11



 ここは……地獄だな。
「起床、起床、起床」
 すっかり慣れた朝の掛け声。
「寝れたのか」
 手馴れた手で毛布を片付けながら、4日前から同室になった男が声をかけてきた。
 やたら喋りたがる男だ、将がいくら拒絶しても、うるさいほど声をかけてくる。
「これだけ暑いと」
「真夏はこんなもんじゃねぇぜ」
「……………」
 冷房もなく、風取り窓もない官房。
 蓄積された汗の匂いの意味が、今は将にもよく判る。昼から夜にかけて蒸すほど暑い、ただでさえ寝苦しい中、隣り合わせの官房や、同室の男の鼾や歯軋りで眠れない。
 朝方ようやく涼しくなってから、わずかに熟睡できるほどだ。
 掃除を済ませると、朝食になる。
 朝のメニューはいつも同じだ。薄い味噌汁と、茶碗一杯の飯、それから沢庵。
 周囲の臭気にやられて、当初は、食べる気にもならなかったが、今は、無感動に口に運ぶことができる。
「ここは、天国だな、坊主」
 同室の男が、箸を動かしながら囁いてきた。
 食事中の私語は厳禁だが、交代制で見張りについている監視員によっては見逃してもらえることもある。
 今、席についているのは、佐川という図体のでかい監視員で、将がここに入れられた初日、色々話しかけてくれたやくざじみた男だった。
 将には最悪な男でも、佐川は官房の中では、割に人気があるらしい。しょっちゅう、彼に向かって喋りかける輩が後をたたない。
「三食昼寝つきで、仕事もしなくていいからよ、拘置所にいけばよ、坊主、今よりもっといいもんが食えるって知ってるか」
 知らないし、行く気もない。
「便所、先いいか」
「どうぞ」
 将にとって、最も苦痛な時間がはじまる。
―――ここが……本当に、人間の住む所なのか。
 この世界に、こんな地獄みたいな場所があることが、まだ将には納得できないままだった。
 罪を犯したものが罰として入れられる場所ではない、ここにいるのは未決勾留者、まだ、罪を犯したかどうか、未確定の者たちばかりなのである。
 この、黙って座っているだけで汗が滲む環境下で、風呂は三日に一度。しかも垢と髪と陰毛が浮いた、薄汚い湯につからなければならない。
 取調べの時間以外は、することもない。三畳の官房に男2人が閉じ込めれ、ひたすら読書。その本も、就寝時間である9時には官房外に出さされる。
 水流と共に、背後のむき出しの便所から男が戻ってきた。
 四十過ぎの肉体労働者風の男は、強盗容疑でここに入れられている、これが初犯ではないから、実刑がつくだろうと、自身でそう言っていた。
「坊主はしないのか」
「……………」
 取調べの間に、行くようにしている。
 そうでなければ、神経が持ちそうもないし、それで病気になるなら、なった方がマシだ。
「娑婆に戻りたくてたまんねぇ面してんなぁ、坊主」
「………………」
「戻ってどうする、娑婆は地獄だ、ここにいる方が何倍も気楽じゃねぇか」
 出たい。
 一分でも一秒でも早く、こんな場所から飛び出したい。
 時々、気が狂いそうになる。
 何も考えずに読書にふけるしか、この現実から逃げる術がない。
(柏葉君、君の気持ちはよく判る、本当によく判る、しかし、当日、君の供述を裏付ける目撃者もいなければ、駐車場の監視カメラも作動していない、こんな状況で、誰が君の言うことを信じるだろうか)
 毎日毎日、熱心に「自白」をすすめる弁護士。
(君は一度、確かに被害者を殴打している。でも、本当に一度だったのかな、君は興奮状態で、自分が何をしているかわかっていなかった、そうじゃないのかな)
 繰り返し繰り返し、将の「勘違い」を認めさせようとする刑事。
(フィルムは、本当に盗っていないのかな。いや、盗る気はなかったにしろ、怒り任せに奪い取って、その場で棄ててしまったんじゃないのかな。被害者も、君を無断で撮影した非は認めている、そこは認めても、かまわないと思うよ、僕は)
(無神経で強引な取材されたことへの暴挙。マスコミ攻勢にさらされて神経質になっていた君のしたことは、十分同情に値するよ。反省して、きちんと謝罪すれば、罰金刑ですむんだ、君はまだ若い、これからいくらだってやり直せるじゃないか)
「……………」
 そういう訊かれ方をするということは、相手も、あの夜、どんな話を2人でしたのか、それは警察に話してないのかもしれない。
 それに、少しだけ将は安堵する。
 その意味では、被害者は将の出方を見ているのかもしれないし、また、最初から将の口から絶対に抗弁できないと見越しての、供述だったのかもしれない。
 いずれにせよ、あの夜のいさかいが、どうして逮捕勾留に至るまでに発展したのか、将にはまるで見えないままだった。
 しかし現実に、今、将は被疑者として拘置所にいる。
 将自身が語る真実は、どう説明しても受け入れてはもらえない。
(お父さんがどんな立場で、お母さんや妹が、どれだけ苦しんでいるか考えてみなさい。君の事務所も大変な状況だ、君のせいなんだよ、柏葉君)
 将が黙秘をはじめると、弁護士も取調官も、決まって最後にそう言った。
 全部君のせいなんだよ、柏葉君。
「………………」
 認めればいいのか。
 やってもいないことを、やりましたって、そういえば、上手くいくようになってんのか、この世界は。
 一度は殴った。
 殴ったというよりは、胸倉を掴み、そのまま力まかせに突き飛ばした。
 男は仰向けに倒れ、許しを請うように両手を振った。
 怪我などしていない。それは将もはっきり確認している。
 そのまま、将は歩き出した。確かに怒っていた。目もくらむくらいで、自分がどこを歩いているか、それさえわからなくなりそうなほどに。
 タクシーを拾って行き先を告げようとした時、ふいに警官に遮られて、降りたところを囲まれた。その場で、暴行容疑を告げられ、将がそれを認めたため、即時拘束。
 警察に通報した被害者が、顔面を数度殴打され、全治二ヶ月に及ぶ重症を負ったと聞かされたのは、取調べの段階になってからだ。
 すぐに否定したが、それは、最初から、程度の勘違いとしか受け入れてもらえなかった。
(何をくだらない意地を張っているんだ、柏葉君、君のその意地のために、家族や友人たちが、どれだけ被害をこうむっているか、考えてみたことがあるのか、君は)
「………………」
(一人の芸能人として、社会人としての責務を全うしたまえ、罪を認めて謝罪するんだ、ひたすら謝罪だ、何を言われても謝罪だ、そして国民の皆さんに許してもらうんだ)
 自分でも、もう、何が正しくて、何が間違いなのか判らない。
 それでも、やってもいないことを「やりました」と認めるくらいなら、むしろ死んだ方がマシなような気もした。
 この先、一生、圧力と暴力に屈してしまった屈辱と喪失感を抱いたまま、生きていくくらいなら。
―――どうすりゃいいんだ、俺……。
 将はうつむいたまま、ぼんやりと自分の指を見つめていた。



              12


 貴沢秀俊、最年少紅白司会決定。
 貴沢秀俊(21)が、今年度の紅白歌合戦で白組の司会を務めることが濃厚になった。赤組の司会は大のJ&Mファンで知られる森歌子(66)。
 翌年度大河ドラマの主演が決定している貴沢秀俊にとっては、思わぬ躍進の年となった。
 デビューシングルで二十万枚突破という快挙を成し遂げながら、ストーム人気の影に押されるような形で所属事務所を移籍した貴沢。しかし、その後のJ&Mの失墜ぶりをみるに、その選択は正しかったようだ。
 ドラマ、映画、司会とマルチにこなす貴沢秀俊は、J&Mを移籍すると共に、「脱アイドル」宣言をした。貴沢は、役者としても評価が高く、


「俺の記事?」
「うわっ」
 憂也は驚いて顔をあげる。
 鏡に映っている人は、手にした雑誌とは似ても似つかぬ笑顔で、憂也を見下ろしていた。
「なんだよ、ノックくらいしろよ」
「懐かしくて、つい」
 貴沢は薄く笑って、憂也の隣に腰掛ける。
 国営放送局の出演者控室。
 憂也は年末向けのドラマの打ち合わせで、朝からずっとここに拘束されていた。
「ストーム、大変みたいだね」
「大したことじゃねぇよ」
 貴沢秀俊。
 移籍騒動以来、直に会うのは初めてだ。
 到着したばかりなのか、素顔の貴沢秀俊は、やや、荒れ気味の肌をしていた。
「お前も忙しいみたいじゃん」
「憂也ほどじゃないよ」
 あっそ。
 どうもかみ合わない会話。
 憂也は雑誌を投げて、傍にあったテレビのリモコンを掴む。
 そもそも最初から強烈にライバル視していた相手だし、向こうは向こうで、憂也など歯牙にもかけていなかった。
 同じ時期に入ったキッズだったものの、たちまち売れっ子になり、徹頭徹尾Jの別格だった貴沢とは、親しく話したことなど、ほとんどない。
「面会、いったの?」
 しかし、憂也の迷惑顔がまるで気にならないのか、貴沢は平然と話しかけてきた。
「事務所から禁止命令、マスコミがうようよしてっからさ」
「どうなるのかな、将君」
「……………」
「CМも放送中止、主演ドラマも映画も、全部流れたんでしょ」
 何が言いたいんだろう。
「株は大暴落、ニンセンドーが、買収に乗り出したって噂もあるけど、本当かな」
「しらねぇよ」
「すごいね、ストームは」
 貴沢は薄く笑って立ち上がった。
「あのJ&Mがつぶれようとしてるんだ、たかだかストームのせいで」
「………………」
「つか、J&Mにしても、ストームにしても、その程度だと思ったら、がっかりだけどね」
 危うく立ち上がりかけていた。
 憂也は、無関心の仮面で、貴沢の言葉を聞き流す。
「年末、J&M全員でカウコンするんでしょ、東京ドーム」
「……………」
 そういや、そんな噂を小泉から以前聞いた。
 その小泉は、今はマネージャー職を解かれ、経理課に配属されている。
「紅白とどっちが視聴率取れるのかな、楽しみだね」
 そっちが開催できれば、だけど。
 最後にそんな痛烈な皮肉を残し、貴沢の背中が遠ざかっていく。
 雑誌では、そんな貴沢とは別人のような「貴沢秀俊」が、はにかんだ笑顔で笑っていた。
―――マジで、食えねぇわ、あいつだけは。
 憂也は嘆息して天井を見上げた。
 天性のアイドル。
 そうとしか言いようがない。
 演技にしろ、司会にしろ、ある意味、才能の塊のような貴沢は、脱アイドル宣言をして正解だったのだろう。これから貴沢は、おそらく日本を代表するタレント、そして俳優に成長していくに違いない。
 が、どことなく、憂也からみると物足りない。アイドルだった頃の最強の貴沢に比べたら、妙に寂しいというか、影の弱さみたいなものを感じてしまう。
「憂也君、ちょっと」
 またもやノックもなしに扉が開く。
 険しい顔で入ってきたのは、マネージャーの水嶋大地だった。今日もアルマーニでびしっと決めている、スタッフの間でついたあだ名は、アルマーニ水嶋。
 何か言おうとした憂也を遮るように、水嶋はいきなり口を開いた。
「昨日か一昨日くらいの話しだが、エイトさんの取材、受けてないか」
「え、受けてないっすけど」
 エイトといえば、女性エイト、講壇社が出版する老舗の女性週刊誌で、業界最多数の発刊を誇る人気雑誌である。
「そうか」
 もともと表情の乏しい水嶋の顔が、目に見えて安堵している。
「……何かあったんすか」
 嫌な予感がする。
「それが……、東條君と成瀬君が」
 2人の名前を聞いた途端、憂也はかすかな眩暈を感じていた。
―――あの、
「どうも、単独でインタビューに答えてしまったみたいなんだ、うちで確認する前に、内容が一部、今日のスポーツ誌にすっぱ抜かれてるみたいでね」
―――あの、馬鹿野郎!
「どんな内容なんですか」
 内心の感情を押し隠して、憂也は聞く。
「柏葉君を擁護している内容らしい、新聞の論調では、身内に甘い、常識がない、と散々だったよ、その件で、またもやうちに、スポンサーやらメディアやらの問い合わせが殺到だ。ったく何をやらかしてくれるんだか」
「……………」
「憂也が関係してないなら、それでいい、安心したよ」
 ストームというより、憂也一人を個人的に売り出そうとしているマネージャーは、そう言って憂也の肩を軽く叩いた。
 再び、一人になり、憂也は額に手をあてて、息を吐く。
 冷静になれ。
 今、俺が冷静にならないと、ストームは本当になくなっちまう。



              13


 
僕らを、一緒にコンサートに出させてください。
 あきれた懇願、メンバーの不祥事に反省の色なし。


 
それにしても、今回の件で、J&Mサイドは本当に反省しているのか。
 東條聡(21)と成瀬雅之(21)の発言に批難の声が集まっている。
 業界全体で、数億単位の損害を出したと言われる柏葉将の暴力事件。仕事に開いた穴、ファンの怒り、失望、損失はいくら謝罪しても追いつかない。
 アイドルが起こした暴力事件に、世間の論調は冷たく、批判的だ。
 一部犯行を認めながら、被害者に謝罪さえしない柏葉将には、人気や家柄を鼻にかけた傲慢ささえ見受けられる。
 今まで、いくたのスキャンダルを、言論規制という形で抑えてきたJ&Mにも問題がある。身内を甘やかし、増徴させた結果、緋川拓海、柏葉将のような、暴挙を起こすタレントが生まれたといっていい。




「記事の波紋は予想外に大きく」
 新しく選任された取締役の声を、唐沢直人は無言のまま聞いていた。
「ミラクルマンセイバーのスポンサーが、番組枠から降りることが、どうも正式に決まったようです」
 馬鹿な奴らだ。
 正義のヒーローが、一体何をやってるんだ。
 正義とはヒーローが決めるものではない、所詮、大衆が決めるものだというのに。
「まだ、撮影が始まったばかりの映画版は、主演の差し替え、テレビ版は、最終話まであと五話ですが、放送中止が検討されています」
 最悪だな。
 というより、これで。
 ストームは終わった。
 よりにもよって、同じメンバーが最後のとどめを刺したわけだ。
「では、決議を取ることで、よろしいですか、社長」
 すでに、唐沢一人の意思で、この会社は動かせない。
 唐沢は無言で頷く。
「柏葉将が、釈放されるか、再勾留されるかが、明日決定されます。万が一、再勾留されることになれば、警察の常識からいって、起訴される確率が高いでしょう」 
 せめて、うちの者を面会に行かせることができたなら。
 しかしそれは、柏葉家サイドから、固く禁じられている。
「柏葉が再勾留された場合、彼を当社から解雇します」
 この最後通告でさえ、弁護士を通じて伝えることになる。
「ご賛同の方、ご起立ください」
 複数の椅子が一斉に動く音を聞きながら、唐沢はただ、黙っていた。

















 
 ※この物語は全てフィクションです。



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