3


 木漏れ日が、院内の中庭を明るく照らし出している。
 雨上がり、濡れた芝生が、陽光を受けて輝いていた。
 将は無言で、穏やかな横顔で手元の本を手繰っている男を見る。
 日差しをさけた木陰に停められた車椅子。
 時折、看護婦が寄ってきては、優しい笑顔で、一言二言言葉をかけている。
 それに答える、唐沢直人の横顔もまた、将には初めて見る柔らかなものだった。
「……喋れないわけじゃ、ないんですね」
 傍らのベンチの腰掛けている男に、将は聞いた。
 唐沢省吾。
 直人の父親で、元取締役。
「ああ、ひととおりの会話はできます」
 泣き笑いのような笑顔で答えた男の顔が、日差しのせいかそこで翳った。将は慌てて頭を下げる。
「すいません、へんなこと聞いて、病室の様子が気になってたので」
 病室では、唐沢直人は一言も口を聞かず、耳さえ聞こえていないのではないかと疑いたくなるほどだった。将のことも、完全に忘れている……というより、感情の中から、将の存在そのものが締め出されているかのようだった。
「日常生活に支障はないんです、昔のことも、自分が唐沢直人だということも、あれはちゃんと認識しています」
「そうなんですか、いや、僕が何を尋ねても耳に入っていないようだったので」
「あなたのことを、警戒していたのでしょうね」
「…………」
 警戒、か。
 本当に、俺のことも、J&M時代のことも思い出せないのか……。
 不思議な症状だが、事故などで頭部を損傷すると、まま記憶の一部を失うこともあるという。
 高次脳機能障害と似たような症状だろうか。頭を怪我したわけではないから、唐沢社長の場合は精神的なものなのかもしれない。
 どちらにしても、しばらくの期間は、医療機関でのリハビリが必要なような気がした。社会復帰は当面無理だろうし、少なくとも年末のドームは……不可能だろう。
「あれが初対面の相手と喋るには、多少時間がかかります、けれど、どれだけ時間をかけても、……いまだに何も喋れない相手もいる」
「え?」
 言いにくそうに言葉を切ると、唐沢省吾は力なく首を振った。
「はっきりいいますと、どうも私の前では、……あれは、何も話せなくなるようなんです」
 唐沢の父親が呟いた言葉の意味が判らず、将は眉を寄せる。
 男は、寂しい笑みを浮かべて自身の膝を見つめた。
「……何か言いたげで、喉から言葉が出てこないような……思い出すのが苦しいような……言ってみれば私は、直人にとって、最も思い出したくない過去なんでしょう」
 最も思い出したくない過去。
 将は、病室での、唐沢の様子を思い出す。
 だとしたら、それは自分も同類なのだろう、という気がした。
 まるであえて遮断されているかのように、存在さえ視野に入れてもらえなかったのだから。
「記憶が混乱していることも含め、一種の失語症かもしれないといわれました、……でも、詳しい検査はまだ、これからですから」
「……怪我の、ショックで、そうなったんですか」
 これほどの有名人が刺されたというのに、新聞などでは一切報道はなされなかった。一体、いつ、どういう経緯でこんなことになったのだろう。刺したという元キッズは誰で、それからどうなったのだろう。
 それは病室でも口にした疑問だったが、男の態度からすると何も答えてくれそうになかった。
「怪我と……いうより」
 唐沢省吾は、口元の微笑を消した。
「受け入れられないんでしょうね、自分がなくしてしまったものや、自分が傷つけてしまったものが」
 受け入れられない。
 将は目をすがめて、看護婦と談笑している唐沢を見る。
 家族と、そしてJ&M。
 唐沢の記憶から抜け落ちているもの。
「あれはね……弱い男なんです、君らが思っているよりずっとずっと、ずっと弱い、そして寂しい男なんです」
 自分も含め、強いだけの人間なんてどこにもいない。
 けれど、将は、多少の失望を感じ、芝生に伸びる影を見つめた。
 そっか。
 唐沢さんは……駄目だったか。
 あんなに大人で、あんなに強そうな人でも、超えられないものってあるものなのか。
 J&Mがなくなって。
 自分たちがなくしたものと同じものを、唐沢もまた、なくした。
 そして今、多分、自分たちと同じ場所にいる。
 悔しさも憤りも、そこから出て行こうとするポテンシャルも、俺たちと同じだと将は思った。だからこそ新会社の社長は、唐沢直人しかいないと思ったのだ。
 その動機は、他のメンバーとは、少し違うと将自身は思っている。
 J&Mシステムを構築した唐沢直人がしてきたことが、全て誤りだったとも、全てが悪だったとも、今となっては思えない、が、そのシステムの中で、間違いなく傷つけ、切り捨ててきた人間がいる。
 将にとって、唐沢を信じられるか否かは、そのことを唐沢自身がどう解釈しているかにかかっていた。
 競争原理、資本主義経済の中で、唐沢の姿勢が正しかったのは理解できる、将にも答えはわからない、だから、二人で話し合ってみたかったのだ。
 でも――
 看護婦の問いかけに、笑って頷く唐沢の横顔。
「……会社が」
 ふいに胸がいっぱいになり、将は、言い差してうつむいていた。
 唐沢がしてきたことの代償は、将などがはかりしれない所で、唐沢自身が担い続けていたのかもしれない。今までも、これからも。
 J&Mにいた頃は一度も笑わなかった唐沢が、あんな風に笑顔を見せることができる男だとは知らなかった。想像してもいなかった。
 冷徹な仮面の下で、どれだけの痛みと苦しみに耐えていたのかも。
「会社があんなことになったのは、僕のせいでもあると思います、本当に申し訳ありませんでした」
 将は頭を下げる。
「君のせいじゃない」
 即座に男が、驚いたように将を振り返った。
「君のせいじゃないんです、柏葉君」
「いや」
「本当に違う」
 何か言いかけた将を手で制し、唐沢省吾は、疲れたように眉を下げた。
「……誰かのせいというなら、それは私のせいだ」
 そして男は呟くように息を吐く。
「私と……そして、しずくさんのせいかもしれない」
 真咲しずく。
 ふいに日が翳り、将の影を灰色の日差しの中に滲ませる。
「……私がお嬢さんに頼んだんです、私がしずくさんを呼び戻した、直人は会社を大きくしすぎた、足元をかえりみず、真田会長の思惑どおりに、経営を広げすぎた」
 私が、お嬢さんに頼んだんです。
 私が、しずくさんを呼び戻した。
 将はまだ、その言葉が理解できないままでいた。
「真田会長が、J&Mを見逃すはずはない。あの男の沈黙が、私にはずっと恐ろしかった、私は何度も直人に言いました、分相応の仕事をしろ、堅実にやれば足元をすくわれることは絶対にないと」
「…………」
「それでも、直人はきかなかった」
「……あの、」
 将は、迷いながら言葉を挟んだ。
「あの人に、真咲さんに、あなたは何を」
 男は目をすがめ、最初と同じ、悲しそうな目で将を見つめた。
「一年前、私は初めて、君が、静馬の子供だと知りました」
 不意打ちのように切り込まれた過去。今度は将が身構えている。
「静馬の遺児のことは、しずくさんから聞いてはいました。いずれ会わせてあげるとも言われていた、でも、まさか、J&Mにキッズ時代からいた君がそうだったとは、正直夢にも思っていませんでした」
「……それは、しずくさんから聞いたんですか」
「匿名のメールです」
 それには、少し考えてから、男は答えた。
「……匿名の?」
「匿名の差出人から、私個人のアドレスにきました。一体誰が、なんの目的で、今さら静馬や君のことを調べたのか判りませんでしたが、これが東邦の筋から来たものなら、真田会長の耳に入るのも、時間の問題だろうと思いました」
 匿名のメール。
 ここにも、見逃せないささやかな謎がある。それこそ一体誰が、何の目的で、だ。
 将は自身の動揺を隠したまま、目の前の男に先を促した。
「それで、あなたは」
「しずくさんに連絡をしました」
 すでに覚悟を決めたのか、男の口調はよどみなかった。
「私は言いました、真田会長は、必ずうちの会社をのっとりにくる。ここ数年の沈黙はそのためで、あの男は林檎が熟れ落ちてくるのを木の下で待っていたにすぎない、ここまできたら直人の力では止められはしない、だったらいっそ」
「………………」
「全てを奪われる前に、お嬢さんの手で、潰してほしいと」
「………………」
「私が……そう、頼んだんです」
 日差しが再び強くなる。
 将の中に、止まっていた周囲の喧騒が戻ってきた。
 あいつが。
 じゃあ、あいつが帰国した理由は。
 本当にうちの会社を潰すためだったのか――。



              4


「だから、あたしは身内だって言ってんのよ」
 聞き覚えのある声がした。
 まさかね。
 微妙に嫌な予感と、それとは相反する胸騒ぎを感じつつ、将は、声がする受付の方に足を進める。
 待合ロビー。
「いるんでしょ?調べはついてるのよ、どうして面会できないのよ、まだ面会時間終わってないでしょうが!」
「いえ……ですから、ご説明したとおり」
「回診時間?そんなもんどうになるじゃないのさ!」
……やっぱり。
 外来の患者、見舞いの客、そして受付嬢が、あまりの剣幕に青ざめている。
 やくざじゃねーんだ。
 将は苦笑しつつ、誰もが遠巻きに眺めている、異様に長身の女の背後に歩み寄った。
 デニムの上着にブーツ、足元には、少し大きめの荷物。
―――唐沢さん探して、ここまで来たんだ。
 そう思うと、少しだけ、この随分年上の豪傑女が愛おしくなる。
「九石さん」
「へ?」
 振り返り、あっ、と口をあけた見慣れた顔。久しぶりすぎて、ちょっと抱きしめたいくらい嬉しかった。
 女が落としたバックを、将はかがみこんで拾い上げる。
「よ、元気だった?」
「か、かかかか」
 唇をわなわなと震わせ、そこで、何かの糸が切れたのか、ぺたり、と九石ケイは座り込んだ。


 
                   5


「どうぞ」
 コーヒーを差し出すと、来客は優しい目で凪を見上げて微笑した。
「ありがとう」
「い、いえ、お粗末なものですが」
 テ、テレビで見るのと同じだし。
 流川凪は緊張しつつ、トレーを持って背後に下がる。
 東京。
 六本木にある高級マンション。
 無論ここは、しがない医学生である凪の部屋ではない。
「あの……まだ、帰ってなくて」
「うん、そうみたいだね」
「よかったら連絡してみましょうか」
「君は……」
 植村尚樹。
 元J&Mに所属していたタレントで、かつては美波涼二と「キャノン・ボーイズ」のユニットを組んでいた男。
 年は、美波より若いはずなのに、顔にも肌にもその実年齢がしっかりと刻まれている。
 午後、凪が出かけようとしたらいきなりやってきた男は、不思議に懐かしそうな目で、凪をじっと見上げた。
 彼が出演しているホームドラマの父親役と同じ、少し目じりの垂れた優しい眼差し。
 高級そうな皮ジャケットに、ジーンズ。そこは芸能人だけあって、一般人とは違うオーラをかもしだしている。
「美波の、恋人?」
「あー、恋人っていうか」
 凪はトレーを置いて、髪に手を当てる。
 もう、その質問なら、否定するのが面倒なほど何度もされた。
「マネージャー、みたいなものです」
「マネージャー?」
 不思議そうに、植村。
「事務所の人から、時々、仕事の電話とかかかってくるし」
 まぁ、電話番です。
 と、適当に答えておく。どうせ、信じてもらえないんだろうな、と思いつつ。
 間違いなく恋人ではないけれど、否定できるほど明確なラインもない。
 凪が毎日通うのを、ごく自然に美波は受け入れ、何かと世話をやいたり、来客の応対に出るのさえ、当たり前のように任せられている。
 世間的にみれば、恋人。
 みたいに見えるだろうし、否定する方が不自然なのだろう。
「そっか」
 嬉しいような寂しいような複雑な笑みを浮かべ、植村は凪が淹れたコーヒーを一口、口にした。
「美波、元気にしてるのかな」
「……仕事には、出てます」
「緋川と同じ事務所に移籍したんだってね、……あいつ、上手くやってんのかな」
「…………」
「藤堂さんが社長なら、大丈夫だろうけど」
 この人は、美波さんの、昔の仲間で。
 凪は少し不思議な気持ちで、玄関からずっと、妙に気後れしていた男の顔を見下ろした。
 とすれば、ストームみたいなもんだろうけど、友達の部屋で、どうしてこんなに、居心地の悪そうな顔をしているんだろう。
 会話が途切れる。
「元気なら、いいんだ」
 コーヒーを飲み干すと、それだけ言って、植村は立ち上がった。
「近くを通りかかったから、よってみただけでね、悪いね、留守にあがりこんじゃって」
「……いえ」
 寄ってみた。
 というほど、気楽な雰囲気でもなかったけど。
 例えて言えば、これから大舞台にあがります、みたいな緊張感をかもしていたけど、ドアフォン越しに顔を見たとき。
「元気じゃないです」
 玄関で、お茶の間ドラマの常連の背中を見ながら、凪はそう言っていた。
 J&Mがなくなって、有名どころが全て移籍を決めた中、植村尚樹はフリーで仕事をしている。それは、同じく個人事務所をたちあげた彼らのもう一人の仲間、矢吹一哉も同じことだった。
――― 一緒になっちゃえばいいのに……。
 元同ユニットでも、仲はそんなによくないのだろうか。
 それは、やはりばらばらになってしまったギャラクシーにも思ったことだった。
「今の美波さんは、ただ、生きてるだけです。何も考えてないし、何も見えてない、ただ、寝て、起きて、決められた仕事にいって、帰ってくるだけ」
 凪が続けると、靴を履いていた植村の背中が、動かなくなる。
「話しかけたら、何かは答えてくれますけど、自分のことなのに、まるで他人ごとみたいな感じです。……別の世界に生きてる人と生活してるみたい、あ、一緒に暮らしてるわけじゃないですけど」
 背中が、かすかに嘆息する。
「私には……色々やっても限界があって、……それでも、もう少し頑張ってみようと思ってるんですけど」
「美波は」
 初めて、沈黙していた植村が口を開いた。
「自分が望んで、今の場所にいるんじゃなかったのかな」
「…………」
 振り返った眼差しにあるのは、寂しげな、けれど、どこか毅然とした決別の色。
 その瞳の中に、凪は、わずかではあるけれど、あきらめにも似た怒りを感じた。
 当然、元J&Mの面子の中では、美波は裏切り者だし、恨みも憎しみも買っているのだろう。
 今は、凪にも判っている。
 J&Mは、計画的に潰されたのだ。そして――その片棒どころか、中心を担いでいたのが、多分、美波だ。
 美波さんが、望んでいた場所。
 少し考えて、凪は立ち上がった植村を見上げた。
「私には、仕事のことはよくわからないですけど」
 美波さんは、多分。
「あの人は、帰りたいんじゃないかと思います」
「どこへ」
 植村が、いぶかしげに目をすがめる。
「J&M」
 深く閉じ込めた心の底で。
 ずっと、帰りたいと願っている。
 深く深く。
「……美波さんが、一番大切にしているところにです」
 多分、彼自身が封印している場所で。











 
 ※この物語は全てフィクションです。



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