3
 


「………………」
 澤井晃一は、思わず足を止めていた。
 エフテレビ。
 扉が開いたままの控え室、扉には「緋川拓海様」と張り紙が張ってある。
 本番前、集中している時の、いつものあの人の癖。マネージャーが「無用心で困る」とぼやいていたのが思い出される。
 のぞいたり、するもんか。
 あの人は裏切りもんや。
 晃一は眉をひそめ、そして自分に言い聞かせた。
 緋川拓海の移籍がきっかけになって、J&Mは完全に分裂した。そして崩壊。会社の権利はゲーム会社に委譲され、「スニーカーズ」もその会社と再契約することにした。
 「マリア」は残ったが、「サムライ6」は抜けた。そして、デビューが決まったばかりの「なにわJam」も抜けた。
 緋川の後を追うように、「ネオ・プロジェクト」という会社に移籍を決めた。
 代表取締役は、元J&Mの藤堂戒。そして美波涼二が、設立に加わっているというのが、裏の情報だ。だから「なにわ」を初めとする人気キッズが大量に移籍を決めたのだとも言われている。
 東邦EMGがバックについているという噂もあったが、表向き、東邦関係者が設立に携わった形跡はないようだった。
 その東邦は、今はトップタレントとして貴沢秀俊を擁している。
「ニンセンドープロダクション」の看板は、「スニーカーズ」
 そして「ネオ・プロジェクト」の看板が、緋川拓海。
 J&Mを支えていたトップスターは、こうやって三つに分断されたことになる。
 今でも、晃一には、緋川拓海の決断が理解できない。
 それぞれ独立し、移籍を決めたギャラクシーの意図が、理解できない。
 ストームを助けよう、差さえあって事務所を盛り立てよう。
 そんなことを話したのは、つい先日のことなのに。
 緋川さんは、いつだってみんなの中心で、盛り上げ役だったのに。
 が、真っ先に怒ると思っていたマリアの増嶋流が冷静だったので、晃一も黙らざるを得なかった。
「じゃあ、緋川さんの人生、お前が責任とれるんか」
 そう言われ、ぐうの音もでなかった。
 しかし、頭では理解できても、会ってしまえば、冷静に話ができるとは思えない。
「…………………」
 見たりせぇへんし。
 無視やし、無視。
 しかし、晃一は、通り過ぎ様、控え室の中に視線を馳せていた。
 憎もうとしても、憎みきれない、どうしようもない懐かしさ。
 入った時からずっと、目標だったし、憧れだった。
 いつもどこかで、精神的な支えだった人。
「おう、晃一」
 と、いつものように、気さくに手をあげてくれそうな気がする。
「………………」
 控え室。
 その人は座っていた。
 パイプ椅子で、足を組み、煙草を唇にくわえている。
 まるで怒ってでもいるかのような真剣な横顔が、じっと膝に置かれた台本を凝視している。
 言葉を失い、晃一はそのまま歩き出した。
 おそらく声をかけても、振り返りもしなかったろう。
 もう、あの人の気持ちには――。
 胸に押し寄せる寂寞を噛み締めながら、晃一は歩き続けた。
 もう、緋川の中には、J&Mも昔の仲間も、ギャラクシーのこともない。
 ただ、一人、この世界で生きていくしかない男の孤高が、その横顔からは漂っていた。



                  4


「なんだか楽しそうですね」
 読みかけの本から顔をあげた真白は、眼前の人を見て思わずそう言っていた。
「わかる?」
 うふふっと、見方によっては醜悪な顔を皺くちゃにして笑ったのは、前田のおばあちゃん、こと前田瑠璃子。
 神経痛持ちで、軽度の認知症。
 癇癪が激しく、看護士さえ嫌うこの老婦人の担当が、よりにもよって真白だった。
 真白も、何度も泣かされた。
 足が痛いと言っては、わめき散らす。マッサージをしてやれば、やり方が悪いとさらにヒステリーを起こす。なだめるのも一苦労で、何を言っても揚げ足を取られるから、こっちがノイローゼになりそうになる。
「今日は何の日か、言って御覧なさいよ」
 逆に問われ、ドキッとしたものの、「お孫さんが来られる日ですね」と、咄嗟に上手く言えていた。
 セーフ。
 前田瑠璃子の顔が、目に見えて柔和になる。
「うふふっ、わかっちゃった?」
 不思議だな、と真白は思う。
 怒っている時のこの人は、時に悪魔より醜悪に見えるのに、今の、まるで仏のような笑い方はなんだろう。
 一人の人なのに、同じ人なのに、それは認知症という病気のせいかもしれないけど、どうしてこんな表情が違うのだろう。
「あ、真白ちゃん、そこの引き出しから、カメラ、カメラ出してくれる」
「あ、はい」
「写真を撮らなきゃねぇ、来年は小学校だもの、可愛いさかりは今だけだものねぇ」
 うきうきと弾んだ声。
 真白も自然に嬉しくなって、言われたとおり、引き出しから、少し古びたカメラを取り出した。
「フィルム、入ってるかどうか確認しましょうか」
 そう言いながら、ふと真白は、以前、ミカリが言っていたことを思い出していた。
 写真っていうのはね。
 過ぎていく時間の、幸せな瞬間だけを切り取ったものなのよ。
 不思議ね。
 この時の片瀬君は、もうどこにもいないのに。
「…………………」
 この写真の中の、片瀬君は永遠なの。
 あの時は、ミカリの感傷の意味が判らなかった。
 澪と2人で撮った写真、今なら判る。もうあの日の2人はどこにもいない。でも――写真の中では、きっと今でも2人は笑っている。
 時をとめる術のない私たちが、唯一できる、名残のような未練のような、そっと切り取った時の優しさ。
 それは、本当に、ささやかなあがきかもしれないけど。
「前田さん」
「ん?」
 と、鼻歌を歌っていた前田瑠璃子が顔をあげる。
「今、一枚、撮らしてもらってもいいですか」
「まぁ、おほほ、私みたいな梅干ばばぁを撮って、どうするの」
 と、それでも、まんざらでもない顔で、老婦人はこちらに向き直る。
「今、前田さん、すごくいい顔してるから」
 まるで、仏様みたいな、とは、縁起が悪すぎて言えないけれど。
 フレームに切り取られた幸せの欠片。
 真白は、不思議な気持ちのまま、カメラを下げる。
「真白ちゃん、今度は私が撮ってあげる」
「え、いいですよ」
 それは、さすがに慌てて固辞した。
「だって今の真白ちゃん、すごくいい笑顔してるから」
 笑顔。
 真白は、少し驚いて瞬きをする。
 笑ってたんだ、私。
「本当よぉ、まるで仏様みたい」
「………………」
 仏様みたい。



                5



「手紙?」
 背後から声。ぎょっとした真白は、慌てて両手で便箋を隠した。
「あ、は、はい、家族に」
「何?別に見やしないわよ」
 仏頂面で歩み寄ってきたのは、サクラコさんこと「花園桜子」。今夜の夜勤はこの人だった。真白はいつまでも食堂に残っていたことを後悔する。
 ちょっと暗いけど、手紙なんて自分の部屋でも書けるのに。
「お風呂、入ってきていいわよ」
「あ、はい、じゃあ」
 わたわたと筆記用具を片付ける。よりにもよって、一番苦手な人に見られてしまった。施設内の規則にいちいち口やかましい桜子、下手をすれば、就寝時間無視のお説教がはじまりかねない。
 立ったまま、そんな真白をじっと見ていた桜子は、
「そろそろ、帰ってもいい頃じゃない」
 ぼそっと、呟くようにそう言った。
「す、すいません、すぐ部屋に戻ります」
「……じゃなくて、島根、あなたの実家」
「…………」
 え?
 利用時間をオーバーしてここにいることを注意されるとばかり思っていた真白は、少し驚いて顔をあげた。
「やっと、人間らしい顔になってきたから。ここに来た時は、不幸なのは自分一人みたいな顔してたけど」
「………………」
 人間らしい、顔。
「悲劇なんて噛み締めるヒマもなかったでしょ。ここじゃ誰もあなたを慰めない、気も使わない、あなたは慰められる立場じゃなくて、慰めて、気をつかいまくらなきゃいけない立場なんだから」
 真白は黙ったまま、よいしょっと、椅子に腰掛ける女を見上げる。
 確かにそうだった。
 初日から寝る間もないほどの仕事が与えられ、あまりにも忙しすぎて、ぼんやりと物思いにふける暇さえ許されなかった。
 どうして私がこんなことを、と思ったが、自己憐憫にひたる間もなく、追い立てられるように他人の世話に追われていたような気がする。
「辛い時はね、自分より辛い人間を助けてあげることよ」
「……………」
「何もする気にならない時はね、同じようにぼんやりしてる人に、何かをしてあげればいいのよ」
「……………」
「それが、結局は、自分を助けることになるんだから」
「……………」
 真白は初めて、この場所に自分を連れてきてくれた人の意図が、わかったような気がしていた。
 両親もそうだったが、誰より自分が驚いた。
 J&M顧問弁護士と名乗る見知らぬ男が、いきなりフェラーリで末永食堂に乗りつけてきた時は。
(依頼人のことは、申し訳ありませんが、誰にも言わないでおいてもらえますか)
「あなたをうちに紹介してくれた人もね、もう……十年以上前になるかしらねぇ、死んだ方がマシみたいな顔で、連れてこられたのよ、引きずられるようにしてね」
 それは、真白も思わず顔をあげていた。
 とつとつと語る桜子の横顔が、当時を思い出したのか、少しだけ優しくなっているような気がした。
「彼女はあなたよりひどくてねぇ、毎晩毎晩、泣いてたわよ。まだ二十歳をすぎたばかりで余命を宣告されたんだから、そりゃあ、ショックだったんでしょうね」
 余命。
 息をつめた真白は、ここまで、車で同伴してくれた人の言葉を思い出していた。
(男はほっとく性質だけど、女はどうにもほっとけないからと。変わった人でね、所詮その程度の動機ですからお気になさらずに)
 そんなの、でも。
「でも、……その人は、」
 その人が彼女なら。
「知ってのとおりピンピンしてる、あんなに綺麗に輝いて」
「………………」
「命ってのは、不思議でしょう」
「………………」
 黙った真白は、澪と別れてからの自分が、何も見えていなかったことに、見ようとさえしていなかったことに、ようやく目から、何かが落ちるような思いで気がついていた。
 馬鹿みたいだ、私。
 私――自分の幸せに、今まで全然気がついていなかった。
 私も、……多分、澪も。
 閉じ込めてしまった殻の中、取り返しのつかない過去ばかり悔いて、そして自分を責め続けていた。
「手紙をお書きよ」
 桜子の声は優しかった。
「何があったか知らないけど、傷つけるのも人なら、それを助けるのも人なんだから」
「………………」
「あなたの帰りを、待ってる人たちがいるんでしょ」
「…………………」
 私を――。
 待っている、人がいる。



              6



「すいませんが、写真は勘弁してやってくれませんか」
 無愛想な板前の声に、女子高生の2人連れが、むっとして黙り込む。
 澪は一礼し、彼女たちの前に注文の品を置いて、板場に戻った。
「娘と問題起こしたアイドルを引き込んで、客寄せか」
「まっとうな親父のすることじゃねぇな」
「片瀬の家も何考えてんだ」
 ここに来た当初は、近所から、そんな揶揄の声も聞こえていた。
 しかし、そういった野次に、男も男の妻も、なれているのか腹を括っているのか、まるで無関心のようだった。
 不思議なのは、むしろ澪の父親の態度だ。
 何より世間体を気にする男が、どうして醜聞に沈黙しているのか――もう何日も顔をみていない父親のことが、澪にはますます判らなくなる。
 無論、判りたいとも思わないが。
「いらっしゃいませー」
 明るい女主人の声がした。澪は我に返る。
 真白の母親、顔立ちは娘によく似ているが、どこか寂しげな真白の容貌とは違い、天性の花のような明るさがある。
「お、今夜は繁盛してるね」
「おかげさまで」
 新しい客が来る。
 澪には初めて見る会社員風の男。年は板場に立つ男と変わらないように見えるが、人の上に立つことに慣れているのか鷹揚な雰囲気を漂わせている。
 案内された席に向かいながら、男は板場に声をかけた。
「新人かい?」
「へい、まだまだ使えない奴ですが」
 魚をさばきながら、真白の父。
「辞められたって聞いたけど、新しいのが入ってよかったじゃないか」
 店内は半分が埋まっている。客は殆んどが、近所に住む常連で、東京から戻ってきた元アイドルが、ここにいる事情を知っている。
 一時、店から遠ざかっていた客たちが、澪にどんな感情を抱いているか知る由もないが、彼らはいつも遠巻きに、何か珍しい、けれど危険な動物でも見るように、澪を横眼で見てはそっと視線を逸らすだけだった。
「あれ、この子……どっかで」
 今入ってきたばかりの客も、元々は常連だったのだろう。その目がようやく澪に注がれ、いぶかしげに止まる。
 もの言いたげな目が板場にたつ主人に向けられたが、男は、
「片瀬、突き出しの仕込みをやっといてくれ」
 素っ気無くそう言うだけだった。
 澪は、頷いて板場に戻った。男一人がやっているそこは、繁盛時の今、あたかも戦場のような凄まじさだ。澪にしても、全てがにわか仕込みで見よう見まねなだけに、息着く間もない。
 正直言えば、はじめて客の前に立たされた時、澪は恐怖で足がすくみそうになっていた。しかし、どうしてそんな我侭が言えるだろう。例え歯を食いしばってでも、この人たちの要求には応えなければならないのだから。
「お、ここだここだ」
「本当に、片瀬りょうがいるんだって?」
 そんな声と共に、がらっと扉が開いた。
 用意した突き出しをカウンターに並べていた澪は、凍りついたまま足を止める。
 声の感じだけで、判る。メディア関係の人に違いない。
「いらっしゃいませ」
 女主人が、少し慌てた態で、二人連れの男の前に歩み寄る。
 すでにカメラを手にした男2人は、最初から澪だけが目的のようだった。
「ここって、あれですか、あの末永さんの実家なわけですよね」
 ずけずけとした大声。都会の訛りが、むしろ強調されている。
「うわー、すごいな、じゃあ、まだおつきあいしてるわけですか」
 場違いな声に、にぎやいでいた店内が静まり返る。
 澪はただ、立っていた。
 いつか、こんなこともあるとは覚悟していた。
 それを、この家の人たちはどう思っているのだろうとも思っていた。その危惧を自分からは言い出せないまま、流されるように今日まできた。
 どうすればいいんだろう。
 また迷惑をかける、また俺のせいで、みんなが――
 フラッシュバックのような怒声。
 悪夢のような最後のコンサートの記憶。 
 何もかもお前のせいじゃないか。
 謝るなら片瀬に謝らせろ!
「いいですかね、写真、それからちょっと話聞かせてもらっても」
 記者の声が、澪を現実の悪夢に引き戻す。
 店内は静まり返っていた。
 片隅に置かれたテレビだけが、にぎやかに野球中継を流している。
 手も、足も動かない。
 どうすればいいんだろう。
 どう対応すれば、ここの人たちに迷惑をかけずにすむんだろう。
「すいません、それはちょっと……」
 真白の母の、困惑した声がした。固まっていた澪は、ようやく強張った視線をその方に向ける。
 ジャンパーを着た中年男の二人連れ。首にはカメラをぶらさげている。男二人は華奢な女主人を囲んだまま、露骨に店内の雰囲気を馬鹿にするような眼をしていた。
「なんでよ、だっていいじゃない、彼、芸能人でしょ」
「あれだけ世間を騒がせたんだよ」
「僕ら、ここまでわざわざ来たんだからさ」
 声には、東京の訛りだけでなく、マスコミを背景に持つ者の驕りがでている。
 止める間もなく、シャッターが切られる。
 澪は顔を逸らしていた。
 心臓だけが、冷たい音を立てている。
「すいません、この子、今はただの見習いなんで」
 板場から、主人が出てきた。
 頭を覆う布巾を取りながら、頭を下げている。
 澪でも最初引いたくらい、迫力のある体格。さほど背丈があるわけでもなく、横幅があるわけでもないのに、地に足をつけて生きてきた人間の凄味のようなものが、全身に滲んでいる。
 一瞬、ひるんだ風だったものの、しかし東京から来た記者たちは、一瞥しただけでそれを無視した。
 シャッターの音に、声が被さる。
「写真は勘弁してやってくれませんか」
「なんでよ、あんたにそんなこと言われる筋合いないよ」
 また、シャッター。
「仕事の邪魔しないでよ、悪いけど」
 再び、シャッター。
 その前に、大きな体が立ちふさがる。
「すいません、それは悪いんですが」
 真白の父親。澪を守るように立ち、そこで頭を下げている。
「どけよ、親父」
「邪魔なんだって」
 真白の父が、手で押しのけられている。無抵抗によろめいたその姿を見ながら、澪は初めて強い怒りを感じていた。
 一体、どこの雑誌社だろう。今までも、無礼な取材を受けたことは何度もあった。それでも、反撃すればばそこで終り、そう思って我慢するしかなかった。
 それが、イメージと人気が命の芸能人の宿命だ。
 今、澪は芸能人ではない。反撃もできる、言い返すこともできる。
 それは、「すいません、帰ってもらえますか」と、平身低頭で頼んでいる男も同じことだ。
 が、
「フィルムは、悪いんですけど、こっちで買い取らせてもらえますか」
「何言ってんだよ、親父」
「こっちは客で来てんだよ、フィルム渡せなんて、どういう権利で言ってんの、馬鹿じゃねぇの」 
「申し訳ないんですが」
「クソ田舎の、食堂風情が」
 どれだけ暴言を吐かれても、表情を変えずに頭を下げている。
 それは今まで、酔客にどんな難癖を言われても、黙って聞いてやっている普段の横顔と同じだった。
 立ちふさがったまま動かない主人に辟易したのか、記者二人は目を見合わせて、傍らの席に腰を下ろした。
「おい、ビールくれよ」
「いいだろ、こっちは客なんだ、そこの見習いに持ってこさせろよ」
 大声でまくしたてた男たちが、面白そうな目で澪を見上げる。
 が、真白の父親は、またしてもその間に大きな体を割り込ませた。
「すいません、お客さんで来てるんなら、フィルムは出してもらえますか」
 もういいですから。
 澪は思わず、そう言ってしまう所だった。
 もう、俺のためなんかに、頭なんか下げなくていい。
 たかだか写真をとられて、話を聞かれるくらいなら、それで、この場が済むのなら。
「すいませんが」
「しつこいんだよ、親父!」
 ばしゃっと、水がはじける音がした。
 澪は息を呑んでいた。
 頭を下げる真白の父親の額から、水滴が滴っている。
 我慢が臨界点を振りきって超える。
 澪は拳を握り締め、その手で布巾を脱ぎ捨てていた。
「おい、いいかげんにしろよ、あんたら!」
 しかし、それを言ったのは澪ではなかった。
「黙って聞いてりゃ、ふざけんじゃねぇよ、俺らをなめてんのか、東京もんは」
「この子はな、ずっと病気で家に引きこもっててな、今、一生懸命社会復帰しようとしてんじゃねぇか、末永のおとっつぁんは、責任感じてそれを手伝おうとしてんじゃねぇか!」
「それがあんたらには判んねぇのかよ!」
 それまで、どこか好奇の目で、遠巻きに澪を見ていた常連客たち。
 むしろ、澪は、一時この店から遠ざかっていたというこの客たちを、勝手な人たちだと、冷めた気持ちで見ていた。
「お、おい、なんだよ、客に暴力振るうのかよ、この店は」
 殺気だった周囲の客に取り囲まれ、記者2人が、さすかに顔色を変えて立ち上がる。
「悪いが俺たちは、店のもんじゃねぇよ、おい、誰か警察呼べ」
「いや、それより、弁護士のタツさん呼んだらどうだ、こんなことが許されるわけないだろう」
「あんたら、名刺だせよ、名刺」
 バシャッと、携帯のシャッターが切られる音がした。
 慌てた顔の記者2人を撮ったのは、先ほど、同じ携帯で澪を撮ろうとした女子高生の二人連れだった。
「あ、ちょっ、ちょっと、なんで俺らの写真なんか、撮るの」
 完全に慌てている2人。
「そのフィルム出したら、この写真も消してあげるよ、オヤジ」
「あたしらも東京から来たけど、あんたらみたいなのと一緒にされると、マジむかつくんだよね」
 澪は、夢でも見ているような気持ちで、渋々フィルムを出す男2人を見つめていた。
「すいません、これで」
 と、それでも低姿勢で、真白の父親が、千円札を数枚、男たちの前に並べている。
「この子は、これからが大切なんで」
「もういいよ、親父」
 うるさげに男2人が立ち上がる。
「そちらさんの都合も色々あると思いますけど、どうぞ、大人として見守ってやってください、今夜は失礼いたしました」

 

               7



「写真なんか撮ろうとして、すいませんでした」
「……私たち、ずっとファンだったから……応援してます、今でも」
 レジで精算を済ませた女子高生が、澪にそう言って頭を下げた。
「彼女、どうしてるんですか」
 それには答えられなかった。
 もう別れた。なのに今、何故かその父親の元で働いている。
「色々誤解してたけど、彼女さんにも幸せになってほしいです、ファンなら、みんなそう思ってると思います」
「ファンがみんな、怒ってるとか騒いでるとか、そんな風には思わないで欲しい」
 最後は訴えるようにそう言われ、まだ幼げな女の子2人は、夜の田舎街に出て行った。
「おい、泊まるところがあるかどうか、聞いて来い」
「はい」
 と、慌てて母親が後を追っている。
 なければどうするというんだろう。東京では、まず考えられない対応。  それがここの人たちの性質なのか、男の気質なのか、澪にはよく判らない。
「……すいませんでした」
 のれんを収めた後、澪は隣立つ男にそう言った。
「別に、謝ることじゃない」
 いつものことだが、素っ気無く、簡潔な言葉しか返ってこない。
 後片付けを手伝いながら、澪は、この人の本意はどこにあるのだろう、と思っていた。
 どうして、叱らないのだろう。どうして、もっと怒りをぶつけてくれないのだろう。どんな罰でも受ける覚悟でここに来た、なのに、未だ、真白のことで、この夫婦は何ひとつ澪を責めない。
―――なぜだろう。
 この人たちが大切にしていた娘は、……俺のせいで。
「一度……忠告されました、あなたに」
 この沈黙を破ることが、澪は今日までできなかった。
 傷つけた恋人の父親と向き合って、正面きって謝罪する勇気が、どうしても持てなかった。
「なのに、隠れて、真白……さんと、会ってました、だからあんなことになりました」
 こみあげた感情と後悔が、声を震わせる。
「本当に……すいません、でした」
 一度階段を降りてきた真白の母親が、2人の沈黙に気を使うように、そのまま階段を上がっていく。
「本当に、悪いと思っているか」
 永遠のような、沈黙の後、ようやく男が声を発する。
 澪は俯いたまま首だけを動かした。
「はい」
「本当だな」
「はい」
「じゃあ、なんでもできるか、今から俺が言うことを」
「…………」
 少しためらってから、澪は強く頷いた。
 なんでもする。
 それが、二度と表舞台に立つなという要求でも、この町を出ろという要求でも、真白に会うな、という要求でも。
「俺がお前に望むことはひとつだ」
 皿の残飯を流しながら、男の横顔がぼそぼそと呟いた。
 澪は、半分凍りついたまま、その言葉の意味を考える。いつまでも考える。
「それは、」
 さすがに、声を詰まらせていた。
 できない、というより。
 この人にも、この人の娘にも、何ひとつ関係ない話だ。
「できないなら、二度とここへは来なくていい」
「………………」
「真白から手紙が来てるそうだ」
 流しから皿を取り上げようとしていた澪は、その手を思わず止めていた。
「今日、お前の親父が持ってきてくれた、帰る前に家内から受け取ってくれ」


















 ※この物語は全てフィクションです。



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