18



 神田 冗談社。
 深夜0時だというのに、狭い編集室は、来客で溢れていた。
「一体全体、どうしてこんな時間に元ストームさんたちが??」
 と、一人事情を知らないらしい大森妃呂が、慌てて淹れたコーヒーを出してくれる。
「す、すいません」
 聡は頭を下げ、湯気のたつコーヒーを口にした。
 高見ゆうりはデスクにすわり、携帯を片手にインカムをつけている。
 九石ケイ一人がここにはいない。前原大成と共に、今、未成年を拉致しようとした店のオーナーと話し合いをしているからだ。
 それから、聡の他にあと三人、冗談社の社員以外の来客がいる。
 雅之と、前原大成の息子碧人、そして流川凪。
―――碧人君……確か、カイドー、とかいう名前だったっけ。
 悪いが、聡に、苗字までの正確な記憶はない。
 四人がけの応接ソファに座り、碧人は、暗い目をしたまま、さきほどから一言も口をきかずに自分の膝のあたりを見つめている。
 女のような綺麗な横顔をしていた。車の中で、雅之と喧嘩ばかりしていたのと、別人のようだ。
 前原の息子で、以前、コンサートスタッフとして働いていたという記憶が、聡のこの男との馴れ初めだ。島根の温泉にもついてきて、やたら凪に絡んでいたのも覚えている。多分、好意以上の感情を持っているのだろう。
 最初は顔だけの嫌味な男だと思ったけど、それでもなお、ここまでついてきた勇気はたいしたものだと聡は思う。
 その碧人の隣には雅之が座っている。そして、2人の男の対面には、流川凪。
 気まずいとか、もうそういうレベルではない。
 誰も入っていけない男女三人の世界。が、泥沼の三角関係のもう一人は、多分、ここにはいない男である。
「たっだいまー」
 軋んだ音がして扉が開く。
 大きな旅行鞄を肩にかけている九石ケイ。声は元気だが、さすがに疲れた目をしている。その背後には、やはり疲れた顔をした前原大成。
 凪が即座に立ち上がる。それはまるで、切れていたスイッチが入ったかのようだった。
「すいませんっ、本当にすいませんでした!」
「もうそれは、いいからさ」
 頭を下げた凪を、軽くいなすようにしてケイ。
「てゆっか、探し人なら、まずあたしに相談してよ。そんな危ない真似しなくても、うちにはもっと危ない奴が一人いるのに」
 ケイが近づいてきたので、その席に座っていた聡は立ち上がる。
 ケイの言うところの危ない奴が、インカムを外して咳ばらいをした。
「わかったわよ、凪ちゃんの尋ね人」
 席に腰を下ろしたケイは、軽く息をはきながら、乱れた髪を背後に払った。
 凪が、弾かれたようにうつむいていた顔を上げる。
「本当ですか」
「さっきの店の奴らから証拠写真と引き換えに聞き出した、でも、どう聞いてもろくな男じゃないみたいよ」
「どこにいるんですか」
「会いに行くの?」
 ケイの問いに、しばらく黙ってから、凪は頷いた。
「……行くのか」
 雅之の声がした。
 それまでずっと黙っていた雅之が、初めて発した言葉だった。
 暗い、怖いほど思いつめた声と眼差し、それが凪を真っ直ぐに捕えている。
 凪が雅之を見上げて、黙る。それから静かに頷いた。
「行く」
 そっか。
 聡は辛くなって、雅之の横顔から視線をそらす。
 一言も会話はなくても、バンに乗り込んでからは、ずっと手を繋いでいた二人だった。というより雅之が、もうその手を離そうとしなかった。
 そんなに……好きだったのか。
 あの、どこか淡白な雅之が、これほど凪に執着していたとは、正直、今日まで想像してもいなかった。別れたと言った時も落ち込んではいたが笑っていて、それから、二度と凪のことは口にしたこともなかったのに。
 凪ちゃんも、多分――。
 それでも。
 それでもまだ、捕まえたわけじゃなかった。
 頷いた凪の表情から、思い知らされないわけにはいかなかった。凪ちゃんはまだ、美波さんの手を取ったままなんだ。
「……そっか」
 やがて、気落ちしたように雅之が呟いた。
 陰鬱な沈黙。
 雅之の気持ちを察してか、誰も、何も口をきかない。
 やや間を開けてもう一度、雅之が呟いた。
「そっか」
 聡は思わず顔をあげる、気のせいか、少し声のトーンが違って聞こえた。
「そっか、がんばれ」
 気のせいではない、何かをふっきったような明るい声。
「うん、がんばれ」
 再度繰り返し、頷く雅之の横顔は、聡には笑っているようにさえ思えた。
 逆に凪の表情は、固まったまま動かない。
「がんばれ、お前ならできるよ、絶対にできる」
 な、何言ってんだ、雅。逆に聡が慌てている。
 せっかく掴みかけた手を、自分で突き放すつもりかよ。
 が、雅之はむしろ平然と、聡には残酷にさえ思えるほど気軽に、凪の肩を軽く叩いて、笑顔を見せた。
「俺も応援するよ、っても何もできないけどさ。へんな話、それ、流川にしかできないような気がするし」
「………うん」
 こわばったまま頷く凪。
「なんかすげーな、つか俺マジで感動してんだ、俺らにとって神様みたいな美波さんをさ、あの緋川さんでもどうにもならなかった美波さんをさ」
 ああ、何うっとり語ってんだ、凪ちゃん泣きそうになってるだろ、こ、ここまで空気読めない奴だとは。
「流川だけが変えることができるなんてさ……不思議だな、これってどういうめぐりあわせなんだろな」
 それでも聡は、雅之のその言葉には、ふと思考を止めてしまっていた。
 巡りあわせ。
 巡りあわせ……か。
 凪ちゃんは――俺らにはキッズ仲間で、雅之には因縁のある幼馴染で恋人で。
 美波さんは――俺らがガキの頃からの大スターで、大先輩で、いつも雲の上の高い所にいる人で。
 なのに、なんの関係もないはずのその凪ちゃんと美波さんが、今、不思議な運命の糸で結びつこうとしている。
 その糸を手繰り寄せたのが雅だったっていうのが、少し哀しくて笑えないけど。 
「でも、今夜みたいな危ない真似は、もう二度とすんなよ」
「……ごめんね」
「いいよ、友だちだろ」
 最後まで、雅之の声は憂いのないままだった。
 頷く凪の顔は、影になって見えない。そのまま雅之が聡を振り返る。
 あっけないほどさばさばした目。
 待たせて悪いな程度の、なんでもない顔をしている。
「じゃ、俺らはそろそろ帰ろうぜ、聡君」
「……いいの?」
 むしろ聡が戸惑っている。
 てゆっかいいのか?本当にいいのか?
 動かない凪の横顔と、雅之の普段どおりの顔を交互にみる。
 本当に――いいんだろうか。
「寝なきゃ身体がもたねぇよ、明日も営業めぐりだろ、俺ら」
 雅之は笑って肩をすくめる。その顔を聡はまじまじと見る。知っている、雅之に腹芸なんてそもそもできない、多分、本当に屈託なく言っている。
 もしかすると今――雅之は本当に、心のどこかで、凪との過去にけりをつけてしまったのかもしれない。
「あいつには、俺が、ついてくから」
 退室間際、追いかけてきた碧人が、雅之の肩を掴んで囁いた。
「うん、任せた」
 それにも、どこか平然と答え、雅之は九石ケイと前原に礼だけ言って事務所を出る。
 聡は、最後に凪を振り返る。
 雅之とは逆に、それは今にも泣き出しそうなほど心もとなく見えた。



                 19



 扉が閉まり、談笑と共に、足音が遠ざかっていく。
「じゃあ、我々も帰ろうか」
 前原大成の声に、ぼんやりしていた凪は、ようやくはっとして顔をあげた。
 喧噪が去った室内、時間も深夜をとうに過ぎている。薄暗い照明の下、大人たち全員の顔に疲労の色が蓄積していた。
「すいません……私、なんといっていいのか」
 それは全て、凪一人が今夜招いた傍迷惑な奇禍のためだ。
 うなだれて頭を下げる凪の肩を、暖かな手がぽん、と叩いた。
「説教は帰りにさせてもらうよ、今回ばかりは、君の無謀に問題があったようだ」
 それでも、前原の声はどこか優しい。
 凪はうつむいて、頭だけを深く下げた。
 もっと、怒ってくれればいいのに。
 どれだけ怒られても仕方のない真似をしてしまったのに。
 それが自分が救われたいだけの我儘だと判っていても、そう思わずにはいられない。
「じゃ、お疲れ様」
「九石さん、今夜はご迷惑をおかけしました」
「いえいえ、ぜひまた、遊びにきてちょーだい」
 和やかな大団円の中、凪の気持ちだけが別の場所を彷徨っている。
「いいのかよ、このまま別れて」
 凪の傍を通り過ぎざま、碧人が低く呟いた。
 凪は無言で、ただ頷く。
 ずっと握っていた拳を解くと、指先はまだ震えていた。誰にも言えなかったが、手首が痺れるような痛みで軋んでいる。少なくともバイクは当分無理そうな気がした。
 今夜体験したことは、二度と忘れないし、絶対に忘れられないだろう。
 安穏とした社会の裏にある、暴力と金で支配された世界の現実。どこかでなんとかなるとたかを括っていたことが、全て、どうにもならないと判った時の絶望。
 それでも、凪を震えるほど動揺させたのは、暗い穴の底で雅之の声を聞いた時だった。
 流川を出せ、この野郎!
 暗闇の底で聞いた幻のような声。
 夢だと思ったし、夢でないといけないと思った。
 それが現実で、しかも想像以上の最悪の事態に突き進んでいると判った時、凪は渾身の力で手首をひねり、多分、人間の限界を超えた力で、何度も挑戦しては諦めていた防犯ブザーを指先で捕らえたのだ。
 それでもまだ判らない。
 どうして、あいつがいたんだろう。
 どうしてよりにもよって、あんな無様な場面で、どうしてあいつが――。
 がんばれよ。
―――私
 がんばれ、お前ならできるよ、絶対にできる
 こみあげる感情で、唇が震えた。
 判った。
 やっと判った。
 最初から迷うまでもなかった。
 私、あいつが好き、……大好き。
 追いかけていきたい。
 階下に下りると、数メートル離れたバス停の前、雅之と聡がタクシーに乗り込んでいる所だった。2人で何を話しているのか、笑った横顔が扉の向こうに消えていく。
「成瀬、」
 思わず走り出しかけていた。
 その足を、現実が引きとめる。
 馬鹿だ、私。
(俺……真面目に好きだから)
 あれは魔法でも錯覚でもなくて。
(大切にする)
(今でも、すげー大切にしてるけど)
 本当の……気持ちだったのに。
 意地とか潔さとか罪悪感とか、そんな簡単な理由で手放すものじゃなかったのに。
「…………」
 追いかけて、いきたい。
 許されるものなら、追いかけて、あの時の二人に戻りたい。もう許されないかもしれないけど、もう戻れないかもしれないけど――それでも追いかけて、伝えたい。
 ありがとう。
 嬉しかった。
 また、会いたい……。
 なのに、どうして。
 動かない足、タクシーが夜の国道に吸い込まれ、やがて車の列にまぎれていく。
 手の甲で目を払い、凪はゆっくり顔を上げた。
 こみあげる感情を押し殺したまま、九石ケイからもらったメモを握り締める。
 あと少し。
 あと少しで探していたものに辿りつける。
 こんなに好きなのに。
 好きなのに。
 それでも、どうしても、この思いを棄てることができない……。










 
 ※この物語は全てフィクションです。



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