15


「やべーよ、マジやべー」
 後部座席、並んで座る、医学生の肩は、無様なほど震えていた。
「まぁ……落ち着きなよ、碧人君」
 タクシーで追いついた聡は、助手席から振り返る。
 レインボウのバンの後部座席。
 そこには、海堂碧人と雅之が、2人並んで座っていた。
 路上脇の違法駐車。
 斜め前のビル。ビンク色のネオンが目に痛いその建物に、ただちに駆けつけてくれた九石ケイと前原大成が乗り込んでいったのは、もう三十分も前になる。
「九石さんが一緒なら大丈夫だよ、裏世界に詳しい……助っ人もついてるし」
 すでに冗談社に待機している高見ゆうりが、流川凪が消えた店のオーナー、店員、客筋、犯罪歴等を、ネットでチェックしているはずだ。
 が、聡がどう励まそうとも、碧人は、いらいらと忙しなく視線を彷徨わせるだけだった。
 で、その均衡は、十分おきごとに唐突に破られる。
「つか、何もかも、お前が情けねぇからだろ!」
「うるせぇ、そもそもなんで流川一人で行かせたよ!」
「知るか!俺が止めようが何しようが、あいつは一人で何もかもやっちまうんだよ」
 ああ……また喧嘩だ。
 やってる場合じゃないだろ、元アイドルと医学生。
 聡の携帯が、手元で震える。
「あたし」
 耳に当てるとすぐに、囁くような声がした。
 九石ケイ。
「どうっすか」
「やばいね、ここさ、未成年売春の斡旋やってんの、しかも日本じゃなくて、中国系」
「…………」
「色々脅したりすかしたりで、中には入れてもらえたけど、向こうはそんな子供は知らないの一点張り。探すなら勝手に探せってさ、警察呼んでもいいっつってんだけど」
「…………」
「もう店にはいないんじゃないかな、あたしのカンだけど」
 まずいな、確かに。
 十分たっても見つからなかったら、ゆうりが警察に通報するから。
 それだけ言って、切れた電話。
 警察……もまずいんだろう。
 聡は眉をひそめて携帯を閉じる。
 流川凪は、名門私立大学の生徒だ。しかも未成年。それが、夜更けにこんな場所で消息を絶った。
 理由はともあれ、凪が自身の意思で未成年売春までしている店内に入ってしまったことだけは間違いないらしい。
「聡君、どう?」
 背後から、せっつくような雅之の声。
「今、探してるって、……最悪、警察に通報することになりそうだからって」
 その時は、この車は聡が運転して、ただちに現場から離れることになっている。
 陰鬱な沈黙が、車内に満ちる。
「……なんで、別れたんだよ」
 ふいに碧人が呟いた。
「てめぇが、余計な告げ口してくれたおかげだよ、バカ」
 雅之。
「告げ口っつーか、親切だろ、アホ」
 碧人。
「それが余計だっつってんだよ、バカ!」
「何がどう余計なんだよ、ボケ!」
 ああ、また始まった……と、聡は頭を抱えかけたが、碧人は、それ以上反撃せずに疲れたように嘆息した。
「……つかさ、お前、ちゃんと理由きいてやった?」
「…………」
 バックミラー越し、雅之の眉が、わずかに翳る。
「なんで流川が、あのおっさんの部屋に通って、なんで一人で繁華街うろうろしてんのか、そういうの、ちゃんと聞いてやった?」
「……それ、お前が前言ってたやつか」
 雅之が、呟く。
 聡には、正直意味が判らなかった。
「てゆっか、あんとき、流川は」
 迷うように揺れる瞳。
 うつむいた雅之の声は、苦しそうだった。
「美波さんの傍にいるっつったんだ」
「…………」
「俺じゃなくて、美波さん選ぶって、あの時はっきり言ったんだ」
「…………」
「ぶっちゃけ、俺はふられたんだ、理由訊くも何も、あいつ、言い訳する気もなかったみたいだから」
 無言のまま、それを聞いている碧人の目が難しそうにすがまる。
 雅之も黙り、そのまま少し沈黙があった。
「俺が見る限り、男女の仲とか、そんなんじゃない気がするけどな」
 息を吐き、碧人は、長い前髪に指を入れた。
「あいつ、美波さんを助けてあげたいって言ってたよ。そいつには自殺未遂で植物状態の恋人がいてさ。そんなに上手くいくもんでもないだろうって思うんだけど、あいつは、信じてんだ、バカみたいに」
「……何を」
「その恋人、自殺したんじゃないって」
「…………」
「それが証明できたら、美波さんがJ&Mに戻るかもしれないって。意味わかんねぇだろ」
「…………」
 凪ちゃん……。
 聡は、少し胸が痛くなる。
 言えよ、それ、俺たちに。
 そっか、言えるはずないか、あの時、俺らも俺らで、どうにもならないほど忙しかったし、自分支えるので精一杯だったし。
 凪ちゃんは……そんな中で、たった一人で頑張っていたんだ。
「おい」
 黙っていた雅之が、ふいに怖い声を出した。
「なんだよ、あれ」



                16


「こ、こんな時間に、ゴミ出しかな」
 聡がそう言った時には、後部座席から、もう雅之が飛び出していた。
「おい、」
 さしもの碧人も、言い差したきり動けない。
 ケイと前原が入っていった店の裏口。
 大きなポリバケツを2人がかりで抱えて出てきたのは、どうみても堅気の人たちではなかった。剃りあげた頭、眉はなくて、顎には髭。ハムみたいに太い腕には青黒い龍の刺青。
 しかも、先頭にもう一人いて、それは白に近い金髪に、黒いダブルのスーツ。その男が、路上に止めてある車の荷台を開けようとしている。
 おろおろと窓から見守る聡の視界、猛然と駆けていく雅之の背中が遠ざかる。
「い、いいのかよ、あいつ」
 その思いは聡も同じだった。
 雅――どうする気だよ。
「おい、一人でいっちまうぞ!」
 碧人の声を聞きながら、聡は両手を握り締めた。
 あのバカ、前原さんと、絶対に動かないって約束したのに。
 最悪、ここで警察沙汰にでもなれば、ストームにとっては取り返しのつかないことになる。
 が、雅之の判断が、男としてではなく人間として、間違っていないのは確かだと思った。
「くそっ」
 迷っている暇はない。
 腹が決まったら、不思議なくらい恐怖心はなくなった。
 聡も、車を飛び降りている。
 碧人も、はじかれたように後に続く。
 通行人が足を止めている。
 2人の目の前では、雅之が、男たちの手からバケツを奪おうとしていた。人通りの激しい路上で、激しい言い争いになっている。
「てめぇ、なめとんのか、中身はゴミだっちゅうとるやろうが!」
「だったら、開けてみろよ、それ」
「あけて何もでんかったら、あんちゃん、どう責任とるつもりなんじゃい!」
 突き飛ばされて、よろめいた雅之が、わずかにひるむ。
「極道なめて指の一本ですむ思うたら、大間違いや、怪我せんうちにとっとと消えや、ガキィ」
「うるせぇ、指の何本でももってきやがれ!」
 が、雅之は再び敢然とバケツにしがみつこうとする。
 やばい。
 走りながら、聡は携帯を持ち直した。
 警察だ、ここまでくれば、もうそれしかない。
 が、その時。
 激しい音が、禿頭の男が抱えるバケツの中から鳴り響いた。聡もだが、通行人も思わず耳を塞ぐほどの大音量。
 ひるんだ男の手からバケツをもぎとると、雅之は即座に蓋を取り払った。
「雅君、何やってんだ!」
「何騒いでんのよ、あんたたち!」
 背後から、九石ケイと前原の声が駆け寄ってくる。
 狭い場所から引きずり出された凪は、それでも、ケイの手で縄が解かれると、自分で口のガムテープを剥がすほどには落ち着いていた。
 転げ落ちたのは小さな防犯ベル。どうやって鳴らしたのか、それがおおげさでなく全員にとって、最後の命綱になった。
「大丈夫?どっか、怪我してない?」
「大丈夫です」
 ケイに気丈に答えながら、でも、まだ立てないのか、凪はアスファルトに膝をついたままだ。
 衣服に格別の乱れもないし、顔に傷めいたものもない。聡は思わず肩の力が抜けている。
「凪ちゃん……立てる?」
 ケイが手を差し伸べても、凪はそのまま動かなかった。
 まるで、あり得ないものを見るような目で、見下ろしている雅之を見上げている。むしろその目には、強い畏怖さえ浮かんでいる。
 聡は――雅は、殴るかな、と思っていた。
 まだ、ヤクザとやりあった時の興奮状態が抜けていない、怒りと激情で揺らめくような、確かにそんな背中をしている。
 実際、バケツに凪が入っていると確信した時、聡でさえ、最悪の事態をすくなからず予想した。
 流川凪が――もう、生きていない可能性。
 でも、次の瞬間、聡の予想は裏切られる。
「まずいなぁ、目立ちすぎだよ、これじゃ」
「とにかく、車に戻りましょう」
 ケイと前原が、苦い目を交し合っている。
 碧人は、何も言わずに背を向けた。
 聡も、慌ててその後を追う。
 凪ちゃんでも、泣くんだ。
 そう思っていた。
 言葉もなく、ただ何かの堰が切れたように抱きしめあう二人の上に、薄い三日月が浮かんでいた。



                 17


「こんなとこで、何やってんの」
「あんたこそ」
 会話が途切れ、距離を開けて歩く2人は、夜空に滲む三日月を見上げる。
 将にとっては見知らぬ町。が、ここはしずくの故郷でもある。
 土手沿いに連なる民家の明かりが、綺麗な横顔に映えている。
「五人、揃った?」
「一人いない、でもストームは揃ったよ」
「片瀬君か」
「うん」
「ま、今はそれでよしとするかな」
 しずくは気楽な口調で言って、少しだけ足を速めた。
 川原沿い。川面から吹く風は、もう晩秋のものである。
 この女を捜して、結局今夜も、将は東京に帰り損ねた。今夜はまだ、どこへ泊まるかさえ決めていない。
 こいつは……どこに泊まってんのかな。
 不思議なほど、静かな気持ちでそう思う。いつも感じる、焦りや苛立ちみたいなものはなくて、ただ、一緒に歩いていることが、ごく自然なことのように感じられた。
「ひどくやられたね」
 将は、薄く青地になっている女の頬を見る。
「うん、でも本気で殴る人に悪い人はいないから」
「そ、そっか?」
 その理屈おかしいような……ま、いっけど。
「他人にぶん殴られたのは、これで二回目……前のほうが、ひどかったけど」
「それ、男?」
 だとしたら、命知らずというか、尊敬に値するというか。
「一応、女、まだ私が十代の頃、パパの恋人やってた人」
「へぇ」
「パパの恋人は、たいてい私のこと嫌うか媚びるかどっちかなんだけど、その人だけは違ってね、……母親になる気はさらさらだったみたいだけど、本気でつきあってくれたかな、私とも」
「そん時に、殴られたんだ」
「…………」
 ふと視線を下げて、しずくは不思議な微笑を浮かべた。
「……殴られたのは、もっと大人になってから」
 何やったんだろ。
 まぁ、こいつのことだから、どうせとんでもないことやらかしたんだろうけど。
「直人のお父さんと、話したんでしょ」
 先を行くしずくが、両手で髪を後ろに払う。
「色々聞いたと思うけど、私に言うこと、何かない?」
「……別に」
 私が、お嬢さんを呼んだんです。
 私が、この会社を潰すように頼んだんです。
「あのさ」
「うん」
 川面に月が浮かんで揺れている。
「信じてっから、俺」
「…………」
「お前の……表面の言葉とか、行動とか、そんなんじゃなくて、もっと」
 なんつーのかな。
「もっと、底のとこで、信じてっから」
「…………」
「だから、いいよ、別に何も言うことはない」
 揺れない自分が不思議だった。
 離れたからこそ、一度は永遠の別離を覚悟したからこそ、そう思えるようになったのかもしれない。
「会社のことはね、今、バニーちゃんが考えなくてもいいんだよ」
 わずかな沈黙の後、しずくは言った。
 今日、どういう偶然かは知らないが、お互い同じ目的を抱いてこの地に立ったことだけは間違いない。
 待ち合わせていたはずのケイは、最後まで姿を見せなかった。もしかすると、どこかでしずくの姿を見たのかもしれないし、あの会話を聞いていたのかもしれない。
「君は年末の復帰コンサートのことだけ考えてなさい。逆にいえば、そっちの構成には、私、一切タッチしないつもりだから」
「そういうわけにもいかねぇだろ」
 将の反論に、しずくは綺麗な笑みだけを返した。
「君がしなきゃいけないことは相当あるわよ、企画に構成、演出に加えてアーティストとしての自身の鍛錬。当日までのプランとスケジュール、それからファンへの広報。バックバンドも音響も演出家も、君らがこだわりをもっているなら、全て説得して確保しないといけない、しかもたった三ヶ月で」
「…………」
 ライブハウスツアーで関わった経験が、今になって活きてくる。規模が違う、それは将も判っているが、スタッフと資金次第では、なんとかなると思っていた。
 問題は、信頼できるスタッフをいくら確保できるかと。
 そして、金だ。
 しずくは微かに笑って前に向き直った。
「……会社同士で解決しなきゃならないことは、これから作る会社のスタッフに任せればいいと思う。まぁ、それも、新社長次第だとは思うけど」
「…………」
 唐沢さん、か。
 結局一度も口をきくこともないまま、再び病院に戻っていった人が、果たしてどんな感情を抱いたのかは、知る由もない。
 今の時点で、将には唐沢以外のリーダーは考えられない。が、それも、しずくに考えがあるというなら、任せようと思った。
「最後に君から、みんなに伝言しておいて」
 前を行くしずくの背が言った。
「最初のミーティングは9月15日午後一時、そこには、戦う意思がある者だけが集まること」
 9月15日。
 あと、10日あまり。
「逆にいえば、これが最後の意思確認。もちろん、来るか来ないかは、自由な意思で決めてもらってかまわない」
 頷いた将は、それを、口頭ではなくメールで送ることに決めた。
 1人1人に、自由な立場で、しっかりと考えて欲しいし、それで出した結論なら、それがどうでも受け入れられる。
「じゃ、ここで」
 足を止めたしずくは振り返って、微笑した。
「……うん」
「次は東京で会いましょう、最初の打ち合わせ、あ、場所はどうしよう?」
「冗談社さんのビル、あそこでどうかな、安く借りれないかどうか、今折衝中なんだ」
「じゃ、その時に」
「おう」
 最後に少しだけ、絡んだままの視線が止まった。
 微笑にして、先にそれをそらしたのはしずくだった。
 背を向けて、それぞれ別の方角に歩き出す。
 将は無言で足元を見る。
 別に、ここで別れる必要もなかった。でも、ここで別れないと、朝まで一緒にいてしまうような気がした。











 
 ※この物語は全てフィクションです。



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