14
「はじめてみたわよ、息子のあんな無様な姿」
「……すいません」
逆に凪が初めて見たのは、元雇い主の、怒りとも侮蔑ともつかない冷ややかな横顔だった。
凪は立ち上がり、頭を下げた。
「本当にすいません、私の軽率からおきたことです。責任は私がとります」
「取るってどうやって」
海堂倫。
千葉にある「Generosityホスピタル」の女院長。
理事長職には名ばかりだが、その夫で音響会社「レインボウ」の社長でもある前原大成がついている。
もちろん、経営も管理も、内実共にこの院長室に座る女一人がこなしているのだろう。
そして今日、凪はその海堂倫から、いきなり呼び出しを受けて、ここにいる。
「びっくりしたわよ、いきなり三十万以上の請求がきて、その程度の金額なんてこともないけど、請求相手が得体の知れない金融会社」
「…………」
煙草の煙を吐き出し、足を組みかえると、倫は形のいい眉をひそめた。
「あのバカ息子が、どこの広告みて電話したのか知らないけど、探偵事務所なんてやくざと紙一重なんだから」
海堂さん……。
凪は黙って目を伏せる。
海堂碧人。
まさか、彼が、そこまでしてくれていたなんて、想像さえしていなかった。
「お金は……働いて、必ず私が返済します」
頭を下げる凪の面前、無言で煙草に火をつけた倫の唇から、微かなため息が漏れる。
「大学、休んでるんだって?」
「…………」
「バイトと、家出人の捜索活動?あのね、親がどういう思いで、あなたを大学に行かせてるか判ってる?」
「…………」
何一つ言い返せない。
ここ数日の自分の行動から、箍が外れていたのは自覚していた。
焦ってどうなるわけでもないのに、テレビで流される柏葉将のニュースを見るたびに、気持ちばかり急いてしまう。
保坂愛季の自殺未遂。
家族の捜索を諦めた凪は、当時の事故記録を調べ、関係者の家へ聞き取りに回った。
随分嫌な思いもしたし、させた。
でも、今は、ひとつだけ、真っ暗な闇に光明が見えている。
(もしかしたらだけど……あの子、追っかけてたんじゃないかなぁ。)
凪が求めている答えまで、あと少し――でも今は、全てが仮説と想像にすぎない。裏付けられるのは、やはり失踪している家族しかいない。結局はそこに行きつくのだ。
あと少しで、判りそうな気がするのに、それでも、永遠に掴めないような気もする。
美波の心を解く鍵が、この世界のどこにあるのか。
ふっと、倫が、微笑まじりに煙草の煙を吐き出した。
「碧人は、あなたが好きで好きでしょうがないから、心配でたまらなかったのね」
その言葉には、さすがにはっとして顔をあげてしまっていた。
倫は、口元に淡い笑みを湛え、探るような眼で凪の表情の変化をじっと見つめている。
凪は、唇を半ば開いたまま、それでも何も言えなかった。
海堂さんが。
私を。
苦笑して、倫は吸いさしの煙草を灰皿に押し付ける。
「見るに見かねて、あやしげな探偵事務所に捜索を依頼しちゃったってわけ。こっちも弁護士たてて、不当な請求は受けないつもりだけど、まぁ、面倒なことになっちゃったわよ」
「………本当に、すいません」
積極的に頼んだつもりはない。が、確かに、彼の協力を拒まなかったし、随所で助けてもらっていたのは事実だった。女一人では入っていけない危険な店など、碧人がいたからこそ、足を踏み入れられた場所もある。
「子供がね、好奇心や興味本位で足つっこんでいいことと悪いことがあるのよ、世の中には」
倫は、そう言って立ち上がった。
声に、最初の厳しさが戻っている。凪はただ、申し訳なさで身を固くする。
「美波涼二君と、知り合いだったんだ、あなた」
「……昔、お世話になったんです」
「で、保坂愛季さんのことを調べてる、それはどうして?」
「………………」
「何をしたってね」
子供を諭すような声だった。
「彼女は目覚めないし、過去を書き換えることもできないのよ」
倫は続ける。
「あなたが何をしたって、あの二人の過去は変わらないのよ」
「変わります」
それを遮るように、凪は言った。咄嗟の反論だったが、心の底の頑なな何かが、倫の決め付けを拒否していた。
「変わると思います」
未来が閉ざされている以上。
今は、過去にしか、彼の心の扉を開く鍵はない。
絶対に、絶対にあきらめない。
「お金は私が払います、何年かかっても、絶対に私が弁償します。息子さんも、二度と巻き込ませたりはしません」
凪は、拳を握り締めて、頭を下げた。
「お願いします!私を、保坂さんのお母さんに、会わせてはいただけないでしょうか!」
沈黙。
無言で床を見つめる凪の面前、テーブルの上に、分厚い封筒が投げられる。
凪は、顔をあげていた。
「ひと夏ここで働かせることにしたから、うちのバカ息子」
「………………」
封の上にはマジックで、調査報告書在中と書かれている。
もしかして、これは。
「それ、凪ちゃんが読んでくれなきゃ、あのバカの労働の意味がなくなるじゃない」
倫の声がやさしくなる。
封筒を握りしめたまま、凪は何も言えなかった。
「入院してる患者さんの素性はね、私の口からは絶対に言えない、何があっても、それが警察でも総理大臣でも」
「…………」
「封筒の中身のは、私の知らないことだから」
そう言って退室する倫の背中に、凪は無言で頭を下げた。
海堂さん、ごめん。
私のこと好きって、それはちょっとどうかと思うし、心外ではあるけれど、ひどく心配させているのだけは知っていた。
成瀬との付き合いにしても、碧人には何度も注意された。本当に何度も何度も。
(彼氏ほっといて、こんなことしてて、大丈夫なのかよ)
(お前が今やってること、俺には、いまいち理解できねーよ)
(美波さんって人が戻れば、事務所がよくなるっていうのはわかるよ、でもさ、それ、本当にお前の彼氏のためにやってること?)
あの時も、凪には何も言えなかった。
(俺にはそれ、美波さんってヤツのためにやってるとしか思えないんだけど)
言い訳があるとすれば、当時、「彼氏」に関しては、ほっとくしかないのが実情だった。
嵐のよう騒ぎの渦中。雅之にしても、それどころではなかったのだろう、柏葉将の逮捕以来、電話もメールさえもない。
靴が履けなかったことも……誕生日のお礼も、まだ言っていない。
「………………」
誰のためとか、そんなんじゃない。
封筒を抱きしめながら、しかし凪は、それが本当の意味での言い訳だということに気づいていた。
確かに美波が戻れば、ストームにとっては、何より力強いバックになる。
でも、それが目的というより。
―――私はただ、救ってあげたいのかもしれない。
あの日の彼を。
まるで感情をなくした目になっていたあの人を。
彼を縛っている呪縛から。
あたかも彼が眠り姫で、凪がいばらを切って突き進む王子のように。
15
「携帯電話……」
ゆうりの呟きに、大森は「ん?」と、眉をあげて振り返った。
東京神田。
冗談社。
朝から仕事もそっちのけでパソコンに向き合っている高見ゆうりが、午後二時半、本日はじめて口にした第一声がそれだった。
「どうした、ゆうり」
外出から戻ったばかり、コーヒーカップを手にした九石ケイが、その背後に立つ。
外は陰鬱な雨が降り続いている。
「いえ……ちょっと気になる書き込みがあったので」
「書き込み?」
「まぁ、私がやっている趣味のホームページに」
趣味?
と、大森は飲んでいたコーヒーを吹き出しそうになる。
趣味というか、実益というか、多分この人の隠れた本職。
自称サイバーオタクが集う謎めいた秘密サイト、はっきりいって、国家機密すれすれの危険情報が平気で飛び交っているのである。
ゆうりが独自に作り上げたネットワーク。無論参加者は、自身の素性を守るため、何重ものプロテクターで重装備して、このサイトに参加している。で、うかつな一般人がうっかり迷い込もうものなら、何十人ともしれない凄腕ハッカー集団に、徹底的に攻撃されて締め出されるのである。
はっきり言って、のぞくのも恐ろしい。
眼鏡を指で押し上げながら、ゆうりが言った。
「事件現場から一区画離れた交番に、携帯電話の落し物が届けられたそうなんですよ」
「で?」
「柏葉将の携帯電話が、事件当夜から、どうも所在不明になっているようで」
ど、どうしてそんな、ニュースでもやってないことがわかるんだろう。この人は。
そう思いながら、大森も椅子をひきずってゆうりのパソコンを覗き込む。
「交番では、いったん普通の遺失物として処理して、で、後から慌てて赤坂署に報告しています。おそらくそれが、柏葉将が当夜なくした携帯電話だったんでしょう」
「へぇ」
ケイの口調が、興味が抜けたような気のないものになる。
それは、大森も同じだった。
携帯の本体などなくても、着信履歴など簡単に調べられるし、実際警察でも、その程度のことは調べただろう。で、本体に情報を記録させるほど、柏葉将は無用心な男ではない。
ケイは嘆息し、ポケットから煙草を取り出した。
「何もかも手詰まりか、例の会社員は、静養だとかで海外にとんずらしてるし、白報堂は、正社員じゃないっつって知らぬ存ぜぬを決め込んでるし」
大森も、周囲の店を周り、しらみつぶしに聞き込んでみた。が、事件当夜、柏葉将の無罪を裏付ける証言は何ひとつ取れなかった。
それどころか「口論をしていた」とか「怒鳴り声がきこえた」とか、不利な証言しか浮かんでこない。
が、ゆうりは、眉をひそめたまま、パソコンのキーを叩き続けている。
大森には意味不明の画面が、ざざっと流れては切り替わる。
ケイがその間に割って入った。
「今さら出てきた携帯が、どうしたって感じだけど、何かひっかかることでもあんの?あんた」
「書き込みしてきた相手です」
「相手?」
「実は、事件の第一報を伝えてきたのも、同じハンドル、同じIPアドレスなんです」
「…………」
「後で調べてみて判りました。柏葉将逮捕のニュースは、赤坂署にはりついていた新聞記者が第一報を本社に送ったのが最初で、その時刻は、午後六時四十五分。大物芸能人逮捕という不確定な情報を受け、系列の新聞記者、テレビなどが赤坂署に集まったのが、午後七時十五分すぎ。その時点で、事務所サイドも柏葉の家族も、事件のことは一切知らされていませんでした」
説明しながら、ゆうりの指はせわしなくパソコンを叩き続けている。
「警察から事務所に通報がいったのが、午後八時半。同時刻、正式な記者発表があり、はじめて柏葉の名前がマスコミに出てきたことになります」
「で、あんたのサイトに書き込みがあった時刻は」
「午後六時半。その時点ですでに柏葉将の名前も、事件があった場所も、容疑の詳細も、ほぼ正確に書き込んでいるんです、警察関係者だとしても、少しあり得ないと思います」
ケイは、眉をよせ、殆ど吸っていない煙草を灰皿に押し付けた。
「具体的には、何時ごろなのさ」
「私の推測では、路上で拘束された直後か、護送されている最中です」
「………………」
「書き込みはシークレット、つまり、サーバー管理者である私にしか見えない方法でなされています。今回も同じです。まぁ、これをやるのは、ちょっとしたルール違反なんですけど」
と、存在そのものがルール違反のサイトを運営している女は、眉ひとつ動かさず、ただ指を動かし続ける。
「相手、特定しようと思います」
「できるの?」
「おそらく」
一体、ゆうりさんの前身ってなんだったんだろう。
それは、大森がいつも思っていて、決して口には出せない疑問である。
歳はケイさんより若そうだけど、あのケイさんさえ一目置いて、微妙に距離を開けている(と、大森にはみえる)女。
冗談社のネットワークも、ゆうりが構築したもので、ケイ曰く「国家機密級のプロテクト」がかかっているらしい。てゆっか、そんな意味がないものに予算さく余裕があったら、壊れっぱなしのクーラーをなんとかしてほしいのだが。
「で、携帯電話の書き込みも、同じ奴からあったんだ」
腕を組んでケイ。
「そうです、もしかしたら、単なる落し物以上の意味があるのかもしれない」
「探りいれてみるか、警察に、多少話しのわかる知り合いいるから」
「お願い……、」
言いかけたゆうりの指が止まる。
「どうした」
「いえ、ちょっとまずいことに」
まずいこと?
大森も、ゆうりのいつになく険しい横顔を見上げる。
「こっちが侵入を試みたら、逆に侵入してきました。もしかすると、トラップだったのかもしれません」
大森とケイは顔を見合わせる。
「まぁ……うちには、そこまでまずい情報は」
「そういう問題じゃないんです!」
いつの間にか、ゆうりの目が血走っている。
「そんな……バカな、私の鉄壁のブロックが」
第一防衛ライン突破、第二防衛ライン突破、
独り言のように呟きながら、ほとんど超人的な速度で指がキーを叩き続けている。が、それはやがてあきらめたように、動かなくなった。
「最終防衛ライン、突破……」
いや、そんなもん……たかだか正社員三人の弱小出版社のネットワークにつけなくても。
が、ゆうりは、全てが終わった人のように、ふいに目を閉じて昏倒した。
「ゆっ、ゆうり??」
と、大慌てでそれを支えるケイ。
大森は、半ば唖然としながら、パソコン画面に目を向けた。
―――……え?
真っ黒な画面には、場違いに子供じみたイラスト動画が踊っていた。
白い馬に乗った西洋風の騎士。
なに、これ。
一種異様な薄気味悪さを感じ、大森はゆうりの机の上に投げられたままのメモを見る。
白馬の騎士
そこには、それだけ記されていた。
16
準備中。
油で汚れたガラス戸に、そんな看板がぶらさがっている。
ガラス戸に刻まれた文字はハングル。凪にはまだ読解できない。
―――ここ……?
手元のメモで確認する。店名は違うが間違いないだろう。
背後では、アジア風の男が数人、凪の方を振り返りながら通り過ぎる。
都心であっても、この界隈だけまるで異国のそれのようだ。大小の飲食店がひしめく路地。まだ昼食時には間があるせいか、街はひどく静かだった。
躊躇しつつ、凪がノックしようとした時だった。
「……?」
その腕を背後から、強い力で掴まれる。
店の人だと思った凪は、「泥棒じゃないですから」抗いながら振り返って、固まっていた。
「来い」
「………っ」
怖い顔が見下ろしている。
やばい。
てゆっか、なんで?
なんでばれちゃったんだろう。
頭が白くなって、言葉が何も出てこなくなる。
ひきずられるようにして路地を出る。異国の匂いが周囲から消える。少しばかり広くなった路上に、見覚えのある車が駐車してあった。
そういえば、通りかかった時にも見かけたのに、そして「同じ車だ」と思ったのに、どうして今まで気づかなかったのだろう。そんなことを考えるまもなく、凪は車に押し入れられていた。
「あ、あの」
アイドリング中の車は、すぐに走り出す。
「………あの」
運転席に座る横顔は、以前よりわずかに痩せていた。
美波涼二。
ダークなスーツにネクタイ。少しだけ伸びた前髪。
その怜悧さを増した顔が、激しい怒りを通り越して、蒼白にすら凪にはみえた。
「あの店に、お前の探している男はいない」
「…………」
「何年前の情報だ、それは」
海堂さんだ。
凪は即座に理解した。海堂倫、彼女の立場なら、そうするのが正解だろう。
未成年の凪一人を、危険な場所に行くと判って放置しておくわけにはいかない。かといって息子に教えるわけにはいかず、責任者の一人として美波に事情を話したのだろう。
確かに、凪を止められるとしたら、それは隣で運転している男だけなのかもしれなかった。
「何を調べている」
「………それは」
「愛季が死んだ理由を、そんなに知りたいか」
死んだ?
凪は表情を固めたまま、美波を見上げる。
死んでいない、まだ彼女は生きている。
車が止まる。
ほとんど急ブレーキをかけた状態で土手の端に止まった車、両腕を震わせている美波は、むしろ必死で自分の感情と戦っているようだった。
「今……何を、してるんですか」
ひるみそうな自身を励ましながら、凪は口を開いた。
怒られるのは覚悟の上だ。
憎まれることさえ覚悟して、関わろうと決めたのだから。
「聞いてどうする」
「……ストームのこと、どう思って」
「もう、事務所と俺は関係ない」
冷酷な拒絶。
凪は言葉を失っていた。
「二度と、余計な真似をするな」
「……………」
「二度と、愛季の周りをうろうろするな!」
やや病的な激しさで、美波の手がステアリングを叩く。
車の窓ガラスが震えるほどの、それは激烈な怒りだった。
それも、
「………………」
覚悟、してたんだけど。
思わず零れた涙が、何の意味を持つのか、凪にもよくわからなかった。
怖い。
自分は子供だと、この人とは生きている場所が違うのだと思い知らされる。
それでも。
それでも、伝えなければならない。
「蝶々、見たって」
凪は、涙を拭って、必死の思いで顔をあげた。
「事故の運転手さんと話をしたんです、私。当時勤めてたトラック会社から口止めされてたから言えなかったけど、もしかしたら、愛季さん、自殺じゃなかったかもしれないって」
「………………」
「愛季さんが飛び込んでくる直前、蝶々みたいなものみたって、その人」
ひらっと、白いものが風に舞って。
あれ、なんだったのかな……そしたら、まるで子供が蝶々追うみたいな感じで、あの子が。
「私、それ……」
美波さんが、愛季さんにあげた。
「ハンカチだったんじゃないかって」
絶対、そうだって。
「私なら、死なないです」
「…………」
「私なら、大好きな人置いて、死んだりしないです、絶対!」
「愛季はお前じゃない!」
「……わかってます」
「お前は愛季じゃない……」
「………………」
涙が、幾筋も頬を伝うのを感じながら、もしかして、何より自分が、ここにいる美波を苦しめているのかもしれないと、凪は初めて思っていた。
(あなた……似てるわね、愛季ちゃんに)
(正直言うと、娘さんかと思っちゃった、うつむいた時の雰囲気なんて、そっくりだもの)
旧姓早川明日香の声が、耳に蘇る。
「愛季は死んだ」
「……………」
また、それだ。
何故だろう、彼女は生きているのに。それが、死と変わらない、という意味なのだろうか。
「愛季を殺した人間は、愛季と同じ分だけ、苦しまなければいけない」
激しい感情を露わにしたのは一瞬で、美波は再び、元の冷ややかな横顔に戻っていた。
「復讐ですか」
「復讐だ」
そんなの、何の意味もない。
何も戻らないし、自分も人も傷つけるだけで、何の救いにもならないのに。
「それは……唐沢社長さんに、ってことですか」
「……………」
初めて美波が、不思議そうな目で凪を見る。
その表情の持つ意味が、凪にはまるで判らなかった。
「そう、唐沢に、だ」
しかし、美波は、再び無表情な目になって頷いた。
「全てを失う苦しみを、愛季と同じ分だけ、味あわなければならない」
「どうやって、ですか」
この人は、今、普通じゃない。
凪は、むしろ、病人に話しかけるつもりで、慎重に言葉を選ぶ。
「力だ、力だ、この世界は力が全てだ」
「……………」
「実際その力で、愛季は死んだ」
死んだ。
また、過去形。
「力に対抗できるのは、より強い力しかない、俺はそのことを、骨身に沁みるほど強烈な形で、唐沢から学んだんだ」
横顔が、薄く笑う。
「今俺は、淡々と」
楽しいとも、悲しいともつかない、不思議な笑い方だった。
「学んだことを、実行しているだけだ、そして唐沢はもうすぐ終わる」
「……………」
「J&Mはなくなる、そうやって、全てが終わる」
「………………」
「俺が、この手で終わらせる」
17
「……少し……考えさせてもらえませんか」
将は振り絞るような声で言い、そのまま深くうなだれた。
「いいだろう」
検察庁。
二度目の検事取調べ。
赤い絨毯に覆われた検事室は、将が寝起きしている場所とは、まるで別世界だった。
軽くウェーブがかった髪を撫で付けた、恰幅のいい検事正が、鷹揚に将を見下ろしている。
将はその前で、両手を手錠で拘束されたまま、椅子に座らされていた。
「十分……二十分でいいかね」
「はい」
「では、隣室で考えなさい、二十分たったら、呼ぼう」
呼び鈴が鳴らされ、係員が来て、将は別室に連れ出された。
退室間際に見た検事の顔が、微笑している。
落ちたな、と、そう思っているのだろうし、それは、実際限りなく正解だった。
―――事務所、解雇……。
今日の午前中、接見に来た弁護士に聞かされたこと。
なんつーか、こう。
うつむいたまま、将はむしろ、笑い出したい衝動に駆られていた。
つか、こういうもんなのかな、世の中っつーのは。
ただ正直に、やってないもんはやってないっつってるだけなのに、解雇。
で、やりました、って認めれば、首をつないでもらえるわけだ。
嘘つきゃいいのか。
都合のいい事実に迎合すれば、それでいいのか、この世界は。
じゃあ、罪って、法律ってなんだ、人間の尊厳ってなんなんだ。
そんなもん、大きな流れや利益の前では、どうでもいいってことなのか。
「……………………」
握り締めた拳、しかしそれは、不思議なほどの頼りなさで解けていた。
ま、いっか。
何をそんなにこだわってたんだろ、俺も。
あんな地獄みたいな場所で、犬よりひどい扱いを受けて、全身裸で写真まで撮られまくって。
そこまでして、我慢する必要も耐える理由もなかったわけだ。
微罪だし。
言われたことも、されたことも到底許す気にはなれないけど、ひとまず「申し訳ありませんでした」って謝ればいいだけだし。
それが、世の中が、俺に求めてることなんだろう。
「すいません」
将は顔を上げ、背後の係員に声をかけた。
「いいのかね」
「はい」
今夜は風呂だ。
シャワーを浴びて、ゆっくり寝よう。
きっと皆、これで安心するんだろう。親父も、お袋も、社長も、あいつらも、
それから。
―――バニーちゃん。
「…………………」
「柏葉?」
「あ、すいません」
―――この勝負が終わったら、あなたはどうなっていると思う?どうなっていたいと思う?
「今、行きます」
何考えてんだ、俺。
これは勝負でもなんでもない、全然、意味違うじゃねぇか。
―――先を見なさい、五年先、十年先の自分をみなさい。その時なっていたいと思う自分を想像してみなさい。
今更迷うな。
考えろ、将。
これは、俺自身のプライドと仲間と、どっちを選ぶかっていう選択なんじゃないか。
迷う必要なんて、
「……………………」
―――そうしたら、答えなんて、悩まなくても出てくるわよ。
※この物語は全てフィクションです。
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