をますます無表情にして、はじめて真正面から聡を見下ろした。
 逆に聡が、今度はその顔を見られない。
「あなた、芸能人ですよね、少し前までテレビで色々騒がれてた」
 少しためらってから、聡は小さく頷いた。どのみち、素性は最初に明かしたつもりだ。
「姉さんの恋人ですか」
「そうだと、自分では思ってた」
「ふぅん」
 由加里はうつむいて、初めて口元だけで微笑を浮かべた。
「だからまた逃げたんですね、あの人。やっと判りました、今回の意味不明な行動の理由」
「……違う」
 それは、違う。逃げたんじゃなく、彼女は、俺のために、
「逃げたんです、あの時みたいに、全てが滅茶苦茶になる前に」
 由加里は畳みかけるように続けた。
「あの人の身勝手な仕打ちに、うちの家族があの時、どれだけ苦しんだか判ります?父は倒れて片腕に麻痺が残りました。私は東京で仕事をしてたけど、看病のために家に戻って。私、言いました、姉さんのことでもう苦しまないで、これからは私が父さんの傍にいるから」
 聡は黙って、沈澱された静かな怒りの放出を、ただ、見つめる。
「でも父は、泣いて、戻って来いと言ったんです。姉さんに、あの人にとってはただ一人の自慢の娘だった姉さんに。東京の何もかも捨てて戻って来いと」
 一時黙った由加里は、目元に冷たい笑みを浮かべた。
「姉さん、戻らないって言いました。お腹に赤ちゃんがいるから、絶対に戻らない、このまま縁を切ってもらってかまわないって」
「…………」
「断ち切ったのは姉さんの方なんです」
 ミカリさん。
「棄てたのは姉さんの方なんです、棄てられたのは私たちの方、なのに今更、勝手すぎるわ」
 それでも、俺は。
 それでも俺は。
 聡は、視線を逸らして、こみあげるものをやり過ごした。
 それでも俺は、優しいミカリさんを知ってるから。
 あの人が、その時、どれだけ苦しんでその決断を下したか、それがよく判るから。
「……阿蘇っていうんだ」
 聡は、横を向いたまま、それだけを言った。
「阿蘇ミカリ、本名隠すにしては近すぎるし、本名の方が遥かに綺麗で素敵なのに、てっきり、会社の社長さんがゴロ合わせに適当につけたペンネームだと思ってたけど」
 見上げた由加里が、訝しげに眉を寄せている。
「君のお父さんが撮った阿蘇山の写真、あれが飾られていた場所は……あそこには、家族の写真が、昔から並べられていたんじゃないのかな」
 しばし、考える風だった由加里が、眉を寄せたまま視線を下げる。
「みんな……許しあってるんだ」
 聡は、呟いた。
 それは、むしろ自分に向かって吐いた言葉だった。
「完璧な人間なんてどこにもいない、みんな、許しあって生きてるんだ……」
 許しますよ。
 俺、東條さんのこと、許してあげます。
 きっと、人はみんな。
 生きているうちに、抱えきれない罪を背負って、それでも許し合うことで互いに支え合って生きている。
 まだ若かったミカリさんは、間違っていたのかもしれない。彼女の心が百パーセントピュアで正しかったとは、聡には判らないし、そう思っているつもりもない。
 うつむいた、由加里の唇が低い囁きを漏らした。
 聡は顔をあげている。
「行き先までは聞いてないから」
 それだけを言って、由加里は聡に背を向けた。
「ありがとう」
 それだけ言って、聡は弾かれたように駈け出している。
 まだ、止まない灰色に陰った雨の街に。

          
 ごった返す人の波の中、聡は走りながら、考える。
 進んでいるようで、結局は同じ迷路の中を彷徨っているような気がした。
 思考は、以前と同じ場所を回っている。
 会って、どうする。
 会って、どうなる。
 今の俺に、あの人に何がしてあげられるんだろう。
(ミカリはね、逃げたんだよ)
(あの子、アルコールが一切駄目だろう、体質じゃないんだ、飲めないわけじゃない。あたしがあの子に初めて会ったのはどこだったと思う?アルコール病棟さ)
(依存症治療の専門病棟、骨と皮だけ、廃人も同様の有様だった)
(あの子はね、逃げたんだよ。あんたのためじゃなく、自分自身を守るために逃げたんだ)
(それほどあの子の負った心の傷は、深くて怖いものなんだ、ミカリを追い詰めたのは別れた恋人でもなんでもない、いっせいに牙をむいた見えない悪意、この世界に対する救いようのない絶望感)
(本当に覚悟はできてるのかい?あんたが迎えに行こうとしている女は、そういう女なんだよ、東條聡)
 それでも。
(ミカリを追いかけて、それでどうするつもりだい)
 それでも、俺は。
(また、あの子に、辛い選択をさせるつもりなのかい?)
 それでも、俺は。
 駅の構内。
 ショッピングセンターが併設しているそこを、傘を持つ人々の間をすり抜けては走り、聡は忙しなく周囲を見回す。
 それでも、俺は。
「……ミカリさん」
 どこだ、どこにいる。
 焦燥だけが濃くなっていく。持っていたはずの傘は、走っている間に落としたのか、いつの間にかなくなっていた。聡は額の汗をぬぐった。
 ここで、見つけられなかったら、もう。
 もう、二度と会えないような気がする。
 ポケットから財布を取り出し、券売機で入場券を買う。
 それを握りしめ、再び走り出した時だった。
 薄いピンクのレインコート、改札を過ぎたばかりのその人は、一時足を止めて雨空を見上げた。
 そして、少しうつむき加減に歩きだす。
 視界が、雨曇りで滲んでいる。
 その夢か現実か判らない光景に、感情よりもまず、言葉が出ていた。
「ミカリさん!」
 それでも――俺は呼び止めている。
 それでも、俺は。
 顔を上げたミカリは、不思議そうに目をすがめ、それからすっと表情を無くして顔を逸らす。
 けれど、次の瞬間、ゆっくりと顔をあげる。
 そして、水のような静かな眼差しで、聡を見つめた。
















 



 

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