3

 雨……やまないな。
 コンビニを出た聡は、買ったばかりのビニールの傘を広げた。
 空気が冷たい。季節はまだ秋だが、灰色の雨空は冬の到来を予感させた。
 去年は……楽しい冬だったな。
 去年の冬、ミカリは、当たり前のように聡の傍にいて、りょうの傍には末永真白がいて、雅の隣には凪がいた。
 気がつけば五人で、いつも雅の部屋に集まって、愚痴ったりからかったりよからぬことを考えたり、くだらないけど幸福な時間が、このまま、ずっと続くような気がしていた。
 その時誰が、今のストームを想像していただろう。
 ミカリが消え、末永真白を追うようにしてりょうも消え、凪も消えた。
 将は逮捕され、聡と雅之は、実質テレビから追放された。
 今、どれだけ四人で頑張っても、あの楽しかった日々には、もう二度と戻れないような気がする。
 のしかかるような灰色の空。ふと聡は、その暗雲が永遠にそこにあるような気持ちになる。最初からずっとあって、この先も晴れることなく続いていく。そんな陰鬱な道を、これからずっと歩いていかなければならないのだ……。
 水がたまったアスファルトを歩きながら、聡は眼前の遠景に視線を馳せる。
 青白い空に滲む黒い山々の稜線が、どこにいっても必ず見える。
 改めて気付かされる、ここは、活きた火山と共存している町なのだ。
 傍らの小さな電気店。ウインドウ越しにニュース映像が見えた。音声は聞こえない。東邦プロさらにジャパン株買い足し、そんな文字だけが読み取れる。
「…………」
 帰るかな、東京に。
 何もできなかった。多分、奇跡みたいな偶然が起きて会えていたとしても、何もできなかったろう。
 自分の責任ひとつ果たせなかった俺に、一体何ができるだろう。
 ブロードウェイシステムを頼って、投資家募集登録をしたスターダストプロダクション。
 投資家の反応は鈍く、一件だけ名乗りをあげていた地方スーパーも、先日の会見を受け撤退を正式に申し入れてきた。
 リミットは今週末、正味三日。月曜には正式に製作中止が発表される。
(心配するな、お前個人の責任にはさせない)
 唐沢はそう言ってくれたが、これ以上、唐沢社長にも新会社にも迷惑はかけられない。
 聡はあくまで一人で、この顛末の責任を負うつもりだった。もう、そういう形でしか、昔の仲間たちに誠意を見せるすべはない。
―――向こう……、今、どうなってるだろう。
 傘を肩に預け、聡は携帯をポケットから取り出す。せめて雅之だけでも、と、痛切にそう思う。
 メールが入っている。
 誰だろう。
 ボタンを押した聡の視界、画面の曇りを指で拭うと、ありえない名前が浮かびだしてきた。


 連絡するの、遅くなってすいませんでした。
 色々俺にも葛藤みたいなものがあって、東條さんが追い詰められてるの判ってても、すぐに返事をしてあげられなかった。ごめんなさい。
 本題の前に、この際だから、初めて正直に言っときます。
 俺、東條さんが嫌いでした。
 俺にとって、あなたはいつも目の上のたんこぶでした。
 だって、そうでしょう。東條さんがいなけりゃ俺はミラクルマンセイバーの主役だったんですから。
 東條さんさえいけりゃ、何度そう思ったか判りません。
 もっと腹立たしかったのは、東條さん、普通にいい人で、いや普通以上にいい人で。
 つきあうと、好きにならずにはいられない人で。
 俺がどんなに嫉妬しても、それさえ気づかない優しい人で。
 でもそんな仙人みたいな東條さんが、最後に、マジで目茶苦茶なことしてくれましたよね。



―――尾崎君……
 尾崎智樹。
 今度の映画の企画制作監督すべてを手掛けた男は、バッシングで一切仕事がなくなった聡を、一存で主演に押してくれた。
 聡の、ストーム復帰宣言以来、彼とは仕事以外で口をきいていない。
 スポンサーと配給会社の撤退が正式に決まり、撮影も同時に中止になった。
 尾崎は多分……怒っているのだろうと思っていたし、それは当たり前の反応だと思った。
 自身のわがままが、尾崎にとってはどれだけ残酷な裏切りか、聡が一番よく理解している。


 俺、許しますよ、東條さんのこと。
 許してあげます。
 戻ってください、ストームに。
 戻ってください、東條さんのいるべき場所に。
 映画なら大丈夫です。
 みんなで、それぞれの実家の近所にある商店街や、いきつけの飲み屋、昔の友人、そういうとこ回りました。
 文化祭のノリで。
 一番大切なこと、いつの間にか見失ってたんだな、とそん時に思いました。
 夢を形にしたくて作る映画なのに、いつの間にか金に振り回されてた。
 同じ夢を追う者として、東條さんが夢を形にしたいなら、俺はそれ、笑って送り出さなきゃいけなかったのに、スポンサーという金に目がくらんで、そんなことさえできなくなってた。
 唐沢社長さんの会見、ずしっときました、胸の奥らへんに。
 そう思ったの、多分俺だけじゃないっすよ、だって会見の日から、小額だけど出資してもいいって個人商店が何軒も出てきたから。
 もちろん、東條さんには、そのまま主役やってもらいます。



 読めないや。
 聡は目に滲んだ涙を指で払った。
 俺、そんなにいい人じゃないよ、尾崎君。
 こんな馬鹿でわがままな俺を許してくれる尾崎君の方が、よほど……。


 俺、許しますよ、東條さんのこと。
 許してあげます。



 俺に、そんな資格なんて……。
「………………」
 しばらく黙って携帯を握りしめていた聡は、おもむろにそれを閉じる。
 路上に目を向ける。そこにタクシーを認めて、聡は走り出していた。
 




                4



「澪」
 風で乱された前髪を払っていた澪は、背後の声に振り返る。
 あたたかな日差しが降り注ぐ街、手を振って駆けてきたのは、澪にとっては忘れようにも忘れられない幼馴染。
 東京で知り合い、故郷で再び再会した時、その因縁めいた運命に怖ささえ感じたほどだ―――瀬戸七生実。
 まなじりが切れあがった鋭い瞳に、そこだけバランスを欠いた大きな口。が、その口元が、むしろ清楚な顔立ちをした七生実を、なまめかしく肉感的に見せている。
 色を抜いた髪は肩甲骨までのセミロング。すんなり伸びたストレートヘアが、午後の日差しを浴びて輝いていた。
「なに、人の顔じろじろみて」
 澪の前で足を止めた七生実は、いぶかしげに眉をひそめた。
「いや」
 澪は苦笑して視線を逸らす。
「いきなり呼び出されたから、何の用かと思ってさ」
「警戒してるんでしょ」
「そんなことないよ」
 軽い図星だったのかもしれない。澪はポケットに手をつっこんだまま、眼下に広がる河川を見つめた。
 今、近くにいるから、ちょっと会えない?
 福岡――澪が講師を務めているレッスンスタジオ、休憩時間にそのメールに気がついた。差出人は瀬戸七生実。
 広島に戻っていたはずの七生実が、しかも故郷ではなく、福岡で。
 真白は知ってんのかな、そんなことを思う澪の隣に、七生実は歩み寄って、欄干に背を預ける。
「今日は澪に相談したいことがあってね、相談っていうか、お願いなんだけど」
「飯食った?」
 澪は時計を見ながら言った。
「まだだったら、どっかで食う?」
「澪の悪い癖だね」
 見下ろすと、猫を思わせる魔性の瞳が、いたずらめいて笑っていた。
「都合の悪い話になると、それをうまく先にのばしちゃうの」
「…………」
 そういうつもりでもないけど、確かにそれは澪の本質を見抜いている。
 澪は嘆息して、同じように欄干に背を預けた。
「七生実さんの、そういうとこ苦手だよ」
「真白なら、すぐに澪のペースになる?」
「彼女も彼女で手におえない」
「多分、私よりやっかいよ」
 そもそも何を警戒していたんだろう。澪自身にもよく判らない殻は、七生実の邪気のない笑顔で簡単に壊れてしまった。
 正午過ぎ。橋の中央に立つ二人の傍らを、ランチに向かう会社員やOLたちが通り過ぎていく。
「真白と、うまくいってる?」
「まぁね」
「家事は万能、金銭感覚もしっかりしてる、料理も最高だし、真白はいい奥さんになるわよ」
「もうなってる」
 澪は苦笑して、よく晴れた空を見上げた。
「しょっちゅう俺の部屋で、料理とか片付けとか掃除とかしてんだ。そりゃ、向こうの親も了解してるからいいんだけどさ、俺的にはちょっと……いいのかなっつーか」
「何が?」
「先は長いんだから、もう少し慎重につきあいたいっていうか、……今から問題おこして、向こうの両親悲しませたくないし」
「妊娠とか?」
 それは笑いでごまかして、澪は髪に手を当てた。
「真白が俺ばっかになるのがちょっと心配……、って、それ、俺じゃなくて、真白のオヤジさんたちがそう思ってるような気がしてさ」
「あきれた」
 七生実が、本当にあきれたように眉を上げた。
「むしろ心配してたのに、そんなにラブラブなんだ、あんたたち」
「ラブラブっていうか、どうなんだろ」
 澪は思案して目を細める。
 むしろ、時に、愛を疑いたくなるというか。
「俺の押入れにあるもの、全部ひっくりかえして整理してんだ、最近はもうそればっか」
「……へぇ」
「俺には俺のルールがあるのにさ、そんなのもう無視っつーか、真白のルールでばさばさ片づけられるし捨てられるし」
「ふぅん」
「寝ころんでテレビみてたら目が悪くなるってたたき起こされるし、デートに誘っても掃除優先?つか、同じ部屋にいても片付けに夢中になって、俺がずっと待ってんのに、てんで相手にしてくれなかったこともあるし」
 そういう変化は、なんていうかこう、もう少し遅くてもいいのではないかと思う。例えば子供ができてから、とか。
 が、七生実は、ますます冷めた目で澪を見上げて口を開いた。
「それって、のろけ?」
「えっ」
「びっくりした、初めて聞いたわよ、澪ののろけ話なんて」
「……いや」
 そういうつもりじゃ。
 ないはずだけど、実はそうなのかもしれない。澪は唇に指をあてて、思案する。
「真白からも聞いてるわよ、携帯の待ち受け、澪と二人で撮った写真にしてるんだって?」
 七生実は、やわらかく笑んで視線を空に向けた。
「そんなことで喜んでる真白がなんだか愛おしかったな、私。だって、誰でもやってる当たり前のことじゃない、携帯に彼氏の写真を入れるなんて」
「…………」
 そんな当たり前のことが、俺達にはずっと、タブーだった。
「俺も、してるよ」
 馬鹿だな、俺。
 澪は自身の携帯をジーンズのポケットから取り出した。
 幸せすぎて、少し贅沢になっていたのかもしれないな。
「携帯の待ち受け、一応5バージョン用意してるんだけど……」
「いい、そんなもん見せなくても」
 互いに笑って、澪はようやく、肩の力が抜けたのを感じていた。
「で、なんの用?」
「私ね、卒業したら東京に行こうと思ってんだ」
 七生実は、なんでもないように言って肩をすくめた。
「広島の役所に……内定決まったって言ってなかった?」
 今度は澪が眉をひそめている。
 難関の公務員試験を突破し、七生実はそうそうに翌年の就職口を手にいれた。真白もそれを喜んでいて、今度また仲間同士で集まって就職祝いをしようという話にもなっている。
「公務員ってがら?私ね、デザイナーになりたいの。夜間にずっと専門学校にも通ってた。ずっと迷ってたけど、今決められなかったら、この先ずっと決められないような気がしちゃって」
「…………」
「人生に二つの道があるとしたら、両方同時には選べないじゃない?だったらもう、迷ってる時間が惜しいかなって」
 人生に、二つの道があるとしたら。
「澪にお願いしたかったのは、東京にそういうツテがないかってこと。口きいてもらえたらすごく助かるんだけど」
「……うん、いいよ」
 真白がまた寂しがるだろうな、そう思いながら澪は頷く。
 先日も同級生の一人が東京へ就職を決め、少し寂しそうな風だったから。
「個人的につきあいのあったスタイリストさんがいるから、聞いてみるよ」
「ありがとっ」
 人生の岐路、大学を卒業する真白たちの年代は、今、そういう時期にさしかかっているのだろう。
 七生実ならうまくやるだろう、と澪は思う。
 性格にも顔立ちにも華があって、リーダーシップもある。そして何より、元芸能人だった澪から見ても、目を止めたくなるほどのファッションセンスがある。
「……ふたつの、道か」
 手帳を取り出す七生実から目を逸らし、澪は思わずつぶやいていた。
 東京。
 不思議なほど懐かしい響き、でももう、二度と戻ることはない過去の場所。
 それがひとつの道だったとしたら、澪はもう、選んでしまったから。別の方角に続く道を。
「何よ、険しい顔しちゃって」
 七生実の声で我に返る。
 そんな顔してたかな、澪は笑って視線を下げた。
「選ばなかった道……」
「え?」
「選ばなかった道って、どうなるのかなって思ってさ」
「どうって、最初からなくなるんじゃない?」
 澪は視線を止めたまま、眉だけをかすかに寄せた。
 最初からなくなる。
 最初から、なくなる……か。
「はい、これ私の連絡先」
 七生実はメモをちぎって、それを澪に手渡した。黙ってそれをポケットにねじこみながら、澪はまだ、七生実が言った言葉の意味を考えている。
「お願いだから、そんな顔、真白の前で見せないでね」
 少し冷たい声がした。
「え?」
 澪は驚いて、七生実の横顔をそのまま見下ろす。
「自分だけがあきらめたなんて思わないで。澪も縛られてるかもしれないけど、真白だって澪に縛られてるってこと、忘れないで」
「…………」
 縛られている?
 意味を解しかねて澪が黙っていると、七生実は冷ややかな横顔を見せて、欄干に再び背を預けた。
「考えてもごらんよ、澪が故郷で生きていくと決めたのに、真白が澪を置いて出ていけると思う?例え真白が別の道をいきたいと思っても、自分のために島根で生きていくって決めた澪を、置いていけると思う?あの真白が」
「へんな言い方するね」
 澪は、言葉の半ばでそれを遮った。
「まるで俺らが、お互いを縛りあってるみたいじゃないか」
「そうじゃないの?」
「違うよ」
「だったらいいの、私が勝手に思っただけ」
 七生実は、さばさばと言って肩をすくめた。
「真白を悲しませないでね。言っとくけどそれ、自分を犠牲にして真白の傍にいてやってくれっていうのとは違うから。むしろその逆」
「…………」
「真白の性格、私より澪の方がよく知ってるでしょ」
―――真白……。
 午後のレッスンの時間が迫っている。
 旧友と別れた後も、澪はその場から動けないままでいた。
 俺、今まで……見えてないものが、あったのかな。
 気にもとめていなかった死角から、ふいに小さな矢を射られた気分だった。
 自分の中の、東京への未練を断ち切れば、それですべては終わるのだと思っていた。が、それが、独りよがりの思い上がりだったとしたら。
 真白の、気持ち……。
 一刻も早く、島根の自分の部屋に戻りたくなる。
 そこに待っている笑顔が、もう当たり前になっていたけれど、今は一秒でも早く、それを確かめたくて仕方なかった。 

















 



 

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