9
「冗談じゃないですよ、何ふざけたこと言ってんですか!」
覚悟していた第一声は、監督の尾崎智樹ではなく、助監督で尾崎の大学時代の親友のものだった。
白崎孝太郎。
まだ大学四年生。
この映画づくりの、実質影の立役者で、スポンサー探しから資金集めまで、親友尾崎になりかわって奔走していた男である。
「ここまで引っ張っておいて、無責任にもほどがありますよ、冗談じゃない、せっかくついたスポンサーに、どう言い訳すんですか!」
「それは……」
路上撮影に入る前、着替えのために借りた集会所。
畳敷きの部屋に正座する聡の前に、スタッフ、出演者、全員が詰め寄っている。
尾崎智樹は、聡の正面に座っている。
尾崎にとっては、監督デビュー第一作。
私財の全てを投げ打ち、借財までして、この映画に賭けている。
「せめて、待てないですか」
いいにくそうに、が、はっきりと非難をこめて、その背後からGUN隊員役の声がした。
「映画の公開終わるまで、待ってもいいんじゃないっすか、何もそんなに……焦らなくても」
「悪いけど、そんくらいは配慮してくれてもいいんじゃないんすかね」
後の声には、聡のせいで「セイバー」そのものが中断されたことに対する、明らかな批判が含まれている。
「東條さん、俺、……東條さんたちの悔しい気持ちは判るし、柏葉さんのことにも、むしろ同情してるけど」
言いにくそうに口を挟んだのは、聡のスキャンダル記事が出た後も、一切責めごとを口にしなかった若手俳優だった。
「はっきりいって、今回ばかりは無茶すぎんじゃないかと思いますよ、こんな言い方したらあれだけど、柏葉さんは……まだ」
そこで、口調が少し小さくなる。
「早すぎますよ、なんつーか、贖罪期間、みたいなもの、せめて置かなきゃ」
「また、マスコミに滅茶苦茶叩かれますって」
「それで、この映画まで中止になったら、どう責任とるつもりなんですか!」
最後は、助監督白崎の怒声で締めくくられる。
尾崎は、陰鬱な目を伏せたまま、最初からずっと口をきかない。
聡は無言で、うなだれた。
ストーム、もう一回、五人でやることになりました。
旗揚げ公演を年末にします。そのことで、この現場に、もし迷惑になるようなら、俺をクビにしてください。
打ち明けた途端、和やかな空気が凍りついた。
当たり前だ。
もう、撮影は三分の一が終わっている。
スポンサーは、聡がいるからなかなかつかなかったし、逆に、聡というメジャーがいるからついたとも言える。
それ以上に、恐怖がある。
ストームが、ほんの数ヶ月前、メディアという凶器にずたずたにされたことを、ここにいる全員が知っている。トップユニットがその座から引き摺り下ろされ、私生活さえ暴露され、ネットで、血祭りにされたことを、全員が知っている。
その恐ろしさは、芸能界に身を置くものであれば、人事ではなく、誰にとっても薄板一枚下の出来事なのだ。
辞めても、続けても、金銭に換えることのできない以上の、莫大な迷惑がかかる結論。
「まだ、それ、内々の話なんでしょう?」
眉を神経質そうに動かしながら、白崎が言った。
「なんとでも変更できるんでしょう?というより、東條さんの事務所の承諾、とってんですか、そもそもの話」
「事務所は……」
聡は、覚悟を決めて居住まいを正した。
「話し合いの上でのことにはなるけど、近い内に、辞表を出すつもりです」
「は……?」
唖然と、白崎だけでない、全員が、あっけに取られたように口を開けた。
「それで?それでどうやって、一体どこで、いまさらストームなんかが、旗揚げするつもりなんですか」
「無茶苦茶だよ、東條さん」
「よせよ、本当に芸能界干されちゃうよ、そんなことしたら」
口々に声が飛ぶ。
非難もあるが、本当に聡のことを案じている声もある。その声に励まされるように、聡は顔をあげ、全員を見回した。
「これが公になると、また、前みたいな騒ぎになるかもしれないってことは、覚悟してます、いや、覚悟っていうか」
これは。
「これは、ストームが仕掛ける、戦争みたいなもんだから」
膝の上で、固く拳を握り締める。
戦争。
そう、これは、ストームが自分たちを締め出した世間に対して仕掛ける、戦争だ。
「負ければ……何も残らないってことは、覚悟してます」
沈黙。
「……どうして」
ため息が、対面の白崎の口から漏れる。
「馬鹿だよ、あんたは」
聡は、用意していた包みを鞄から取り出した。
「これ、俺の……、全財産です」
自分でもびっくりするくらいの厚みがあった。今朝、銀行から全額引き出してきたままのもの。
母親は何も言わなかった。ただ、あんたはボケてるから、うっかり落とさないようにね、とだけ言ってくれた。玄関を出る時、涙をこらえるのに必死だった。
「金ですか」
差し出した途端、冷めた声が、どこかから聞こえた。
「金で解決っすか、そういうもんじゃないでしょうが!」
「金で解決しようなんて思ってない!」
聡もまた、初めて声を荒げて言い返していた。
その場に、緊張の静けさが走る。
「俺の、みんなへの、」
不意打ちのように、声が途切れた。
聡は、自然に零れた涙を手の甲で拭った。
「…………せいいっぱいの、気持ちです」
歯を食いしばり、聡はその場に土下座して、頭を畳に擦り付けた。
「やらせてください!お願いします!」
百パーセント、虫がよくて。
殺されても仕方ないほど、身勝手なことを言っているのは判っている。
「これで、何もかも失ってもかまわない!二度とこの世界に戻れなくてもかまわない!やりたいんだ、将君入れた五人で、もう一度!」
もう一度。
例えそれが、人生最後のステージになっても。
そこで、灰さえ残らないほど燃え尽きてしまっても。
「もう一度やりたいんだ……、お願いします……!!」
沈黙。
畳がきしみ、目の前の尾崎が、ゆっくり立ち上がるのが判った。
「時間おしてっから、撮影、入りましょうか」
普段通りの声だった。というより、聡を完全に黙殺した声。
「東條さん、早く着替え、お願いします」
感情のこもらない声を最後に、尾崎が部屋を出て行く気配がする。
「どうなんだよ、一体」
「この映画もセイバーの二の舞になるのはゴメンだぜ」
不穏な囁きと共に、室内から、一人、二人と消えていく。
「……お願い、します……」
聡は、同じ姿勢のまま、うめくように呟いた。
10
「……どうすりゃ、いいんだよ」
沈黙の末、最初に呟いたのは、プロデューサーの崎田博だった。
稽古場として借りているスタジオの控え室。
座る雅之の前には、座長のおはぎ、こと萩尾礼二と、演出の斉藤仁、そしてプロデューサーの崎田が座っている。
雅之の告白を聞いた直後から、固まってしまった空気。
「スケジュール的には……全然問題、ないんですけど」
雅之は呟いた。
これ以上、なんと言っていいのか判らなかった。
「まぁ、それはね、判ってるんだけど」
崎田は、むさくるしい癖毛を丸い指でかきあげる。
「雅君が、他に入れる仕事までね、僕らがどうこういう立場じゃないってことも、判ってるんだけど」
おはぎは何も言わない。
やや童顔の丸顔をうつむけて、じっと膝のあたりを見つめている。
「こういったらあれだけど、一応主役だし……色んな意味で、看板だったんだよね、雅君は」
苦々しげに、崎田は呟いた。
「雅君がいたから、ついたスポンサーなんだ、でも、ストームの成瀬雅之だったら絶対に無理だった、その意味、判るかな」
「…………」
判る。
暴力タレントを庇った、常識知らずの馬鹿なアイドル。
そして、美談の影で、心臓病の娘を持つ母親と関係を持っていた似非ヒーロー。
それが、雅之につけられたレッテルだ。
「事務所も新しくなって」
疲れた声で、崎田が続ける。
元々エフテレビのプロデューサーだった崎田には、この舞台は、独立後初めての仕事だった。信用もかかっているし、この業界での未来も当然かかっている。
「雅君もソロになって……イメージ一新されてるってことで、将来への期待値もこめて、ようやくついたスポンサーだよ」
「…………」
判っている。
最初に、スポンサーだという洗剤会社の社長に挨拶させられて、その席で「暴力はいかん、人間として最低な行為だ」と、散々説教されたから。
将のことをどれだけこきおろされても、ただ、我慢して頷くことしかできなかった屈辱の記憶。
その我慢も、雅之を推薦してくれたおはぎに迷惑がかかってはいけないと思ったから出来たことだ。
「うーん」
眉を大きくしかめ、崎田がうめく。
「まいったな、資金繰りがつかなきゃどうにもならない、どう考えてもおしまいだよ、この舞台は」
「なんとか……ならないっすか」
思わず雅之は言っている。続けたいのは、雅之も同じだった。この舞台も、仲間たちも、この空気も、全てが大切だし、愛おしい。
「なんとか?方法はあるよ、雅君がストームなんかに戻らなけりゃいい」
はき棄てるような崎田の口調が、彼の本心を言い表しているようだった。
それには、雅之が黙ってうなだれる。
「……どうだろう、時期を、少しずらす、とか」
初めて、それまでずっと黙っていたおはぎが口を開いた。
「無理にとは言わないけど、この舞台は、十月半ばから始まるだろ、長くても11月には終わるんだ。それ終わってから、公表ってわけにはいかないかな」
「………それは」
雅之は、いい差し、眉を寄せる。
「できるかも、しれないですけど、でも、どっかで噂でも漏れたら」
多分、隠し通すことはできないだろう。
ドーム公演のことは、さすがに規模がでかすぎて打ち明けてはいないが、それだけの規模のところで公演をする以上、事前に情報が漏れない方がどうかしている。
「……そうなったら、否定できねぇし、結局、迷惑がかかることになるんじゃないかと思います」
バッシングの嵐が、再び雅之を襲うだろう。
それはもう覚悟している。母親にも打ち明け、来年までは、しばらく家を出ようとも思っている。
が、そのバッシングの刃が、この舞台の関係者にまで及んだら……。
ふぅーっと、重いため息と、煙草の煙が室内に満ちた。
「どうしようもないってことか」
「すいません」
「チケット出回ってないのが救いだけど、もう情報流れてるしな、いまさら出ませんってのもねぇ」
「……すいません」
謝っても。
何度謝っても、追いつかないって判ってるけど。
膝で、雅之は拳を握り締めた。
悔しかった、自分の非力さも、限界も。判っていて――なのに、それでも、揺るがない気持ちも。
「本当に……すいません!」
ドームで、もう一回勝負をかける。
たとえそこで、人生の全てが終わっても。
負けて、何ひとつ残らなくても。
この気持ちだけは、何を言われても変えられない。
「まぁ、いいけどね、雅君がどんな仕事いれようと、俺らが口だす筋合いはないから、マジで」
別人のように冷めた声で、崎田は椅子を蹴るようにして立ち上がった。
内に秘めた怒りが、恐ろしいほど伝わってくるようだった。
「ただ、これで舞台潰れたら、おたくの事務所に賠償金請求することになるから」
賠償金。
思わぬ言葉に、雅之は言葉を失っている。
「でなきゃ全員、オマンマの食い上げだよ!」
荒々しい足音が、部屋を出て行った。
事務所。
俺の事務所って、どこだろう。
そんな金払ってくれる事務所が、あるんだろうか。今のニンセンドープロダクションにそれ被ってもらうとして、そんな借金を抱えたまま、俺、移籍なんかできるんだろうか。
気がつけば、おはぎもいなくなって、雅之一人になっていた。
―――おはぎさん……。
何ひとつ、声をかけることなく退室したおはぎも、また、やりきれない怒りを感じているのだろう。
ぐっと、こみあげそうになる。
雅之は歯を食いしばって立ち上がった。
「申し訳ありませんでした!」
大声で、扉が閉まった向こうに言う。
「処遇がはっきりするまで、俺、稽古には出ますんで!」
返事は、誰も返してくれない。
雅之は、唇を引き結んで顔を上げた。
前もあったな、こんなことが。
あの時は、ストームのみんなが助けてくれた。
でも今は。
今は一人で、乗り越えていくしかないんだ――。
11
足音が、
後ろからずっとついてくる。
面倒だな。
うざいな、あいつ。
少しだけ足を速める、この先で曲がってやりすごそう。この道を俺はよく知ってるけど、あいつはあまり知らないから。
途切れる足音。
ざまーみろ。
ガキのくせに、妙なおせっかいやくからだ。せいぜい迷子にならない内に、とっととホテルに帰ってろ。
潮の匂いがする。
海が近い。
振り切った鎖。
別にあてがあって歩いているわけじゃないけど、もう戻ることもないような気がした。
生きてても意味がないなら、ここで、俺が消えたって、何の意味もないんだろう。
足音が、
また聞こえる。
将君、
―――将君。
ふと、まどろみから引き起こされた。
「ねぇ……あの人、似てない?」
「まさかー、もう日本にはいないって聞いたよ」
そんな囁きが、斜め前の席から聞こえる。将はシートに背をあずけ、かぶっていたキャップを目元まで引き下げた。
―――寝てたのか、俺……。
東海道新幹線、下り。
窓の外は暗夜だ。
いつのまに、転寝していたのだろう。
耳の中に、まだ夢で聞いた声が淀んでいる。
足を組みなおし、将は再び目を閉じた。
泥のような疲れと焦燥が、頭からつま先まで満たしている。
今夜は広島で一泊して、朝になってからりょうの住む町に行くつもりだった。
目を閉じた将の暗闇に、今日一日、色んなところで浴びせられた言葉が蘇る。
(無理だよ、悪いけど)
ずっとストームのバックバンドを勤めてくれたRUSHUのリーダー宮沢カズ。
(現実みなよ、将君、そんな話に乗ってくれる奴、どこ探してもいないって)
(君はもう少しクレバーだと思ってた、わかるだろ、まだ早いよ、叩かれるために復帰するようなもんじゃない、どこのどいつが、マスコミの餌食になると判って、君らに協力すると思ってるんだよ)
将より十も年上で、下積み時代も長い、芸能界の辛酸を嘗め尽くした男の言葉は厳しかった。
判っている、それが現実。
それでも将は、キッズ時代からずっと一緒で、そして何かれとなく損得抜きでつきあってくれた宮沢なら、それでも――と、どこかで期待を抱いていた。
それが、とんでもなく甘かったことを、今日思い知らされたことになる。
(もっとはっきり言えば、君らが十代で、俺ら大人や色んな企業や、製作現場の人と、ある意味タメでやっていけたのは、君らに、J&Mっていう巨大看板があったからだよ)
(看板なくした君らは、はっきり言えば、ただのガキだ。どこいったって、手のひら返したように冷たくされて、笑われて、それで終わりだよ)
辛らつな言葉の影に、宮沢なりの思いやりがあったのは理解しているつもりだった。
が、それでも判ったことがある。
その宮沢でさえ、J&Mの巨大看板を通してでしか、ストームを相手にする気がないということだ。
―――前原さんは、きつかったな。
将は目をすがめ、暗い夜の向こうを見つめる。
その後に寄った「REINBOW」で、将はさらに、厳しい現実を突きつけられた。
(3億)
しばらく腕組みして考えていた前原大成は、やがて顔をあげ、冷たい目で将を見下ろした。
(十月初旬に準備金としてそれだけ用意できるなら、受けてもいい)
3億。
途方もない数字に、将は言葉も出なかった。
(祝日の東京ドームを、仕込み、撤収含め二日間借りるとなると、八千万から一億はかかる。その他、機材のレンタル料、当日警備、スタッフの人件費、移送量、照明装置の組み立て、ゲネプロの借り上げ料、それでも全然足りないくらいだ)
一気に言うと、前原は、別人のような冷たい顔で立ち上がった。
(予算は、いくら見積もってるんだ)
将が、内心想定していた額を口にすると、前原はあきれたように嘆息した。
(ふざけるな!)
目の前に出されたコーヒーが震えた。
(年末のドームで、おそらく日本中の注目が集まる舞台で、どんなチンケなショーをやれっていうんだ、この俺に!)
(甘い、甘すぎるよ、リベンジだか意地だかしらないが、そんなもので、周りみんなを道連れに自爆でもするつもりなのか)
(若いからって自惚れるんじゃないよ、何もかも、ドラマみたいに上手くいくと思ったら大間違いだ、もう一回、冷静になって出直してこい!)
いつも優しかった前原の、全くの別の顔を初めて見た気分だった。
最後のストームのコンサートで、取り返しのつかない失敗をした前原率いる「REINBOW」は、失った信頼と業績赤字を取り戻すために、この数ヶ月、必死になって膨大な仕事をこなしていたという。
沢山の社員の人生を抱えている前原の怒りは、最もだろう。
―――甘い、か……。
そうなんだろう。実際。
その甘い考えに、俺は本当に……。
雅や、聡や、憂也や、それから。
りょうの人生まで巻き込んで、引っ張っていくだけの力があるんだろうか。
12
「失礼します」
雅之は、それだけ言って、呼びつけられた部屋から退室した。
東京、丸の内。
舞台のスポンサー「香王製薬」の社長室。
(君が本気なら、我が社は舞台からは手を引くよ、それまでのことだ)
(僕はねぇ、君の将来をかったんだよ、どんな悪ガキだって更正する、せっかくその可能性に賭けてやったのに)
(過去の失敗は失敗として、きちんと反省し、それなりの時期を経て出直せばいいものを……君の友人は、本当に横暴な男だねぇ)
(その友人に引きずられる君もまた、反省の色なし、と思われても仕方ないじゃないか、我が社のイメージに傷がつくような暴力タレントに、とてもじゃないが、支援なんかできないね)
「…………」
だめもとで行った直談判、玉砕どころか、敵前で打ち落とされたという感じだ。
暴力タレントか。
どこに行っても、誰もが、ひとくくりに将のことをそう言って切り捨てる。
金持ちで、わがままな道楽息子。
その息子に流された、ひたすら親馬鹿な元官僚。
本当の将の気持ちも、殴った理由も、あの夜の真実も、何も知らず、知ろうともせず、ただ一方的に流されるだけのマスコミ報道を聞いただけなのに――。
悔しい。
本当は今も、でっぷり超えた社長の襟首をひっつかみ、「もう一回言ってみろ、コラ」と、怒鳴りつけてやりたいほど悔しい。
が、それをやれば本当に最後で、将のために、何の救いにならないことは判っている。それどころか、反対を押し切ってインタビューを受けた時と同じで、むしろ、ますます将の立場を悪くするだけだということも。
でも、悔しい。
たかだか、この程度の小規模の舞台で……この程度の小さなスポンサーで。
Jにいた頃は、言っては悪いが、こんな小さな石鹸会社など歯牙にもかけなかった。が、現実に今の雅之には、この程度のことが、どうにもできない。
―――明日……聡君と一緒に、御影社長のとこに行くことになってるけど。
雅之は、気鬱なため息を吐く。
今後のことは、もう一度聡とよく話さないといけない。
御影社長に話すまでもない、この舞台の落とし前をつけないままで、移籍などできるはずもないからだ。
暗い気持ちでエレベーターを降り、ロビーの受付で、もらった立ち入り許可証を返そうとした時だった。
「成瀬君、久しぶりだな」
線の細い、硬質の声がした。
「……はい?」
振り返った雅之は、あっ、と声を出さずに叫んでその場に固まっていた。
数メートル向こう、エントランスの植栽の前に立っている長身痩躯のダークな男。
―――え、つか、つかなんでこの人が?
戸惑う雅之の前に、かつかつと靴音をたてて歩み寄ってくる、アルマーニのブラックスーツがさまになっている、額の広い白皙の肌。
水嶋大地。
元J&Mのマネージャーの一人で、今は、オフィス水嶋の代表取締役社長。
憂也の所属する事務所の社長である。
さ、三角関係の相手じゃん?
と、冗談みたいなことを考える暇もない。
水嶋大地。
仮面のような冷やかな目をした男は、薄い縁なし眼鏡を掛け、繊細そうな髪を背後になでつけていた。
色白で、目鼻立ちの造詣全て細かく、いかにも神経質そうな顔をしている。
美男子といえないこともないが、やややぶにらみ気味の目と、薄すぎる唇が、男の印象をむしろ酷薄に見せている。
水嶋さん、印象はインテリヤクザみてーだけど、話すと結構熱い人だから。憂也がそういっていたのを思い出す。
水嶋は、雅之の、ほとんど間近まで歩み寄ってきた。
身長は、雅之とほぼ同じ。
異様な雰囲気に、受付嬢二人も顔を見合わせている。
「………………」
一言も喋らないまま、針のような目で、じっと睨みつけられる。
こ、こわ……っ
さすがに沈黙に耐えかね、雅之が後退しかけた時だった。
いきなり、視界から、その恐ろしい顔が消えた。
黒い背中が丸まって、雅之の足元に固まっている。
「頼む!憂也を自由にしてやってくれ!」
土下座。
そしていきなりの、思いも寄らない言葉。
「じ……ゆう?」
雅之は、ただ面食らって、男の言葉を反芻した。
自由?
いや……、それって、俺があなたに言うべき言葉なんじゃ……。
「話は憂也から全部聞いた、それを承知で言っていることだと思ってくれ」
頭を床にすりつけたまま、水嶋は続ける。
受付嬢が固まっている、雅之はただ、唖然としていた。
元はマネージャー、が、京大出身の変り種、間違いなくJの幹部候補生の一人だったはずだ。
そして今は、世界をまたにかける芸能事務所の社長である。いつもびしっとした高級スーツに身を包み、ついたあだ名はアルマーニ水嶋。
間違っても、こんな場所で、なりふりかまわず土下座などするようなキャラではない。
「憂也を、ストームから外してくれ」
その水嶋が、振り絞るような声で、言った。
憂也を。
ストームから。
雅之は、何も言えず、ただ水嶋の頭を見る。
「君らが本当に憂也を大切に思っているなら、憂也をストームに戻すような真似だけはしないでくれ、頼む、それだけはよしてくれ」
哀願するような口調になる。
リノウムの床を掴まんばかりに押し付けられた、水嶋の長い指が震えている。
―――憂也……。
息苦しくなる。固まっていた雅之の喉が動いて、ようやく止まっていた呼吸ができた。
この人は、それを言うためにここにきたのだと、ようやく判った。
どこでスケジュールを掌握したのか、雅之に、それを伝えるためだけに。
「私がこれから君に言うことが、どれだけ残酷なことかというのは、よく判っているつもりだ」
額を床に押しあてたまま、水嶋は、本当に苦しげな口調で続ける。
「でもわかってほしい、憂也には、今が一番大切な時期なんだ」
「…………」
答えの代わりに唇を噛む。
判っている。
それは、苦しいほど判っている。
「今ストームに戻ることが、憂也の芸能人生にとって、どれだけ取り返しのつかないマイナスになるか、……考えてくれないか、頼むから、考えてみてくれないか」
「………………」
床の上で、水嶋の手が拳になって、震えている。
「あいつはああ見えて、馬鹿みたいにお人よしの人情家なんだ。あれだけ才能がある奴が、そのせいで、どれだけ沢山のチャンスを逃してきたか」
顔をあげる。その目は赤く充血し、白い肌は興奮のせいか青ざめてさえ見えた。
その真剣さに、雅之はただ打たれている。
拳で床を打って、水嶋は続けた。
「宮原アニメの時もそうだ、いや、ストームに居続けたこと自体がそうだ、ストームという鎖さえなければ、あいつがどれだけ自由に飛んでいけたか、そこにどれだけ無限の可能性が広がっていたか」
普段無口でクールな男が、ここまで喋るとは思わなかった。
ここまで……憂也に入れ込んでいるとは思わなかった。
「いってみれば、ストームは、憂也の犠牲であそこまで大きくなれたんだ、言い方はおこがましいが、そうは思ってやれないだろうか」
黒い高級そうなスーツが、埃で白くなっている。
水嶋は、さらに深く頭を下げた。
「だから頼む、今度は君たちが、憂也を大きくしてやってくれないか」
「……………」
今度は、俺たちが。
「頼む!!憂也を自由にしてやってくれ!憂也を、大きくしてやってくれ!!」
俺たちが、憂也を。
雅之は、思考がまとまらないまま、後退する。
どう反論すべきか、いや、反論していいかさえ判らなかった。
正直言えば、水嶋の、言うとおりだと思ったから。
「今回の映画は、憂也にとって、大げさでなく人生を賭けたチャンスなんだ」
震える声。
「言葉さえ通じない、東洋人への偏見だらけのハリウッドだ。憂也がそこで、どれだけ努力したか、どれだけ苦労したか、歯を食いしばって、たった一人で戦って……」
水嶋が言葉を詰まらせる。
「わかってくれ、そうやって掴んだチャンスなんだよ、これは!」
再び顔をあげた水嶋の目は、涙で薄く潤んでいた。
「片野坂から電話があった時、憂也はひどく悩んでいたよ。アメリカというのは、日本以上に暴力に敏感でシビアな国だ。一度は逮捕までされた仲間と再度組むとなると、スポンサーはおろか監督だって難色を示す。代役なんていくらでもいるんだ、憂也はたまたま、その中でラッキーなくじを引いたにすぎない」
「………………」
雅之は何もいえない、ただ、胸だけがひどく痛む。苦しいほど痛む。
水嶋の言うとおりだと思ったし、それは、心のどこかで、ずっと危惧していたことでもあった。
ストーム再結成で、憂也のハリウッドデビューが、もし、流れてしまったら。
「憂也は迷ってた、だから俺は憂也に言った、ほうっておけばいいと、だってそうだろう?憂也は残したかった、けれど君たちが終わらせたんだ、そうじゃないのか、成瀬君」
たたみかけるような声だった。
雅之は、ゆらりと、ゆれるように後退した。
俺たちが終わらせた。
俺たちが壊したストーム。
「……優しいんだ、憂也は」
アルマーニが、膝の上で拳を強く握り締める。
「自分は裏切られても、自分が裏切ることなんて絶対にできない。結局、昔の友情に引きずられようとしている。憂也はまた、自分を犠牲にしようとしている」
がばっと、そのまま顔をあげる。
真剣な、切り込むような眼差しだった。
「君らが切った憂也じゃないか!どうして今さら呼び戻すんだ、今さら求めるなら、どうしてあの時、憂也を切り捨てたりした!」
切り捨てた。
そんな、そんなつもりはなかった。でも。
会見の時、目に怒りをたたえて泣いていた憂也。
エレベーターに向かいながら、一度も振り返らなかった憂也。
「……勝手すぎる……」
うめくように言い、水嶋はうなだれる。
雅之は立ち尽くしたまま、何も、何も言うことができなかった。
13
「……そっか」
話を聞き終えた聡は、低く呟いて、天井を見上げた。
「なかなか、上手くはいかないもんだね」
そう言うと、電話の向こうで聞こえる雅之の声が、から元気そのものの返事をしてくる。
聡は苦笑して、その饒舌を遮った。
「いくわけないよ、みんな人間なんだ、心があるからね」
だから、逆に、どうにもならないことなんて、ないんじゃないかとも思うんだけど。
「聡君、事務所……いつ、行く?」
力が抜けたのか、電話の向こう、雅之の声が頼りなくなった。
「正直、俺、こんな状況でどうしていいか……いや、すべきことは判ってんだけど、どう……立ち回っていいのか」
「…………」
「俺……馬鹿だから」
「…………」
「憂也のことも、正直、滅茶苦茶迷ってんのかも……しんねー」
「…………」
憂也のマネージャーが、雅之に会いにいった。
明らかに、雅之が一人になる機会を狙って。
聡は、雅之の声を聞きながら、その意味を考える。
「憂也には、携帯通じた?」
「いや、電源はいってねーの。何回かかけてみたんだけど」
「そっか……」
憂也が、ある意味、一番難しい立場だということは、聡にしても判っていたつもりだった。
失うものが大きすぎる。憂也一人はそれでよしとしても、もう、その憂也の背中には、沢山のスタッフが運命共同体としてついている。憂也一人の才能を糧にして。
多分……聡が憂也だったら、その苦しさと重圧に悲鳴を上げていただろう。
「……水嶋さん、意外に憂也のこと……わかってんだなって」
雅之の声が、ふいに寂しげになった。
「憂也が優しいのも、人に裏切られても裏切れないのも、水嶋さん、みんなわかってんだ、俺……ちょっと嬉かったし、……負けたかなって思ったよ、あの時は」
「……………」
そこで負けてどうすんだよ。
聡は、嘆息し、暗く翳る天井を見上げた。
将とも、まだ連絡が取れない。今頃島根で、りょうと話し合いでもしているのだろうか。
別れた時の、妙に暗い将の横顔が、心に残る。
将君は――多分。
「憂也、いつ戻ってくるの?」
「……明後日だとか、憂也は気楽なこと言ってたけど」
雅之の声が、歯切れ悪く途切れる。
「水嶋さんが言うには、憂也、向こうのプロモが押してて、当分は日本に戻れないらしい」
「……そっか」
将君も雅も、すごい岐路に立たされてんだな、よく考えたら。
そう思いながら、聡は静かに携帯を置いた。
昔もあった、そういえば。
友達の人生と、自分の人生をはかりにかけるとして。
自分を犠牲にするか、友達を犠牲にするか、今がその正念場なのだとしたら。
どっちを――選ぶべきなんだろう。
※この物語は全てフィクションです。
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