22


「……意味、わかんないんすけど」
 緋川拓海は、しばらく考えた後、それだけを呟いた。
 綺麗に片づけられたマンションの室内からは、生活の匂いが殆どしない。
 初めて足を踏み入れた、私生活をまったく見せなかった元先輩の一人住まい。モノトーンで統一された家具は、全てイタリアからの輸入品だろう。センスのいい美波らしい部屋だったが、それは、不思議なほど侘しくみえた。
 てっきり一人だろうと思っていた拓海は、玄関に女性が出てきたのに、まず驚いた。
「あ、いけない、コーヒー切らしてるんです、買ってきますね」
 と、すぐにわざとらしい言い訳をして部屋を出ていった女は、声にも仕草にも、まだ十代のようなあどけなさがある。
 美波さんの恋人だろうか、それにしては若すぎるような気もする。
 当の美波からは、その女性についての説明は一言もない。
「移籍しろ、と言っているんだ」
 対面のソファに座る、美波涼二の声には、抑揚がなかった。
 ディオールの白シャツに黒い皮のパンツ。
 髪が、J&Mにいた頃より、随分長く伸びている。それが、もともと暗い美波の顔を、ますます陰鬱に見せている。
 眼差しは暗く、拓海を見ているようで、最初から何も見ていないようでもあった。
「つか、俺が今日来た理由、わかってます?」
 さすがに、拓海は、口調を荒げていた。
「あんたがしてきた電話の意味、確かめに来たんじゃないですか」
 柏葉将が逮捕された夜。
 タクシーの中にいた拓海に、唐突にかかってきた電話。
(―――お前には、柏葉を助ける義務がある)
(―――それはお前にしかできない。どうにもならないと判ったら、俺のところに来い、その方法を教えてやる)
 よほど無視してやろうかと思ったし、実際、ずっと黙殺し続けていた。
 勝手に事務所をやめて、そのまま、ずっと行方をくらませていて。
 なんだってあのタイミングで、嫌がらせのような電話をわざわざかけてきたのだろう。
 勘ぐってしまえば、まるで柏葉の逮捕を待ち構えたようなタイミングで。
 柏葉の解雇、そして再勾留の決定が、拓海の我慢の限界だった。
「取締役を辞めたあんたが、新会社を作ろうと移籍しようと、それは好きにすりゃいいですよ、俺には、興味も関心もないですから」
 拓海は強い口調で言い、能面のように黙っている美波をにらみつけた。
 どこかで信じていた。
 まだ、信じている。
 この人は、J&Mを愛していて、本当の意味で、裏切ることなどないのだと。
「俺があんたの作る会社に移籍したらあれですか、柏葉が出てこられるとでもいうんですか」
「………………」
「あんた、自分で言ってる意味わかってんすか、それ、あんたが柏葉はめたって、そう言ってるようなもんじゃないですか!」
「………………」
 一体、どうしたんだ、美波さん。
 もともと、怖いくらい年齢不詳な人だったが、今は、年齢だけでなく、何もかも判らない。
 拓海が黙っていると、美波は無言で立ち上がった。
「別に俺が、柏葉をはめたわけじゃない」
「………………」
「俺はただ、柏葉が起訴を免れる手段を、知っているというだけだ」
「それが俺の移籍と、どう関係してるんですか」
「お前がJ&Mを離脱すればギャラクシーは解散だ、となれば間違いなく、事務所は経営が成り立たなくなる」
「…………………」
 自身を、そこまで過大評価する気はない。
 が、拓海も、美波の推測を否定する気にはなれなかった。
 市場は、看板タレントの移籍に敏感に反応するだろう。株は暴落し、経営はますます弱体化するに違いない。
「J&Mを、この世界から完全に消してしまいたい連中がいる」
「……………」
「一連のストームバッシングが、その連中の仕組んだことなら、Jが潰れることで、彼らの目的は終結する、むしろ彼らは、急いで柏葉を救出しようとするだろう」
 拓海は無言で眉をしかめる。
「意味……わかんねぇっすけど」
 何かを言いかけた美波は、しかし、初めて苦笑して肩をすくめた。
「では、要点だけを簡潔に言おう」
「……………」
「お前が契約書にサインした段階で、事件の被害者が、警察に出頭する筋書きができている。騒ぎが大きくなって言い出せなかったが、フィルムのことは、自分の勘違いだったのかもしれない、怒らせようと柏葉をあえて挑発したのは自分で、多少、自分も手を出したかもしれず、その点では申し訳なく思っている」
「…………」
「むしろ報道被害者である柏葉の訴追を望まず、民事でも訴えるつもりはない……ここまで言えば、警察も、公判維持が危うくなると判断せざるを得ないだろう」
 さすがに拓海は立ち上がっていた。
 信じたくなかった。聞きたくなかった、でも。
「卑怯だ、じゃあ、あの事件は最初から全部仕組まれてたってことじゃねぇか!」
 そして、美波涼二は「仕組んだ者」の中にいたことになる。
「そこまでは俺は知らない」
 美波の怜悧な目は、微動だにしていなかった。
「……………」
「俺が得た情報だ、嘘かもしれない、本当かもしれない。それを信じるも信じないも、お前次第だ」
「警察に、今の話を全部しますよ、俺」
「好きにしろ」
「…………………」
 握り締めた拳が震えている。
 どうしたんだ。
 一体どうしたんだ、美波さん。
 あんた、こんな人じゃなかったはずだ。
 柏葉も、ストームも、あんたが育てて、可愛がってきた後輩じゃねぇか。
「柏葉が助かっても、それじゃ事務所はどうなるんですか」
 自分の声が震えている。
「柏葉一人のために、事務所の連中見捨てろっていうなら、そんなこと絶対にできませんよ、俺!」
「お前が残ろうと、残るまいと、J&Mはいずれ、唐沢の手を離れる」
 美波の声は静かだった。
「スポンサーは手を引き、テレビもJ離れが進んでいる。投資家は株を手放し、株式は売手市場、その株をひそかに買い集めている企業がある」
「………東邦、ですか」
 棚から、アルコールの壜を取り出して、美波が再び席につく。
 美波の口からその名前は出てこないが、ストームバッシングを仕組んだ連中とは、おそらく東邦を差すのだろう。
「城之内会長と真咲真治が作ったJ&Mは終わる、その流れは、もう誰にも止められない」
「……………」
「膨れ上がった事業、それに反して縮小していく人気、東邦との過去の密約を清算するため、唐沢さんは今年、無理をしすぎた。お前のハリウッドデビューもそうだ、事務所の建替えもそうだ、もっとあの人は、慎重に自身の足元を見るべきだった」
 とつとつと呟くその口調が、どこか口惜しげだったので、拓海はますます、目の前に座る人の真意が判らなくなる。
「お前の移籍は、それを少しばかり早めるだけだ。別に、お前が責任を感じることでもなんでもない」
「失礼します」
「それで柏葉は助かるんだ、安い代償だと思わないか」
「……………」
「このまま柏葉が否認を貫いて、最悪起訴となれば、裁判に出頭することになる。裁判が結審するまで、半年か、一年か、柏葉が罪を認めず控訴を続ければ、さらに伸びる可能性もある」
「…………」
「柏葉は、終わる、タレントとしても、将来有望な若者としても」
「だからそれが、なんだって言うんだ!」
「柏葉の無罪を証明できるのは、ただ1人、当夜、柏葉が殴ったとされる会社員だけだ」
「……………」
 無罪。
 今言われた言葉の方が、むしろ拓海には衝撃だった。
 じゃあ、柏葉は、本人が否認している通り、本当に何もしていなかったのか。
「お前の移籍が条件だ、緋川」
「…………美波さん………」
「全部、お前を釣るためじゃないか、緋川、言ってみれば、柏葉はお前のための犠牲者じゃないか」 
「………………」
「メンバー全員が、解散を視野にいれてソロの活動に力を入れている、ギャラクシーのいい時代はとうの昔に終わった。それはお前も理解しているはずだ」
「………美波さん、」
「J&Мを棄てろ、緋川」
「……………」
 言葉が何も出てこない。
 最後の最後で信じようとしていたものが、もろく、暗い闇に堕ちていく。
「俺は、あんたのことを」
 もしかして。
 もしかして、今までのことは、全部俺のためだったって、心のどっかで。
「…………移籍は、しません」
 振り絞るような声で拓海は言った。
 悪い、柏葉。
「俺のことを信じてくれる連中を、裏切ることは」
 できない。
 俺には、絶対にできない。
「気が変わったら、いつでも来い」
「………………」
 無言のまま一礼し、拓海は玄関に向かってきびすを返す。
「恋人は元気にしてるのか」
 思わず足が止まっていた。
「片瀬は気の毒だったな、今、マスコミはこぞってJ&Mに復讐しようと牙を研いでいる、お前も十分に注意しろ」
「…………………」
 何が言いたい。
 何が言いたいんだ。
「俺はあんたとは違う」
 怒り任せに振り返っていた。
「惚れた女くらい、守ってみせる、そんなことで人を動かせると思ったら大間違いだ!」



                 23


 地下駐車場。来客スペースに止めた車に向けて歩いていると、背後から、人が追ってくる気配がした。
 振り返った拓海は、思わず眉を寄せている。
「………君は」
 階段を駆け下りてきたのか、拓海の前で足を止めた女は息を切らしていた。
 重ね着のシャツにジーンズ、肉付きのない細い足は、やはりどう見ても成人している女性には見えない。
「あの、サイン、あ、言ってる場合じゃありませんでした」
 開口一番、女は意味不明なことを言って、自身の呼吸を落ち着かせるように大きく息を吐いた。
「すいません、……なんかこう、最悪な雰囲気で」
「………いや」
 美波涼二の部屋にいた女。
 話の間、女は外に出ていたようだったが、いつ戻ってきたかさえ興奮していた拓海には判らない。
 そもそもこの少女といってもいい年頃の女は、美波涼二のなんなのだろう。
「君は……美波さんの身内?」
「っと……微妙なんですけど、どう説明していいのか」
 質問の意図を察したのか、女は、困惑したように髪に手をあてる。
「ルカワといいます」
「あの部屋で住んでるの?」
 そう聞くと、どこか子供っぽい眼を丸くした女は、とんでもない!といった風に両手を振った。
「時々来てるだけなんです、ほとんど勝手に押しかけてる状態で」
「……そうか」
 可愛らしい子だ。
 年はいくつくらいだろう、よく動く綺麗な目は、小柄で活発なリスか子鹿を連想させた。若さと闊達さが、黙っていても、その全身から滲み出ている。
 美波さんが陰なら、この子はきっと陽だろう。
 何故か拓海は、不思議な安堵を感じている。
「で、俺に何か用?」
「……美波さんのこと、許してあげてほしくて」
「……………」
 拓海が黙ると、ルカワと名乗った女は、ためらったように視線を伏せた。
「美波さんは……今、心のどこかが壊れてるんです、今日言ったことも、全部が本気じゃないと思います」
 ふと、そのうつむいた女の仕草が、拓海に、遠い過去の記憶に埋もれた誰かを連想させた。誰だったろう、それが何だか分らないまま、拓海は自然と心の武装を緩めている。
「柏葉の話は、君は、どこまで知ってるの」
「……詳しくは、知りません。そういったことに……美波さんがどう関係しているのかも」
「本当なら、俺も黙ってはいられないけど」
 柏葉を救うために何ができるか、今も拓海は迷い続けている。
 が、女ははじめてきっぱりした眼差しで拓海を見上げ、首を振った。
「無駄だと思います。ごめんなさい、それは私のカンなんですけど、美波さんが、自分の心でそれを決断しない限り、多分……証拠みたいなものは、何も残ってないと思います」
 黙ってしまった拓海の前で、女はぐっと両手を握った。
「柏葉さんのことは、私よく知ってます。彼は簡単に信念を曲げるような人じゃない、正しいことを主張し続けていれば、いつか絶対に、真実は伝わるはずです」
 甘い。
 拓海は思わず、口にだしてしまいそうだった。
 世の中はそんなものじゃない。真実も正義も、いつだって金と権力の前にねじまげられている。それが現実だ。
 が、女の眼は揺るがない。その無垢なまっすぐさが、むしろまぶしい。
 しかし、拓海にとっての本当の驚きは、次に発せられた言葉だった。
「大丈夫です、緋川さんは安心して待っててください。私がきっと、美波さんをJ&Mに戻しますから!」
 君が。
 やや、あっけにとられたまま、拓海はそんな女を見下ろす。
 若さからくる思い上がりなのか、それともそれが、若さなのか。
 拓海が何年かかっても解く事ができなかった美波の心、それを、この子供が、どうやって。
 無理だ。それこそ、幻想だ。
「……美波さんは、最近誰かと会ってるの」
 女は、少し驚いたように首を振る。
「お役にたてなくて、悪いんですけど、私が知る限り、彼は殆どあの部屋から出ていないと思います」
「………そうか」
 それが、美波を庇った発言なのか、真実なのかは判らない。
 しかし、諦めかけた拓海の前で、女は再び口を開いた。
「一度……トウドウさんって人が来て、会社の話をしてました、それ、今日美波さんが言ってた新しい事務所のことじゃないかと思うんですけど」
 神妙な目になって、女は首をかしげる。
 トウドウ。
 逆に拓海は戦慄していた。
 まさかと思うが、藤堂戒。時期を同じくして辞任した、取締役の一人ではないだろうか。
 事務所の内情を誰よりも深く知り尽くしている美波と藤堂。
 この2人が敵に回ったとすれば、美波の予言どおり、J&Mは四面楚歌、生残る術を模索する方が難しい。
「美波さん、新しい会社の代表になることを、頑なに拒否してたように、私には見えたんです。よく判らないですけど、もう美波さんは本当に一人なんだと……その時、思いました」
「………………」
 黙って目をすがめながら、一体この子は、美波にとって何なのだろう、と拓海は思っていた。
 今日も、その時も、絶対に他人がいる場所でするような話ではない。
 特に今日、美波は自らが犯罪に手をかしたかもしれないことを、口にしたのである。
「………なんて、名前だったっけ」
「?るかわです、ルカワナギ」
「さっき君は、美波さんの、心のどこかが壊れてると言ったね、それはどうしてだと思う?」
「………彼は、多分」
 繊細な顔立ちをした女は、ややうつむいて睫を伏せる。
「すいません、また私のカンなんですけど、何の根拠もない」
「いいよ、言って」
「ものすごい、強迫観念に縛られてるような気がするんです」
「…………?」
 脅迫観念?
「彼を動かしてるのは、緋川さんが想像してるみたいな、別の事務所の人や悪い人たちじゃないんです。彼を動かしてるのは、自分自身なんです、上手くいえないんですけど」
 美波涼二を動かしているもの。
「それが、なんだか、私」
「……………」
 わかった。
「すごく……、可哀想な気がするんです……」
 この子が、光だ。
 美波涼二が、無意識に求めている光。
「緋川さん、事務所やめたりしないでください」
「……………」
 やめるにしても、やめないにしても。
 美波の警告の意味が、いまさらリアルに思い出される。おそらく、それは時間の問題だ。
「私、アイドルが大好きなんです」
 闇夜の中で、女の目が力強く光ったような気がした。
「好きって、……アイドルが?」
 少し戸惑って拓海は聞き返す。
 言っては悪いが、そんなセリフを大真面目にはくような年齢には見えない。
「上手く言えないですけど、人を喜ばせたり、楽しませたり、幸せにしたり、そのためだけに存在してるような気がする、……芸能界の、他のジャンルとは少し違って」
「………………」
「芸だけじゃなくて、なんていうのか、1人1人の存在そのものが、現実には有り得ないっていうか、……幸せの王子って知ってます?」
「え?」
 童話?
 話に微妙についていけず、拓海は瞬きを繰り返す。
「銅像の王子様が、寂しかったり貧しかったりする人たちに、自分を飾っている宝石とか金箔とかをツバメに託して送ってあげる話です。結局錆だらけになった王子は、最後は壊されて、ゴミ箱に棄てられてしまうんですけど」
「………………」
「あっ、全然違いますね、ゴメンナサイ」
「いや……………」
 す、すげー、不吉な例えをこんな場合に言うこの子って………。
「アイドルやってる人たちって、色んなこと犠牲にしてるような気がするから、でもそれで、沢山の人が夢見続けていられるんですよね」
 女は、自分に言い聞かせるようにそう続けた。
「そんな王子を、幸せにするのは、私たちの役目だと思うから」
「……………」
「J&M、絶対になくしちゃいけない場所だと思います、絶対に」
「………………」
 絶対に。
 なくしてはいけない場所。
「じゃ、すいませんでした、呼び止めて」
 ぺこり、と一礼して、華奢な背中が駈けていく。
―――なくしてはいけない場所か。
 車に乗り込みながら拓海は、もう何年も前、自身が事務所を移籍しようとした騒ぎのことを思い出していた。
 随分後になって、思ったことがある。
 あの時、自分の保身をはかったとばかり思っていた美波は、結果的にああすることで、事務所そのものを守ったのではないだろうか、と。
 美波と、拓海、そしてヒカルの主だった面子が抜ければ、当然事務所は弱体化する。もしかすると、今の形でのJ&Mは、この世界に存在していなかったのかもしれない。
「経営の悪化が懸念されている株式会社J&M、唐沢代表取締役社長が、今後、業務提携しているニンセンドーの援助を得ることで、新たな経営再建方針案を打ち出しました。」
 タイムリーなラジオニュース。
 その情報なら、取締役を辞した拓海も知っている。
「ニンセンドーの現社長、御影氏の妻は、元J&M副社長真咲氏であり、かつては、同社の筆頭株主だったとも言われている女性です。現在の持ち株は公表されていませんが、御影氏の出方によっては、J&Mの経営権がニンセンドーに移る可能性も、当然視野に入れておかなければならず、」
「………………」
 もしかすると、今も。
 今も、美波さんは。
―――つか、ありえねぇか。
 拓海は首を振って、アクセルを踏み込む。
 もし、J&Mが消えていく流れが止められないなら。
 今、俺に何ができるんだろう。 



              24



「ここか」
 ケイは眉をひそめて、再度地図を見直した。
「どういうことだろ、事件現場から、かなり離れてるみたいだけど」
 距離にして五百メートル、丁区を思いきりまたいでいる。
 ビルの裏手にある植え込み、ここに、事件当夜から所在がわからなくなっていた携帯電話が投げ捨ててあったという。
「警察では、現場に落ちていた電話を、誰かが興味本位に拾って、この場所に棄てたんじゃないかと判断しているようですね」
 ケイの傍らには、めずらしく自分の城を出た高見ゆうり。
 なんのつもりかトレンチコートにサングラス、言っては悪いが、コスプレの方がまだましだとさえケイは思う。
 興味本位に拾って捨てた、か。
 まぁ、それも、ある話だろうけど。
 生真面目なオフィス街の裏手。駐車場出入り口だけあって、ほとんど人が通りそうもない。
「……最後の通話記録は」
「大学の友人のようです。裏は取れていますが、事件推定時刻直後に繋がったコールは、それからすぐに電源切れか電波が届かないかで、かからなくなったと言っています」
「電波ってことはないね、あの場所で」
 警察は、そこまで調べていないに違いない。
 事件に直接関係ないし、しかも、携帯電話は、発見時すでに、泥水にまみれ使い物にならなくなっていたのである。
「雨のせいだろうね、ひどい日もあったから」
「……そうかも、しれませんけど」
 ゆうりは、眼鏡を押し上げて頭上を見上げる。
「だったら逆に、事件直後、携帯が繋がらなくなったことの説明がつかなくないですか」
「電源を切ったんだろ、柏葉の携帯、あんた掛けた事ないと思うけど、しょっちゅうきってるよ、むしろ繋がる方が難しいって感じ」
「直前は、繋がってるんですよ」
 まぁ、それはそうだ。
「届出人の住所も氏名も、でたらめだったそうですね」
「生真面目そうな女子大生だったらしいよ。係わり合いにたくないから、御礼はいいって言いはったとか」
「…………」
 少し考えていたゆうりは、ケイを振り返った。
「ここじゃないのかもしれないですね」
「え?」
「どう考えても、不自然ですよ、通路からこんなに奥の植え込みに、わざわざ棄てますか、普通」
「どういうことさ」
「拾った場所、こことは違うのかもしれない。事件現場はいわゆる風俗街で、発見者は自分が係わり合いになるのをおそれて、この場所だと虚偽を言ったのかも知れない」
「…………」
「あえて偽名にするほどなら、警察なんかに届けなきゃいいんです。なのに、届けた、どうしてだと思います?」
「……良心?」
「携帯、ぶっこわれてるんですよ。しかも、泥まみれの水びたし、まぁ、普通はほっときますよ。そもそもここから警察まで、一キロ近く、わざわざ届けたりしますかね」
「……わざわざ、届けた方がいいと、その子が判断した」
「その通り」
 ようやくケイは、ゆうりが言いたい事を理解した。
「落ちていた携帯電話に事件性があることを、発見者の女性は少なくとも認識していたわけです」
「目撃者か」
「ビンゴ」
「つまり、携帯を拾った場所はここじゃありえないんだ」
「それも、正解だと思います」
 となれば、その正体不明の女子大生探しだ。
「絞込みは簡単だと思います、おそらく、あの界隈でアルバイトをしている女子大生、通勤経路にあの時刻、事件現場を通るとなれば、随分ターゲットは限られますから」
「か、簡単にいってくれるけどさ」
 ま、やるしかないんだけど。
「それにしても、ここまで見越して、あの情報提供だとしたら、一体、何者なんでしょうね」
「……白馬の、騎士か」
 ハンドルネーム白馬の騎士。
 あのふざけた動画で、ゆうりを失神させた逆ハッカー。
「一生忘れませんよ、私を初めて裸にした相手ですから」
「ま、あんまり無茶はしないように」
 涼しげな眼に白い炎をもやす相棒の前身を、ケイは今までもこれからも、絶対に口にする気はない。
 詳細までは知らないが、少なくともゆうりと知り合った十年前、ゆうりの身辺には公安警察の影があった。高見ゆうりは無論本名ではないし、これからも、本名を知る機会は、おそらく一生ないだろう。
「にしても、迷惑かけてくれるよ、柏葉将は」
 腰が痛い。
 ここ数日、にわか探偵事務所と化した冗談社は、冗談ではなく寝る間もないほど忙しかった。
 馬鹿だね、あの子も。
 ケイは、苦笑して空を見上げる。
 夏の日差しが、まぶしいほど強く、夕暮れの町に降り注いでいた。
 素直に認めれば、たかだか罰金刑で出てこれるのに、何を意地はってんだか。
「緋川拓海騒動から続くアイドルバッシング、お父さんの社会的な立場もあって、日本中が、あの子に謝罪を求めてますね」
「柏葉将は意地っ張りだけどさ」
 乗り込んだ車。ニュースは今日も、外務省人事が混乱していることを告げていた。
「本当にやってないから、ここまで意地が張れるんだ。だったらどこかに、絶対証拠が転がってるはずなんだよ」
 拘留期限まで、あと5日。
 起訴が決定されたら本当におしまいだ。日本中が注目している事件、例えそれが誤認に基づく逮捕であっても、一度起訴までしてしまえば、警察は威信にかけても後には引かないだろう。
 今は、やれることは全部やってみるしかない。 



              25


「将はまだ、出られないんですか」
 柏葉征二は、無言で手元の新聞を開く。
「どうしてなんですか、すぐに出られるって、藤尾先生も言われてたじゃないですか」
「……………」
「萌々だって、学校にも行けないんです、家の前は胡散臭い人たちがうろうろしてるし、なんとかならないんですか、あなた」
「……………」
 答えない夫に諦めたのか、妻はため息と共に、卓上の茶を片付け始める。
 二階に閉じこもった娘の部屋からは、耳につく音楽が聴こえている。
 憔悴した妻は、息子から面会に来ることを拒絶されたことで、ますます気落ちしているようだった。
「あなたは、面会には行かれないんですか」
「そんな時間はないんだ、本当に」
 帰国したのは今日の午後、明日の朝の便で、ソウルに立たなければならない。
 机の上に置いた携帯が震え、征二は無言でそれを手に取った。
『やはり、浅原大臣が噛んでいるようですね』
「そうか」
 開口一番そう切り出した相手の男は、総務課の秘書で、柏葉が一番頼りにしている外務省職員である。
『……警察庁のトップクラスが、ご子息の拘留延長を指示している可能性があります、簡単に尻尾は見せないでしょうが』
「……………」
『皆川警視総監は、浅原派の議員と繋がりが深い。狙いは、柏葉局長の政務次官内定を覆すことにあるのだと思います』
「そうか」
『負けないでください、これからの北との外交を担えるのは、柏葉さんしかいないんですから』
「……………」
 柏葉は無言で携帯を切る。
 今、耳にしたことは、今日の午前、時期首相としてほぼ足場を固めた安部議員にも聞かされたことだった。
(――時間は多少かかるだろうが、私としても、この件では尽力しているところだ、柏葉君)
(――しかし、暴力を振るった事実だけはいかんともしがたい。社会を騒がせた罪は、残酷なようだが、君の息子に贖罪させるしかないだろう。君は君の職責を全うしたまえ)
(――息子と仕事は切り離したまえ、私も、この件で、君への処遇を変える気は毛頭ないよ)
(――君はこれからの日本に、絶対に必要な存在なのだ)
「出かけてくる」
「はい、タクシーを呼びましょうか」
 仕事がら、不規則勤務には慣れているのか、妻は即座に外交官の妻の顔を取り戻す。
 語学が堪能、という理由だけで見合いで結婚した妻は、外交官の妻としては、物足りないほど控えめで、むしろ、家庭の中に埋没していることを望むような女だった。
「いや、車で行く、車庫の鍵を開けておいてくれないか」
「気をつけてくださいね」
 再度、電話が鳴る。
「私だ」
 柏葉は、ネクタイを締めながら携帯を耳に当てた。
 今朝からずっと待っていた電話、背後の妻に聞こえないよう、隣室の客間に移動する。人気のない暗い部屋は、将が子供の頃習っていたピアノがおかれていた。
「将の容態はどうだ」
『怪我は擦り傷程度です。喉をやられたみたいで、しばらくひどい声でしたがね、ショックで寝込んでるっていいたいとこですが、案外平然としてますよ』
「そうか」
『ただ、妙に落ち着いちまって、別の意味で心配になりましたけどね』
「………………」
『官房内の有り得ない失態に加えて、ちょいと怪しいタレコミや警察への抗議が相次いでましてね、ご存知かもしれないですが、今、検察サイドも、誤認逮捕の可能性を考慮し、ようやく重い腰をあげた所です』
「君のみたところ、どうだ」
『どうとは?』
「将はどうだ、あれは嘘をつくのが上手い」
『……………』
「子供の頃から、大人でも見抜けない拓みさで、平然と嘘をついてきた。君がみたところ、将は嘘をついているように見えるか」
『…………』
 わずかな沈黙の後、失笑するような笑い声が返ってきた。
『いや、寂しいもんだと思いまして』
「…………」
『私の見たところで恐縮ですが、彼は本当のことしか言っていないと思いますよ』
「そうか」
 寂しいか。
 血が繋がっていないことが、言い訳になるとは思えない。
 が、男にとって息子とは、もう何年も前に、理解しあう術を失った同性だった。
『柏葉さん、あんたは父親なんだから』
 電話の向こうの声は、笑っていた。
『嘘つきの息子なら、胸倉引っつかんで、二三発ぶんなぐっちまえばいいんですよ』
「暴力は嫌いだ」
『相手の人生、背負い込む覚悟の暴力なら、いくらだってやっちまっていいんですよ』
「……………」
『言葉でも、身体でも、伝え合わなきゃ、人間は』
「将のことを、よろしく頼む」
 国民に知られてしまえば、どう非難されるか判らない。
 が、同郷の旧友を将の官房に潜り込ませたのは、柏葉が息子のために職務を利用しえた、唯一の非常手段だった。
「いつまでですか」
 玄関で、上着を差し出しながら、妻の控えめな声がした。
「戻るのは来月だ、それまで留守を頼む」
「一度でも戻れないんですか」
「無理だ」
 我慢の糸がふいに切れたのか、背後で、すすり泣きが聴こえた。
「……将は……」
「大丈夫だ」
 最悪起訴されても、裁判になれば、逆に有利になることもある。
柏葉が見る限り、被疑者の供述も随分怪しい。
 なにより、その頃には騒ぎも収まり、将も、第二の人生を歩んでいるはずだ。
「もう、戻ってこないような気がするんです」
「そんなことはない、弁護士に任せていれば、大丈夫だ」
「……いえ、そうじゃなくて、私たちのところへ」
「……………」
「将は二度と、戻ってくれないような気がするんです」
「……………」
 靴を履き終えた柏葉は、初めて見るような静かさで、背後の妻を振り返った。
「お前は、将の母親か、志津絵」
「そのつもりです」
 いぶかしげな涙目が、柏葉を睨みあげる。
「将が、私を嫌っているのは知っています、私が……その原因をつくったことも」
 将が思春期を向かえた頃から、妻は目に見えて将に冷たく当たるようになった。そして、あてつけのように、娘の萌々を溺愛するようになった。
「でも私にとって、将は」
 当時は柏葉にも、母子の不仲の理由がわからなかった、しかし、今なら判る。
 2人とも、不器用だった。
 互いの愛情を試そうとするあまり、傷つけあい、その修復を双方諦めてしまった関係。
「………大切な………」
 妻のすすり泣きを、男はしばらく無言で聞いていた。
 どこで、歯車がくるってしまったのだろう。
 初めて抱いた小さな命。
 自分の命に代えても守ろうと誓った夜、可愛くて、愛しくて、こんな幸せな時間が人生にあるなんて、どうしても信じられなかった。
―――お父さん、
 その時、
―――今日ね、遠足にいったんだ、動物園にいったんだよ
 繋いでいたはずの手を、どこで、離してしまったのだろう。
「……私は、将の父親だろうか」
 約束の時間には、もう間にあわない。
 玄関に立ちすくんだまま、男はそう呟いていた。
「当たり前じゃないですか」
「では、父親とは何だろう、志津絵」
「……………」
「もう一度聞こう」
「……………」
「私は、将の父親だろうか?」












 
 ※この物語は全てフィクションです。



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