8


「これが、年末までのスケジュールです」
 そう告げると、黙って書面に目を落としていた男は、小さく頷いた。
「君の希望どおり、年末には舞台の仕事が入っています、……舞台は確か、初めてですね」
「ええ」
 緋川拓海。
 日本がアジアに誇るトップアイドルは、殆ど表情を変えず、それに頷く。
 藤堂戒は、デスクから立ち上がる。
 そして、緋川が座る、ソファの対面に腰掛けた。
 東京、丸の内。
 藤堂が社長をつとめる事務所「オフィスネオ」は、林立するオフィス街からわずかに離れた、商業ビルの十二階にある。
「舞台初挑戦は、君にとっては、いい話題になると思います。蛭山監督は役者を追い込むことで有名だ、役者としての勉強にもなるでしょう」
「…………」
 藤堂の説明に、緋川は無言のまま、手元のペーパーに視線を落としている。
―――緋川も、ここが正念場だな。
 藤堂はわずかに目をすがめる。
 J&Mでは。
 役者としての未熟さが露呈することを畏れ、唐沢が絶対に入れさせなかった舞台の仕事。キャスティングが公表されれば、おそらく、業界中の注目を集めるものになるだろう。
 アイドルの殿堂のような存在だった緋川は、何をしても同じ演技だと、常に酷評され続けてきた。それが、誤魔化しが一切きかない、本格的な舞台デビュー。
―――まぁ、危険な賭けだが、これも自身で望んだことだ。
 割り切って、藤堂は立ち上がった。
「以上です、微妙な時期なので、くれぐれも、マスコミには注意してください」
 事務所移籍によるイメージダウンについで、ハリウッド映画への出演も白紙になった。緋川は今、いつ逆風を浴びてもおかしくない状況に立たされている。この舞台で失敗すれば、おそらくマスコミは、手のひらを返したように、緋川を叩きにくるだろう。
 オーラが、消えたな。
 ふと、目をすがめ藤堂は思う。
 不思議なものだ。J&Mをやめた途端、緋川からは、燐光のような輝きが消えた。
 その代わり、力強い、男としての凄みのようなものが、全身に滲んでいる。
 それはそれ以前にJをやめた貴沢秀俊にも河合誓也にもいえることで、J&Mという看板をなくした途端、彼らはこの芸能界で、何か、全く別の存在になってしまったかのようだった。
 緋川が、ふと顔をあげる。
 目があった時、その端整で野生的な顔に、あるかなきかの笑みが浮かんだような気がした。
「……いや、藤堂さんがそんなに物分りのいい社長になるとは、思ってもみなかったんで」
 藤堂の顔色を察したのか、緋川は砕けた口調で言って、肩をすくめた。
「元Jの別れさせ屋が、今は社長っすか。一番の側近に二人して裏切られるなんて、唐沢さんも、こうしてみると気の毒な人だったんすね」
 藤堂は無言で、眉だけをわずかに上げる。
「で、俺の彼女を守ってくれてるのは、今はあんたの上にいる人たちってわけですか」
「それで、君を縛るつもりはありませんよ」
「縛られてるつもりもないね」
 意外なほど冷静に言うと、緋川はあっさりと立ち上がった。
「公表したきゃ、俺の口からするし、リークされたら公認する。それでこなくなる仕事なら、そんなものクソくらえだ」
「驕りと過信は、身を滅ぼすもとですよ」
「じゃ、勝手にしろってことっすか?おもしろいね、あんたらのスタンス」
 退室しかけていた緋川は、目に笑いを浮かべて振り返った。
 あんたら。
 その言い方に、緋川が、この会社の出資者を認識していることがうかがい知れる。
「今のが唐沢さんなら、いきなり襟首掴まれてるパターンだよ。俺の商品価値は、この会社じゃどうでもいいことなんだ。それじゃ、俺について事務所を出た、他の連中が可哀相だ」
「どうでもいいとは言っていませんよ」
 無表情で立ち上がりながら、藤堂は、先日聞いたばかりの、ボスの言葉を思い出す。
 当面は、会社のことは、全て任せる。
 潰すも伸ばすも、今までどおり、君の権限で自由にしてかまわない。ただしどのような形であっても、東邦の邪魔をすることは許さない。いずれ時をみて、新しい取締役を、真田会長がご用意される。
 J&Mは終わった、まぁ、いってみればこれは、残務整理のようなものだよ、藤堂君……。
 あれだけ拘っていた、緋川にも、美波にも。
 すでに目的の大半を達している真田会長には、今は、なんの興味もないのだろう。
「縛るのも、守るためか」
 まだ立ったままだった緋川が、ふいに呟く。まるで自嘲するような口調だった。
「今頃気づく俺も馬鹿だけど、結構いいとこだったんだJ&M」
「後悔ですか、今さら」
 藤堂は、冷笑する。
 当時、すでに戦意を喪失していた美波がどんなマジックをつかったのか知らないが、J&M崩壊の最後の引導を渡したのは、間違いなく、ここに立つ男なのである。
「後悔?それを言うなら」
 が、緋川は藤堂の挑発には乗らなかった。
 不思議なほど冷ややかな目で藤堂を見上げ、きびすを返す。
「俺には、むしろ、あんたがしてるように見えますよ」



                 9



「三万、どう?」
「そんなんじゃないですから」
 凪はそう言って、上着の前を合わせて、サラリーマン風の男から背を向けた。
 寒……
 いったん止んだ雨が、また振り出した。
 日中はあんなに暑かったのに、もう季節は秋なのかもしれない。
 これで何軒目だろう。聞き込んだ噂と昔の写真を元に、店内から出てくる客、一人一人の顔を確認する。
 立っているだけなのに、今夜も数十人の男に声をかけられた。
 援助交際……そんな風に思われるのも腹立たしいが、実際、夜の繁華街、一人で立っている方があやしいのだろう。
 一応、目元まで隠れるニットの帽子と、黒縁眼鏡、シャツにジーンズという男スタイル。無論、誰も男とは思っていないだろうけど、この田舎くさいスタイルだけで、若い男はあまり声をかけてこない。
 手元には防犯ベルと、ポケットには秋葉原で買った電気ショックとかいう怪しげな機械。
 防犯ベルは二度使うはめになったが、幸いなことに、今のところ、それだけで済んでいる。
 そろそろ帰ろうかな、時計を見たとき、二人連れの中年男に囲まれた。
 酔客なのか、顔が赤い。吐く息からは煙草とアルコールの匂いがした。
「さっきそこで聞いたけど、お父さん探してるんだ」
「はい」
「可哀相になぁ……こんなに小さい子を残して」
「がんばれよ、これ何かの足しにて」
「いえ、結構です」
 こういう勘違いも少なくない。
 まだ絡まれそうな予感がしたので、背を丸めるようにして人ごみに向かって歩き出した。
「あ、ちょっとまってよ」
「おじさんたちが、ご飯奢ってあげるから」
 この程度なら、まだいい。
 待ち合わせ風に立っていられるのは一時間が限界で、それを超えると、色んな輩に絡まれる。薬の売人と勘違いされたこともあって、あれには本気で慌てたし怖かった。
「おい!」
 背後から肩を掴まれる。咄嗟に身構えた凪だったが、その声には聞き覚えがあった。
 その男の肩ごしに、しつこく追ってくる先ほどの酔っ払い親父2人組。凪は慌てて、身をすくませた。
 男は凪を庇うようにして前に出ると、追いかけてきた酔客2人を睨みつける。
「な、なんだよ、ヒモつきか」
「騙しやがって」
 舌打ちと共に、ネオン瞬く繁華街に消えていく二つの陰。
 そして、あまりに気まずい沈黙。
 凪は、怖いものでも見るような気持ちで、前に立つ海堂碧人の背を見上げた。
 多分、怒ってる……なんてもんじゃない。
「……何やってんだよ、お前」
「すいません……」
「一人で危ないことはしないって約束したじゃないか」
「そんなに危ないことは……」
 ようやく振り返った目に睨まれる。
 凪は身をすくめ、視線を下げた。
「ここをどこだと思ってんだ、羊が一匹で、狼の群れに混じってるようなもんだろ」
「でも、結構、若い女の子も歩いてて」
「いい加減にしろよ!」
 もしかすると、叩かれるかな、と思った。それくらい、碧人の声は怒っていた。
 が、見上げた顔は、不思議な諦めを浮かべている。
 かすかに息を吐き、碧人は憂鬱気な横顔を見せた。
「まだ、保坂愛季の親父さん、探してるのか」
「……このあたりの店に、週に一度か二度、ふらっと来るそうなんです」
 それは、立ち話で親しくなった呼び込みバイトの大学生から聞いた。
(えらい羽振りがいいのと、悪酔いするので、有名だよ。銀座に飽きてこっちに流れて来たって言ってたかな。顔の印象は少し違うけど、名前はそんなだったと思う)
「あのさ」
「言わないでください、判ってますから」
 この人には。
 どう言って詫びていいか判らないし、そして、叱られるだけの理由もある。
「あと少しなんです、あと少しでたどり着けそうなんです」
「…………」
 碧人は無言で嘆息する。
「海堂さんが調べてくれたおかげです。そっからここまで来れたんです。危ないことしてるのは判ってますけど、今週いっぱいは」
「じゃ、俺も一緒に行く」
「それはダメです」
 それは出来ない。凪はきっぱりと言って顔を上げる。
「これは私の問題で、海堂さんには、関係ないことですから」
 もう、巻き込ませることはできない。
 これ以上迷惑をかけたら、この人の母親に、どう詫びていいのか判らない。
「お前がなんと言おうと、俺はついていくからな」
 が、碧人も、譲らない目でそう言った。消えていた怒りが、綺麗な瞳を再び染める。
「それが嫌なら、こんな場所に一人でくんな!何かあったらどうすんだ、取り返しなんてつかないぞ!」
 凪は、黙ってうなだれた。
 偶然、見つけられたとは思えない。
 おそらく碧人は、今日だけではなく、ここ数日、ずっと凪の後をつけていてくれたのだろう。
 手を取られ、引きずられるようにして歩き出す。
「……どうして」
「知るかよ」
「私、あなたには、何も返すことができないのに」
「知ってるよ、そんなこと」
 初めて、碧人と一緒にいることが辛くなる。そんなつもりはなかったのに、いや、本当にそうだったのか、本当にずっと碧人の気持ちに気づかなかったのか――そう思うと罪深い自身が心底情けなく、いやらしくさえ思えてくる。
 辛い。
 手助けできない他人の人生に踏み込むって、こういうことなのかもしれない。
「なんで親父に拘るんだよ」
 繁華街を抜けた路地裏。ようやく手を離してくれた碧人が、ため息まじりに呟いた。
「おふくろさんの居場所、ちゃんと書いてあったろ、あれに」
「……行きました、でも」
 会話さえ、できなかった。
 というより、保坂愛季の母親は、言葉を喋ることができなかった。
 悪い部屋ではなかった、が、いかにも質素に倹約しているような、地味な暮らしぶりだった。
 この家族に、美波涼二が毎月送っている金の額に、まず凪は驚いた。それと愛季の入院費用。美波の収入がいくらなのかしらないが、それにしても、ほとんどを送金にあてているのでかないか。
 が、女がその金に、手をつけていないのは、明らかなような気がした。
 優しい、悲しげな微笑を絶やさない老婦人は、凪が何を聞いても、ただにこやかに微笑するだけだった。
 それは、むしろ、壁にように頑なな拒絶にも思えた。
 決して、過去へ、触れられたくないという拒絶。
「娘さんの名前を出すだけで、もう表情が変わるんです」
「…………」
「倫さんからも言われました、刺激しない方がいいって。あの人の中では、過去の事件なんて存在しなくて、まだ娘さんは生きてるからって」
 本当に、生きてるんだけど。
「……何も、聞けませんでした」
「で、娘の恋人からむしりとった金で、毎晩飲み歩いてるクソ親父を探してるわけだ、なんでだよ、そんな奴探すことに、なんの意味があるんだよ」
 碧人の声に苛立ちが強くなる。
「愛季さんって人自殺したんだろ?警察もそう判断したし、周りも美波さんもそう信じてるんだろ?」
「自殺じゃありません、その可能性だってある」
「だからさ」
 疲れたように、碧人は軽く息を吐いた。
「真相は、当の本人しかわかんねぇんだよ、その本人が目覚めないんじゃどうにもなんねぇんだよ。どうやったら飲んだくれの親父が、娘が自殺じゃないって、知ることができるんだよ」
「事故の後、運ばれた病院で、まだ彼女、意識があったそうなんです」
 凪は、拳を握って言葉を繋いだ。
「お母さんと、少し会話もしてたって、当時の看護婦さんから聞いたんです、私」
「それが何だよ、その程度なら警察だって調べてるよ、それでも自殺って断定されたんだろ?」
 そう言われると、何も言い返せなくなる。
「報告書にもあったじゃん、当時、保坂愛季の父親も母親も、そろって娘は自殺だって主張したって、で、美波涼二を結婚詐欺で訴えるって弁護士まで雇ったって」
「……………」
「あれから何年たってると思ってんだ……お前、ばかだよ、過去はひっくりかえりゃしないよ、お前がどうあがこうと」
 それでも。
 それでも私は。
「……納得いくまで、調べてみてもいいですか」
「あのさ」
「あの人、自殺なんてする人じゃないです」
 当時の、色んな知り合いに話を聞いた。
 ポジティブで、明るくて前向き。気の毒になるほどお人よしの楽天家。何があっても人を恨んだりするような子じゃなかった。事件の後も自分のことより、むしろ仕事のなくなった美波のことを案じていた。
「最後の会話で、母親に恨み言を言うような人じゃないです」
「だから、それはさ」
「お願いです!今週だけでいいから、見逃してもらえませんか」
「…………」
 沈黙。碧人が、かすかなため息をつくのが判った。
「……仮に自殺じゃなかったとしても、仮に、最後の会話で本人がそれを否定したてしても」
 心底、疲れたような声だった。
「親2人はそう信じて、で、あれから十何年も、それをネタに美波さんから金もらい続けてんだろ?」
「…………」
「……悪いけど、それが純粋な恨みだけとは、俺には思えない。その壁をお前が崩すのは……無理だよ」
「………………」



                  10


「さぁ、飲んじゃって、飲んじゃって、なにー、あんたそれ?ウーロン茶じゃないのぉ?」
「違うって」
 苦笑して否定しつつ、将は何杯目かのウーロン茶を口にした。
「ちゃんと飲んでるんでしょうねぇ、今日はあたしのおごりだから、絶対に逃がさないわよ」
「はいはい」
 飲んでる場合じゃないし、飲む気もない。
 が、最初から悪酔いしている女を、放って帰る気にもなれなかった。
 市内の中心部。多分、互いに初めて入る居酒屋のチェーン店。
「すいませーん、おかわり」
 ジョッキを突き出したケイが、それをウエイターに渡すと同時に、テーブルの上につっぷした。
「……あのさ」
 頬杖をついて、その様を見下ろしながら、将は言った。
「あんま、そういうの、気にする女でもないから」
「……なんの話しよ」
「九石さんが気にしてないなら、いいよ」
「………………」
 しばらく無言だったケイの頭が、むっくりと起き上がる。
「別に気にしてないわよ、真咲しずくのことなら」
「だったらいいよ」
「だって、悪いのは、あの女じゃない、そうでしょう?」
「かもしんないね」
「みんな騙されてるから、私がガツンといってやっただけじゃない」
「だね」
「………………」
 すっげー、気にしてるし。
 将は軽く肩をすくめ、空いた皿を片付ける。
 何も考えてないようにみえて、結構神経繊細なんだな、この人って。
 多分ケイも、真咲しずくが一言も反撃しなかったのに、驚いたに違いない。それは将も同じだったし、正直、少しだけ動揺もした。
「九石さん……?」
 再びつっぷしたケイの頭が動かなくなる。
「寝ちゃった?もしかして」
 返事はない。
 まいったな、泊まるとこも決めてないのに。
 この辺りで、安いビジネスかカプセルか……、一人だったらなんとでもなるけど、酔いつぶれた女(一応)連れ……うーん、元アイドルとしては微妙な立場だ。
「なんで、そんなに強いの」
 女の声がした。
 携帯を取り出そうとしていた将は、少し驚いて手を止める。
「あんたは、怖くないの。あんな目にあって……下手すりゃまた、前の二の舞になるかもしれないんだよ」
「怖いよ」
「だったら」
「でも、ここであきらめる方がもっと怖い」
「…………」
「あいつら見捨てて、一人で逃げるほうが、もっと怖い」
「見捨てた方が、あいつらのためだとは思わないの」
 それには将は、少し黙ってグラスのお茶を持ち上げた。
「あんたがいるから、みんなあり得ない夢をみるのよ、あんたがいるから、みんなで風車に向かうドンキホーテになろうとしてるんじゃないの」
「それでも、りょうは戻んなかったよ」
「賢明ね」
「九石さんが心配してることくらい、多分全員が、死ぬほど考えたと思うよ」
 その上で出した結論。
 その上で、ストームとしてもう一度再起することを誓い合った。
「死ぬほどね」
 ケイは頭を伏せたまま。右手だけをひらひらと振る。
「その程度で死ぬほどなんて甘いわよ、しょせん子供の考えじゃない、甘い甘い、甘すぎるよ、柏葉将」
「そうかもね」
 例えば、と将は思う。
 これが十年後だったら、もう三十を目前にした五人だったら、同じ結論は出なかったと思う。同じように、これが二年も前だったら、まだひとつになる喜びを知らない前のストームだったら、やはり、同じ結論は出なかったと思う。
 甘いかもしれない。
 けれど、今の俺たちにしか出せない、今の俺たちだから出せる、宝石みたいに貴重な結論。
「九石さん、悪いけど頼みがある」
「知らないし、聞かない」
「新しい事務所探してんだ、九石さんのビル、上があいてんなら、少しの間貸してくんねーかな」
 ケイは、黙ったまま動かなくなる。
 店内の喧騒と有線の音楽が、意味もなく流れていく。
「………象の群れに立ち向かう蟻ね、あんたたちは」
「…………」
「象は競って、あんたたちを踏み潰しにかかるわよ」
 ようやくケイが顔をあげる。
 相当酔っていたはずなのに、目は不思議なほど沈んでいた。
 将は笑って、いたずらっぽい目で対面の女を見上げた。
「いいこと教えてやろうか、象ってのは、視力があまりよくねぇんだ」
「適当に言ってるでしょ、あんた」
「それに蟻だって、大群になれば、逆に象を食っちまうぜ」
「………………」
 中身の減らないケイのジョッキから、水粒が滴ってテーブルを濡らす。
「………どうして、そんなに強いの」
「だから、強くなんかないよ」
「…………大人のあたしですら、ひるんで逃げてることに、どうしてあんたは、そんなに無防備に立ち向かっていけるのよ」
「…………」
「情けなくなるじゃない………自分が……」
 有線が、ヒデ&誓也のラブシーズンを流している。俺らにとっても奇蹟が最後だったけど、ヒデにとっても、あの曲が最後になっちまったな。
 そんなことを思いながら、将は傍らのティッシュケースを、ケイの前に差し出した。
「泣き上戸かよ」
「うるさいわよ」
 ケイは、手の甲で目を払う。
「九石さん、明日はどうすんの」
「……帰る、東京」
「唐沢さんは、もういいの」
「いい、あんな直人、見てる方が腹たって情けなくなる」
 将は、少し考えてから、軽く息を吐いた。
「今日、親父さんに聞いたんだけどさ、病院の近くに、墓があるらしいんだ、唐沢社長のおふくろさんの」
「……そうなんだ」
「場所、あとで連絡するからさ、最後にそこで会っていかねぇか」
「デートの誘いにしては、陰気な場所ね」
 将はレシートを掴んで立ち上がった。
 いずれにしても、唐沢さんは、もう無理だろう。
 そういう意味ではふりだしだが、将にしても、このまま東京に帰る気にはなれなかった。










 
 ※この物語は全てフィクションです。



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