14



 食事処 末永
 傍らを通り過ぎた白い年代物のバンに、黒字でそうプリントしてある。
―――迷うまでもなかった。
 将は、サングラスを外して、それをジーンズのポケットに収めた。
 駅から商店街を抜け、ほぼ一本道。
 ゆるい坂道、そのパンが数メートル先で止まったので、目指していた店が、もう目の前にあったのだと気づく。
 車は慣れた様子で向きを変え、バックで敷地の中に入っていく。
 将は少し足を速め、車が消えた建物の、その全景が見える場所まで歩み出た。
「へぇ……」
 木立に囲まれた静かなたたずまい。
 黒い屋根と木製の塀に囲まれ、門扉は古めかしい武家屋敷風。
 木製の看板に、墨痕鮮やかに「食事処、末永」と書かれている。
 初めての町、そして初めての店なのに、不思議と懐かしい気がしたのは、その店構えに、末永真白の印象が重なったからかもしれない。
 車から出てきたとおぼしき男が、両手に大きなダンボールを抱え、じゃりを踏みしめながら、将が立つ門扉近くまで歩み寄ってくる。
 背が高く肩幅が広い、胸板も厚い、いかつい男。
 赤く日焼けし、短く刈った灰色の頭には、紺の鉢巻を締めている。
 いかにも寡黙そうな目が、ふと将に向けられたので、将も自然に、目礼を返していた。
―――全然にてねーけど、まさか、末永さんのお父さんってことも……。
 が、声をかけるまでもなく、作務衣を着た男は、そのままさっさと店の中に入っていった。
 将は時計を見る。
 午前九時半、まだ、店が開くには早い時間だろう。
 そもそもこの家に、今、末永真白がいるかどうかさえ、確かではない。
―――店開くまで時間潰して……様子聞いて、帰るかな。
 りょうに、会いに行く前に。
 将はどうしても、真白に一度会ってみたかった。その近況を確かめたかった。
 自分たちが傷つけ、そしてある意味人生を壊してしまった女。
 こうやって会いにいくことが、むしろ末永家にとっては、迷惑きわまりないことも承知している。そして、もしかすると、彼女自身にとっても、ただ不幸なだけの邂逅になるかもしれないということも――。
 りょうと、会ってんのかな。
 意外に近い場所に住んでんだ、二人、そっか、高校の先輩後輩だったっけ。
 それでりょう、いつまでも末永さんに甘える癖、抜けねーんだろうな。
 そんなことを思いながら、店に背を向けて歩き出した時だった。
「柏葉君?」
 明るい声が背後からした。
 その声が、びっくりするほど明るかったので、将は振り返っても、しばらくその声の主が誰だか判らないままだった。



               15


「入っていいの?」
「うん、いいと思うよ」
 真白があっさり言って鍵を回したので、将は少し驚いていた。
 もしかして、一緒に住んでる……とか。
 いや、まさか、と思い直す。
 さっき出た店と何百メートルと離れていない。いくらなんでも大胆すぎる。
 店から十分の距離もない場所にある小さな軽量鉄骨のアパート。静かな住宅街、外装も内装も、若者向けで小綺麗なものだ。
「それにしても、間が悪かったね」
 ノブに手をかけながら真白が言った。
 開いた扉。
 少し、懐かしい匂いがした。
 りょうが好きだったフレグランスの香り。
「りょうね、今日は福岡なの、ダンスレッスンで、知ってた?」
「いや……」
 靴を脱ぎ、先に部屋に入った真白が、カーテンを開けて風を入れる。
 ベランダに、洗濯物がはためいていた。窓際には黄色い花が揺れている。
 卓上には並んだカップが二つ。
 小さな生活と、そしてささやかで優しい幸せの空間。
 部屋にあがった将は、自分が招かれざる客人であることを、わずかな寂しさと共に実感していた。
 東京のことも、芸能界のことも、ストームのことも。
 何ひとつ残滓のない、新しい生活のための部屋。
「先月から俳優養成学校で、ダンス講師の仕事してるの、子供相手に」
 振り返った人は、清々しい笑顔で将を見上げた。
 透き通った肌は心なしか日に焼けて、別人のように短くなった髪は少し明るめのショートレイヤー。落ち着いた優しい眼差しが、今の彼女の幸福を、何より物語っている。
―――でも。
 将はふと、視線を止める。
 その笑顔に、時折淡い翳りが見え隠れするのは気のせいだろうか。まるで水面を束の間よぎる、何かの黒い陰のように。
 が、それはすぐに、澄んだ日差しのような笑顔で覆われる。
「想像できる?初対面だと、世界で一番感じの悪い男が、よりにもよって先生だよ」
「ひどいな、それ」
 将は苦笑して呟き、綺麗に片付いた室内の模様に視線をめぐらせた。
 りょうの部屋というよりそれは、大阪で見た末永真白の部屋のような気がした。
 壁や棚の上には沢山の写真立て。りょうが、ここに戻ってから撮ったものだろう、幸福そうな恋人のありふれた日常が、大切に切り取れらて飾られている。
「待ってね、すぐに風が通って涼しくなるから」
 真白は、馴れた手つきで冷蔵庫を開け、中から冷茶の入ったポットを取り出した。
「でも、そんなにりょうって最悪だったんだ」
 腰を下ろした将は、白い円卓に肘を預けて、キッチンに立つ真白を見上げる。
「もう超最悪。だって私忘れてないもの、一番最初に職員室で会った時、はーとかへーとか、最後には何話しかけても、まるっきり無視」
「りょうは女の子にはシャイなんだよ」
「あれをシャイっていうなら、礼儀知らずって言葉はこの世にはないわね」
「ははは」
 グラスを卓上に置いて、真白は将の前に膝をつく。
「びっくりするわよ、意外に似合ってるから、先生」
「今度、見てみるよ」
「…………」
「…………」
 会話が途切れると、不思議なくらいぎこちない空気になる。
「柏葉君、いつまでいられるの」
 それを振り切るような笑顔で立ちあがった真白は、店からつけていたエプロンを外しはじめた。
「今夜は遅くなると思うんだけど……、柏葉君がくること、りょうは知ってるのかな」
「いや、連絡はしてないんだ」
「携帯は?」
「番号なくしちゃってさ、連絡取れてないって、りょうから聞いてないかな」
「あまり……昔のことは、話してくれないから」
 そのまま台所に入る真白は、将と、わざと目をあわさないでいるようにも見えた。
 昔。
 昔か。
 将は無言で、真白の横顔を見る。
「悪いけど、講義中は携帯とか使えないから、……私からは連絡できないと思うんだ」
 ぎこちない声で、真白。
「いや、特に帰る時間は決めてないから、このまま待つよ」
「……そう」
 末永真白とは、再会してからずっと、昔と今の話しかしていない。
 一度も、これからのことを聞かない彼女は、もしかすると将の来訪の意図を、薄々察しているのかもしれない。
 それでも、想像もできないだろうと将は思う。
 あんな事件を起こした俺が、またストームを再結成して。
 年末のドームで、旗揚げ公演をするなんて。
 言えば、彼女はどういうだろう。笑ってりょうを送り出してくれるだろうか、それとも。
「何か食べる?」
「えっ、いや、いいよ、あんなに食ったばかりだし」
「ごめんねー、お母さん過剰サービスしすぎ、だって嵐の十字架の大ファンだったんだもん、あの人」
「……はは」
 嵐の十字架か。
 懐かしいな。たった数ヶ月前のことなのに、もう何年も前のことみたいだ。
 昔――
 そうだ、昔だ。
 確かにここから見ると、東京での出来事は全て、すでに取り戻せない過去のものなのだ。
「柏葉君来てるって、せめて携帯にメールしとこうか」
「……うん、悪いね」
「お茶、いい?」
「もういいよ、ありがとう」
 空になったグラスを真白が取り上げる。沈黙は、やはりどこか気まずい気がした。
「公認なんだ」
 今度は将が、目に笑いを浮かべながら言った。
「公認っていうか、監視つき?」
 真白も笑う。
「時々りょう、お父さんと二人で、店にご飯食べにくるの。お父さんに見られると、私なんて緊張しちゃって、そういう時、どうしてればいいんだろ」
 末永さん、変わったな。
 なんつーか、もう、俺なんかが手におえる女じゃなくなったって感じがする。
「普通にしてればいいんだよ」
「そう?」
「末永さんのことは、俺だって認めたんだ、大丈夫だよ」
 ふいに真白の目が、笑顔の余韻を浮かべたまま、日差しが翳るように色褪せた気がした。
 その変化を不思議に思いながら、将は、かつてのりょうが、頑ななまでに父親を拒絶していたことを思い出す。
 むしろその感情には、憎しみさえこもっていたように思えたのに。
「……親父さんと、和解したんだな」
 色んなことがあって。
 りょうも、きっと変わったんだろう。
 俺の知っている、俺の後をついてきた寂しがりやのりょうは、もう……どこにもいないのかもしれない。
「なんだか見ててぎこちないけどね、二人で親子ごっこしてるような感じ……かな」
 真白は言い差し、彼女自身がぎこちない笑みを浮かべ、座る将から視線を逸らした。
「じゃ、私、帰るけど」
「うん、ありがとな」
「鍵は店に返してくれる?りょうにはメール入れとくから」
「末永さん」
 それでも将は、最後に真白を呼び止めていた。
 少しためらってから、それでもはっきりと口にする。
「……りょう、連れ戻しにきたんだ、俺」
 振り返らない背中。
「わかってたかもしれないけど」
「…………」
 そのまましゃがみこみ、玄関で靴を履きながら、うつむいた真白は小さく頷く。
「末永さんには、あまり、なんつーのかな、いい話じゃないのかもしれないけど」
 それには答えず、立ちあがった真白は、静かな眼差しで将を見上げた。
「今、りょうね」
「……うん」
 その目が、ふいに柔和になる。
「舞台の演出みたいなのやってるの、十二月にね、生徒さんの発表会があるんだって」
「へぇ……」
 話の意図が判らないままに、将はただ、微笑して頷く。
 真白は、楽しそうに続けた。
「その演目がね、羽衣伝説。しってるかな、民話の、天の羽衣って話なんだけど」
「知ってるよ、天女が羽衣をなくして天に戻れなくなる話だろ」
「ううん、なくすんじゃないの」
 不思議な笑顔で、真白は首を横に振った。
「隠されるの、彼女のことを好きになった男に」
「………………」
 天から地上に降りてきて、水浴びをしていた天女。
 その姿をみかけた農夫が、天女に一目ぼれをし、その羽衣を隠してしまう。
「羽衣を失った天女は、天に戻れなくなるの、それで仕方なく農夫と結婚して、やがて本当に愛し合うようになるんだけど」
 空で視線を止めたまま、真白が言葉を途切れさせる。
 なんだろう。
 なんの話がしたいんだろう。
「忘れたけど、確かその話、地方によって色んなパターンがあるんじゃなかったかな」
 将が助け舟を出すと、真白はわずかに笑って首を振った。
「……りょうのやってる舞台の続きはこう、ある日天女は、農夫が隠していた羽衣を見つけてしまいました。よろこんだ天女は、そのままうっかり天に帰ってしまいます。愛し合う2人は、天と地に別れて、もう永久に会うことはありませんでした」
「………………」
 末永さん。
 将は口を開こうとした。それを遮るように、真白がまっすぐに将を見つめる。
「りょうの羽衣、私が隠してるんだ」
「………………」
「絶対にみつからないところ……りょうにも、柏葉君にも」
「………………」
 雲が空を流れている。暗く陰っていく室内。
「ひとつ、聞いていい?」
「いいよ」
「東京に戻るのが、りょうの幸せ?」
「…………」
「私より柏葉君が、本当にりょうを幸せにできるの?」
「……………」
 挑むように見つめる瞳に、将は何も言えないまま、ただ黙って目をすがめた。
 りょうの、幸せ。
 それが答えとして判るなら、悩む必要は何もない。
 


               16


「失礼します……」
 そこに誰がいるかも判らずに、扉を開けた雅之は、そのまま凍り付いていた。
 東京、六本木にある高層ビル。
 元J&M仮設事務所があったスペースが、今はそのまま、ニンセンドー・プロダクションの事務所になっている。
 来客用の応接室で待ち構えていたのは、昨日会ったばかりのアルマーニ水嶋。
 その隣には、金髪で長身の、異国のビジネスマン風の男が座っている。
「やぁ、成瀬君」
 立ちあがった水嶋は、気まじめな面差しで軽く会釈してくれた。
「久しぶりにきたが、ここも変ったね」
「はぁ……」
「まぁ、座って」
 なんだろう。
 この、商談、みたいな和やかな雰囲気は。
 ソファで足を組みながら、水嶋はどこか鷹揚に微笑した。
「今の社長は、御影さんだったね」
「ええ、まぁ」
「お会いしたかったが、忙しいみたいだね、よろしく伝えておいてくれたまえ」
 J&Mを吸収する形で設立されたニンセンドー・プロダクション。その代表取締役社長は御影亮。
 ニンセンドー、同社長である。
 が、その社長に、雅之は今まで、ただの一度もお目にかかったことはない。
 それはまぁ、母体となる会社がでかすぎるからしょうがない。御影亮は、世界でもトップランナーのビジネスマンなのである。
 完全子会社化するなりなんなりして切り離せばいいものを、どうしてわざわざ名ばかりとは言え、御影が社長職についているのか、多少理解に苦しむ所であるが、その御影の妻が、元J&M副社長で元ストームのマネージャー真咲しずくなのだから、そのあたりの夫婦の事情というのもあるのかもしれない。
 雅之が初めて足を踏み入れる来賓用の応接室。
「……あの、俺に、なんの用でしょうか」
 会話が途切れるのを見計らって、ぎこちなく雅之は訊いた。
 まだ一言も口を聞かない金髪碧眼の男も気になる。
 夕方、仕事を終えた雅之が、呼び出されて社に戻ると、すぐに顔なじみのマネージャーが、この部屋に通してくれた。
「昨日は、いきなりあんな真似をしてすまなかったね」
 アルマーニ水嶋は丁寧な口調で言い、事務的に頭を下げ、手で隣席の男を指し示した。
「こちら、映画『最終防衛線』の日本でのキャスティング担当をしている、ドリームワークのケント・ワット氏だ」
 初めて、同席している男を紹介される。
 青い目をした美男子は、笑うと顔一面に皺がより、見た目より随分年がいっているのだとわかった。
 なんの話だろう。
 立ち上がっておざなりの握手を交わし、雅之は落ち着かないまま、再び席に腰を下ろす。
 わざわざ事務所で、こういった形で引き合わされたということは、この話は、すでに上層部にも伝わっているということだ。
「9月15日だ」
 軽い咳払いをした後、いきなり、水嶋が切り出した。
「その日までに、憂也が最終結論を出さない限り、彼はこの映画のキャスティングから外される」
「……………」
「それが、昨日、監督を含めた主要スタッフで出された結論だ」
 唐突に突きつけられた、残酷な最終通告。
 雅之は無言で、視線を下げる。
 憂也。
 お前は……こういうの、全部最初から判ってたのかよ。
 ケントと、紹介された異国人が、流暢な英語で何かを喋っている、無論、雅之にその意味は理解できない。
「向こうでは、暴力事件に対する反応は、むしろヒステリックなほど過敏だ。特に外国での事件は、事実と結果のみが報道される傾向にあり、被告への同情を買いにくい」
 アルマーニが翻訳する。
「憂也が、暴力事件を起こした友人を擁護し、同じユニットを組むと判った時点で、スポンサーが過剰な反応をするのは目に見えている。そのような危険を、あえて我々は犯してまで、綺堂憂也にこだわる必要は何もない」
 憂也……。
 お前は、一体、どうしたいんだよ。
 で、俺は、こんなこと聞いちまった俺は、一体どういうリアクションすればいいんだよ。
「成瀬君、残酷なようだが、これが現実なんだよ」
 アルマーニ水嶋の、静かな声がした。
「君たちの復活によって、憂也のアメリカへの夢は、完全に閉ざされることになる」
「………………」
「それだけのものを失う憂也に、君は一体、何をしてやれるんだね」
 俺が、俺が憂也にしてやれること……?
「俺になんの、用なんですか」
 雅之は、再度聞いていた。
 それ以外に、言いようがなかった。返す言葉など、最初からないから。
「はっきり言おう、いや、……これは、お願いなんだが」
 水嶋は居ずまいを正して、正面から雅之を見た。
「君から憂也を説得してやって欲しい。憂也に言ってやってほしい。ストームに、もう憂也は必要じゃないと」
「………………」
「そう、はっきり言ってやってくれないか」
 俺が。
 俺が、憂也に。
「ど……して、ですか」
 うつむいたままで、雅之は呟いた。
 どうして。
 どうして俺が、そんなことを。
 そんな残酷なことを、今の憂也に言えるだろう。
「憂也のためじゃないか」
 水嶋の口調は、子供に言って聞かせるように優しかった。
「憂也はね、君の言うことならなんでも聞くんだ」
 ケントがタバコを取り出して唇に挟む。エクスキューズミーという英語だけが、雅之にも聞き取れた。
「憂也にもし、過去を断ち切れるとしたら、それを助けられるのは君だけなんだよ、成瀬君」
「俺……」
 足元が頼りなくゆれている。
「君が、憂也のことを本当に友達だと思っているなら、の話だが……」
「…………」
 煙草の煙だけが、ゆっくりと室内に満ちていく。
 ごめん、聡、将君。
 情けない。
 俺……たったこれだけの壁が、もう乗り越えられないでいる。
 何が、憂也にとっての幸せなのか、もう判らなくなっている。
「僕はね、成瀬君」
 いつのまにか、目の前にはコーヒーが並べられていた。
「僕は大げさではなく、人生の全てを憂也にささげているつもりだ」
「わかってます」
 雅之は、目の端に滲んだ涙を指で払った。
 今が、自身の正念場だということは判っていた。
 ひとつの、決断を、しかも残酷な決断を迫られている。
「人生を賭けて借財し、憂也のための事務所を作った、君より俺の方が、何倍も憂也を支えられるし、幸せにできると自負している」
 わかっている。
 そんなこと、最初から。
「日本人の誰一人として立ったことのない、赤絨毯の向こう側に、憂也なら立てるかもしれない。いや、立てる、俺はそう確信している」
 水嶋の手が、カップを掴む。
 沈黙があった。
「憂也に、電話してやってくれないか」
「…………」
「まぁ、無理かな」
「…………」
 水嶋が、黙って赤い携帯を机の上に置く。
 再び、沈黙。
「言ってみれば、君らにとっての命綱も、憂也なんだろう?」
 どこか、憐れむような声だった。
 雅之は強張ったまま、視線だけを動かした。
「君らが今、自分たちの復活のために憂也を必要としていることも理解しているつもりだよ。言っては悪いが……憂也がいなければ、君たちは、ただの」
 そこで言葉を濁されたが、水嶋が何を言いたいかは、理解できた。
「可哀想な奴だな、憂也は」
 わかりました。
 雅之は顔をあげたかった。
 それが、限界だった。
 もういいと、全部あなたの言うとおりですと、そう言ってやりたかった。が、何かが重く頭を押さえつけている。
 言葉にも感情にもできない、何かが。
 友達と、自分と。
 その将来をはかりにかけるとして。
 俺たちにとって、一番大切なものは――。
「昨日も言った」
 静かな声で、水嶋が再度口を開く。
「憂也は今まで、沢山の時間を君らのために犠牲にしてきた。ひどいことを言っているのは百も承知だ、一度でいい、今回だけでいい、今度は君が、憂也のために犠牲になってくれないか」
 犠牲。
 犠牲――。
 赤い光沢を放っている携帯電話。
 この向こうに、憂也がいる。
 俺の言葉を……待っている。
 でも、それがどんな言葉なのか、もう雅之には判らない。
 背後で扉が開く音がした。
「誰かの犠牲になるとか、ならないとか」
 落ち着いた声には聞き覚えがあった。雅之は、はじかれたように顔を上げた。
「憂也なら、そんな言い方は絶対にしないと思います」
 雅之が何か言う前に、眉を寄せたアルマーニが口を開いた。
「君は」
「ストームのリーダー、東條です」
 すがめた目で聡を睨む男の前に、聡は静かな表情で、歩み寄った。
「僕たちは誰の犠牲にもならないし、誰かを犠牲にするつもりもない」
―――聡君
 雅之は、夢でも見ているような気持ちで、目の前に立つ聡を見上げた。
 フォーマルなスーツにネクタイまで締めている。これから、就職活動でもしそうなスタイル。
「ただ僕たちの意思でここまで来て、僕たちの意思で、この先に行こうとしているだけです」
「理想的な言葉だがね」
 聡を見上げ、アルマーニは薄く笑った。今までの表情が別人のような、酷薄な笑い方だった。
 雅之は固まったまま、立ったままの聡と、それを見上げている水嶋を交互に見る。
「では聞くが、憂也の将来をダメにする権利が、君らにあるとでもいうのかな」
「憂也が決めることです」
 聡の声はゆるぎない。
「誰にも決められない、あなたにもです。それは憂也だけが、決められることです」
 憂也だけが、決められること。
 憂也だけが。
 雅之の中で、固まっていたものが、ゆっくりと溶けて、流れていく。
 無言で水嶋を見上げる水嶋の額に、神経質そうな青筋が浮きだしていくのが判った。
 ケントが時計を見ながら、早口で何か言っている。
 時間に制限があるのか、水嶋は舌打ちをして立ち上がった。
「青臭い話はもういい」
 そして、本当に殺意でもこもっているような目で、雅之と、そして聡をねめつけた。
「現実のビジネスはそんなに甘いものじゃない」
 インテリヤクザ。
 憂也が形容したまさにその姿が、目の前にあった。
「憂也は何があっても、もう日本には返さないからそう思っていろ!」



                17


「ふぅーっ」
 ソファに腰かけ、ネクタイを緩める聡を、雅之は半ば涙の滲んだ目で見下ろした。
「さ、聡君が将君に見えるんだけど、俺」
 なんだかかっこよすぎて、涙もでてこねーよ、マジで。
 何の意味があるのか、そのスーツも似合いすぎだし。
「心配したけど、間に合ってよかったよ」
 聡は、はぁっと安堵したような息を吐き、少し、責めるような目で雅之を見た。
「事務所から連絡あったんだ、なんか仕掛けてくるとは思ったよ、水嶋さん。雅だけを狙ってきてるのがそもそもへんだろ」
「………俺が、憂也と仲いいから」
「それもあるけど、一番……まぁ、それはいいや」
 いや、その先。
 どうせバ……とか、ア……とか、た……とか言いたかったんだろう。
「ま、後は憂也に任せるしかないね」
 再び立ち上がった聡の声は、さばさばしていた。
「でも……任せるって」
「子供じゃないんだ、本気で逃げようと思ったら、どうやったって帰ってくるよ」
 聡の、普段から優しい穏やかな目の中に、静かな、腹をくくったような落ち着きが滲んでいる。
 が、その目がふと、遠くを見るような眼差しになった。
「もしかすると、憂也は……迷ってんじゃないかな、どっか深い根本のところで」
「…………」
「あ、ごめん、これは俺の、勝手な思いこみかもだけど」
 迷う。
 雅之は昨夜の、一片の陰りもない憂也の啖呵を思い出す。けれど、その一方で今朝別れた時、元気なようでどこか頼りなかった眼差しも。
 それはそうだ。
 背負っているものが、裏切るものの規模が雅之や聡とは違いすぎる。
 憂也が、今、一人でどんな気持ちでいるか、想像するだけで、胸が痛むような気がした。
「俺……どうすればいいのかな」
「どうもしなくていいよ、どっちにしても、憂也が決めることなんだから」
 そして聡は、少し厳しい目で雅之を見た。
「現実が厳しいのは俺たちだって一緒なんだ、逆に憂也が、今、雅のことを心配してるかもしれないだろ」
「…………」
「友達の立場を持ち出されたら、苦しいのは誰だって同じだよ、早く自分たちのこと、けりつけよう、俺たちは」
 ネクタイを締めなおし、聡が扉に向かって歩き出す。
「ど、どこいくの?」
「ん?スポンサー探し」
「…………」
「迷惑かけちゃうもの、全部埋めることはできないけど、できることは、なんだってやろうと思ってさ」
「…………」
 うん。
「……うん、うん、そうだよな」
「雅も行く?」
「いくっ、つかやるっ、俺もやるっ!」
「だったらまず、着替えて来いよ」
 自分の足で歩いていくんだ。
 俺たちの足で、俺たちの言葉で。
 将君、俺たち頑張ってるよ。
 だから絶対に。
 絶対にりょうを、連れて帰ってきてくれ――。






















 
 ※この物語は全てフィクションです。



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