6



「この度は、息子が、大変ご迷惑をおかけしました」
 唐沢直人は、唇に指を当てたまま、その映像を見守っていた。
 アジア太平洋州局長、柏葉征二
 下に、そんな字幕が浮かびだす。
 場所は霞ヶ関の官庁なのか、周辺は芸能記者会見とは思えない、どこか重苦しい雰囲気だった。
「息子が起こした不祥事の責任は、全て私にあります、えー、現在」
 淡々と語る声に、さほど感情がこもっているとは思えない。
 美貌の柏葉の父とは思えないほど、地味で、いかにも官僚然とした顔立ちだった。
 柔和な丸顔で、眉も、やや薄い髪も、上品な灰色だ。目元と唇に、容易には本心を見せない意思の固さが垣間見える。
 フラッシュにも、質問にも、物怖じしないどころか顔色ひとつ変えていない。
 この男は、外交といういくたの場面で、今より過酷な状況を乗り切ってきたのだろう。
「弁護士さんを通じまして、息子に、一刻も早く被害者の方に謝罪するよう、伝えているところです。被害者の方に、精神的肉体的な苦痛を与えてしまったこと、そして世間をお騒がせしましたことを、息子に代わって深く謝罪いたします」
 そして男は頭を下げる。
 その瞬間を待っていたかのように、画面はフラッシュで真っ白に瞬く。
「ご子息は、否認されているとのことですが」
 その質問にも、男は落ち着いて頷いた。
「被害者の方の言われていることと、息子の言い分に、若干食い違いがあるようです。精神的なショックで、多少記憶も錯乱しているのかもしれませんが、いずれ解決すると思います」
「動けない被害者から、カメラのフィルムを、無理やり奪い取ったという話も聞こえています、だとすれば、強盗傷害罪の適用も考えられますね」
「罪は罪として、受け入れないといけないと思っています」
「息子さんは、芸能活動の方はどうされるのでしょうか」
「それは、息子が決めることですが、世間をお騒がせしたことや、事件の重大性を自身で理解すれば、おのずと進退の見極めはつくでしょう」
「柏葉さんご自身の進退はどうなのでしょうか」
「私の進退は、上司に一任しております」
 再度、被疑者の父は謝罪をし、そして短い会見は打ち切りとなった。
「社長」
 背後から、おずおずとした声がする。
「外務省からお電話が入っています」
「わかった、繋いでくれ」
 今朝、政府高官筋から入った電話と、似たりよったりの内容だろう。
 柏葉を一切擁護するな。
 世論を見極め、父親の立場が悪くなるようなコメントは一切発表するな。
 そんなところだろう。
「ストームのマネージャー陣を集めてくれ、大至急だ」
 退室間際の秘書にそう声をかけ、唐沢はテレビを切った。
 立ち上がった途端、眩暈がした。
 睡眠不足と蓄積された疲労は、とうに限界を超えている。しかし今、そんな弱音を吐いている場合ではない。
―――柏葉は、家族からも切り捨てられたか。
 そして今、唐沢自身も、その柏葉を切り捨てようとしている。
 


                7


「俺は反対だね」
 憂也の返答は即座だった。
 雅之は、ため息をついて立ち上がる。
「悪いけど、俺、憂也の許可求めてるわけじゃねーから」
「じゃあ、なんで俺に聞くよ」
「……………」
 冷ややかな友人の眼差しを避けるように、雅之はきびすを返して、壁際のベンチに腰を下ろした。
「じゃ、聞かねーよ」
 憂也は変わった。
 悲しいというか、ただ虚しい。何が原因で、何がいけなかったのか、雅之には判らない。ただ、もう、昔の憂也はどこにもいない。それだけは確かな気がした。
「事務所からも、勝手に取材に応じるなっていわれてっじゃん」
 台本を読んでいる憂也は、その雅之を振り返りもせずに言う。
「よせよ、マスコミのいい餌食になるだけだ、何言ってもきちんと取り上げられる保証なんてねぇんだし」
「じゃ、将君切り捨てろって、憂也もそれか」
 冷静に言っているつもりで、雅之の手は震えていた。
「見たかよ、将君の親父の会見、息子が否認してんのに、どうして親父が勝手に認めて謝ってんだよ」
 今日、これから7月31日に行なわれる臨時公演の打ち合わせが、この会議室で行なわれる。
 それに先駆けて、雅之は担当マネージャーの逢坂から「これから先、何があっても、将君のことでコメントしないように」と釘を指されたばかりだった。
 おそらく憂也も聡も、同じことを言われたに違いない。
 家族からも、事務所からも、今、将は見捨てられようとしている。
 もうこれ以上、黙ってはいられない。
「コンサート、将君抜きでやるんだぜ」
「知ってるよ、仕方ねぇだろ」
「実質、ラスト公演になるって、逢坂君に言われたよ、その意味憂也だって判るだろ?」
 それでも、判り合いたい。
 判って欲しい。
 自然、雅之の口調が熱を帯びる。
「最後なら、将君とやりてぇよ、俺!」
「……………」
 憂也の背中は動かない。
「誰も何も言ってくれねぇから、俺が、言ってやるだけじゃねぇか、将君許してやってくれって、色んなこと重なって疲れてただけだって、コンサート一緒にやらせてくれって!」
「………………」
「それが、……そんなにいけないことなのかよ、憂也!」
「憂也」
 返事のない憂也に代わり、そう言ったのは聡だった。
「それくらいなら、俺もいいとは思うけどな」
 最近ずっと、何を考えているか判らない聡だけに、雅之はその言葉にほっとする。
「ライターさんも、昔から知ってる人だし、……信用して、話してもいいと思うよ、俺も」
「あのさ、言ってどうするよ」
 憂也が、疲れたように立ち上がった。
「その記事が載ったとして、誰が俺らに賛同するよ、交通事故起こしたタレントだって、半年の謹慎が最低限の世界でさ、将君は、それよりひどいことやらかしたんだぜ」
 ばさっと台本を卓上に投げる。
 それは来月公演初日の、憂也の主演舞台の台本だった。
「俺がお前らに聞きたいよ、そんな将君が、どうやったら、一ヶ月でステージなんかに立てんだよ」
「そっか」
 反論しようとした雅之にかわり、呟いたのは聡だった。
「憂也には、守るものがあるんだよね」
「……?」
 憂也の目が、いぶかしげにすがまる。
「将君のことで、……仕事に支障がでたら、まずいってことなんだろ」
 控えめだが、それだけに痛烈な皮肉だった。
 雅之は、少し驚いて、どこか精細を欠いたままの聡の横顔を見る。
「……つか、ずるいよね、みんな」
 聡がおかしい。
 りょうと言い合ってから、ずっと元気がなかった聡のことを、雅之はようやく思い出していた。
「俺がさ……一生懸命我慢してんのに、みんな、やりたい放題じゃん、言いたいこと言ってさ、やりたいようにやってさ」
「……………」
「俺はさ……みんなに迷惑かけちゃいけねーからさ、ずっと、我慢してたのにさ」
 ミカリさんのことだ。
 雅之は言葉につまり、視線を下げる。
 迂闊なくらい、阿蘇ミカリが失踪したことを、雅之は知らないままだった。普段通りの聡が、その影で苦しんでいたことも。
「そういう言い方は、汚ねぇよ、聡」
 憂也は、しかし、顔色ひとつ変えてはいなかった。
「自分の甘さを、他のことですり替えんなよ。ミカリさん探さないのも、諦めたのも、全部お前が決めたことじゃねぇか」
「憂也、」
 たまらず、雅之は口を挟む。
「みんなのためね、そう言って、俺たちに責任おしつけて、自分が被害者でいたきゃ、いつまでもそうしてろよ」
「憂也!」
 雅之が叫ぶのと、聡が立ち上がるのが同時だった。
 憂也は無言で、机の上の台本を持ち上げる。
「守りたいものがある?当たり前のこといちいち言うなよ。これは仕事で、俺たちはそれで食ってんだ、周りに迷惑かけないのは当たり前だし、大前提だよ」
「自分が、甘いこと言ってんのは判ってるよ」
 背後の聡の前に立ちふさがるようにして、雅之は憂也を睨みつけた。
「でも、俺らは、じゃあなんなんだよ、ただのタレントか、ただの金儲けのためのアイドルか、俺らはストームで、ずっと5人で差さえあって、ここまでやってきたんじゃねぇか!」
「そのストーム、壊したのはじゃあ誰だよ!」
 まただ。
 何を言っても憂也には届かない。この感じ。
 雅之は、怒りを通り越し、胸に虚しさがこみあげてくるのを感じていた。
「言っとくけど、将君はもう終りだよ、一年か二年休養して、それでも戻ってこれるかどうかだ。いつもえらそうなこと言ってる奴が、実は一番ガキだったなんて、笑い話にもなりゃしねぇ」
 どうやったら。
 そんな言い方ができんだよ、憂也。
 どうやったら。
 今までずっと、支えてくれてきた友達のことを、そんな風に言えるんだよ。
「俺は立ち止まる気はないし、将君庇って騒ぎに巻き込まれるつもりもない。切り棄てても上に行くし、それを悪いとも思わない」
 鞄から財布を取り出し、憂也はそのままきびすを返した。
 その横顔が、ふと泣いているように見えた。雅之は目をすがめたが、扉の前で振り返った憂也の目は、普段どおり落ち着いていた。
「……それが将君のためだと思うからさ」
 扉が閉まる。
 雅之も聡も何も言わないまま、遠ざかる足音を聞いていた。



               8


「……チケットの買占めはどうなっている」
「順調ですね」
 藤堂戒は、顔もあげずにそう答えた。
 背後の人が、椅子を軋ませて座る気配がする。
 真新しい室内やオフィス用品から、鼻につく薬品の匂いが漂ってくる。
「オークションに流出したものは、全て買い取れると思います。こちらは金に糸目をつけないのでね、簡単なことですよ」
 7月31日、埼玉スーパーアリーナ。
 ストームの、中止が決定した夏のコンサートツアー。その、たった一回の臨時公演。
「どのくらいになる」
「五十席は確保できそうです、アリーナ席で十万を超えましたよ、元の値段が6500円、バカみたいな値段ですけどね」
「……まぁ、十分だろうな」
 背後の男、耳塚恭一郎が呟く。
 十分。
 まぁ、五十席もあれば、十分だろう、ただでさえ危うい状況で開催されるコンサートを妨害するには。
「それにしても、そこまでやりますかね、普通」
 藤堂はそう言って顔をあげた。
「もうストームは死に体も同然ですよ、柏葉の復帰はほぼ絶望、残る4人にしても、ソロの仕事をこなしていくしか、もう活路はないでしょうに」
 その仕事にしろ、順調に入っているのは綺堂くらい。
 成瀬はスキャンダルで潰れ、東條の人気は一気に失速。片瀬にいたっては、いまだテレビに復帰する目処さえたっていない有様だ。
「私は、自分のなすべきことを、ただやっているにすぎないよ」
 耳塚は、淡々とした口調で答えた。
 藤堂は振り返って凝り固まった肩をまわす。
「反論する気はありませんが、それが、ストームつぶしですか」
「今やストームは、社会的な関心の只中にある。柏葉将の父親が国を代表する外務官僚だったのが幸いしたのか、彼の去就は、全国民の注目の的だ」
 杖を引きずり、手元に寄せると、耳塚はその杖に両手を掛けた。
「世論は、何を動かすと思う、重要なものは二つある、言ってみろ」
「……政治ですか」
「それもあるが、もっと重要なものだ」
「わかりませんね」
「お前という男も、まだまだだな」
 耳塚の頬に、あるかなきかの微笑が浮かぶ。
 この、蝋人形のような男が、藤堂にとっては、ずっと父親代わりだった。
 今や還暦もとうにすぎ、普通であれば、孫の1人や2人いてもおかしくない。
 しかし普通でない経歴を持つこの男は、生涯妻も取らず、実の子も作らなかった。歌舞伎町の路上で、殺されかけていた子供を気まぐれで拾うまでは。
 藤堂にとって、耳塚は決して父親ではない。そういった愛情は、微塵も受けていないし、求めてもいない。
 そして耳塚にとっても、おそらく藤堂は子供ではない。藤堂に言わせれば、映し鏡のようなもの。
「世論とは大衆を動かすものだ」
 大衆……。
 耳塚の言葉に、藤堂は眉を寄せる。
「……しかし、その世論とは、そもそも大衆が作るものでしょうに」
「違うな、世論は大衆が作るものではない。一部のエリート、つまりマスメディアが作るものだ、そして、戦時下では権力者が。それが時代の普遍の真理だ」
「それだけだとは思えませんね」
 藤堂の反論を、耳塚は鼻で笑って立ち上がった。
「一度肥大化した世論は、もうマスコミにも手が負えない、実態のない怪物のようなものだよ、戒。暴走を始めたら最後、もはや誰にも止められない、そういう意味ではお前の言うとおりだ」
「………………」
「イラク戦争は何故起きた?9.11の恨みが、アメリカ国民を思考停止させ、その機に応じて戦争を始めたい連中が煽り立てた。何故そこで考えない?戦争反対?今更言えることなら、どうしてその場で立ち止まって口にできない?」
「口にした人もいたと思いますがね」
「その結果どうなったろう、形成された世論の前に、小さな声はあまりにも無力だ。反戦者は、まるで非国民のような扱いを受けたのではなかったかね」
「……………」
「いつの時代でも、為政者は、世論操作に最大の情熱を注いでいる。大衆を動かしうるもの、それが世界を制するからだ。しかしそれは、いつの時代でも上手くいかない。世論とは、怪物なのだ、制御できないゆえに恐ろしいモンスター、それが世論だ」
「わかりませんね」
 藤堂は、息を吐いて立ち上がった。
 少しばかり疲れていた。仕事量は、以前の半分以下だが、妙に体の疲れが取れない。
 借りたばかりの真新しいこの事務所で、来月の初め、新会社を発足させる。
 全ては順調で、準備は着々と進んでいる。
「僕もあなたと同じで、自分の役割を果たしているだけです、それとストームのコンサートを潰すことと、どう関係があるんですか」
「暴力は、人の思考を停止させる。そこにどんな事情が介していようとも、暴力行為そのものが肯定されることはありえない。だからと言ってやっていいことではない、そうだろう?全てにおいての免罪符となる」
「9.11の話ですか」
「柏葉君の話じゃないか」
「………………」
「間違えるな、ストームを潰すのも、柏葉将を潰すのも、我々ではない、当たり前だが、そんな力は我々にはない」
「………………」
「彼らを潰すのは、世論なのだよ、戒」
 そう言うと、耳塚は、満足そうに立ち上がった。
「そして世論は、また、株価さえも操作してくれる。私にとって重要なのはそれだけだがね」



               9



「じゃあ、今日の打ち合わせは、こんな所で」
 返ってくる反応はない。
 前原大成は、ため息をついて立ち上がった。
 ぞろぞろとスタッフが退席していく。
 このメンバーで集まったのは、春のツアー以来だが、こんなに陰鬱なムードに収支した打ち合わせは初めてだった。
「すいません、りょう、来週には合流できると思うんですが」
 退室間際、ストームのメンバーでは、唯一よく発言していた綺堂が駆け寄ってきた。
「最悪、りょうのパート、俺の方でフォローしましょうか」
「いや、いいよ、振り付けの方で、なんとか工夫してもらうから」
 前原はちらっと、無言のまま席を立とうとしている二人を見る。
 成瀬雅之と、東條聡。
 こちらを見ようともしない二人は、そのまま、荷物を持って背後の扉から外に出て行った。
―――壊れたな、ストームは。
 残念だが、そう確信せざるを得ない。
 仕事がら、決して仲のいいとは言えないユニットのコンサートもてがけてきた。前原の経験から言うと、決裂の一歩手前。そんな匂いが、今のストームからは漂っている。
「構成の資料は、今日にでもイタジ君から送ってもらうようにしてるから、稽古は明日からだろ、大変だね、三人で」
「ええ、まぁ」
 三人――というより、実質、綺堂一人のようなものだろうが。
 今日、殆ど死んだも同然の目で、ただ話だけを聞いている二人に、事情が判っていなかったら、前原は怒鳴りつけて席を立っていたところだった。
 埼玉アリーナ、たった一日だけ行なわれるコンサートの打ち合わせ。
 日本中が注目している「贖罪」コンサート。柏葉もその頃には釈放され、起訴か不起訴かも確定している。当日は、おそらく多勢のマスコミが押し寄せるだろう。
 しかし。
 J&Мから事前に聞かされている基本方針を思い出し、前原はかすかなため息をついた。
「……こんなので、いいコンサートなんてできるのかな」
 ふと漏らした呟きに、綺堂憂也が整った眉を上げるのが判った。
「ま、ぶっちゃけ今回は、ストームのコンサートじゃないのかなって気はしてますけど」
「そうか」
「贖罪なんて、俺ららしくねーっていうか、そんなしんみりした後ろ暗い祭なんて、観ててこう、もり上がれないでしょ」
「まぁ、それはあるね」
 なんとなく二人、肩を並べて廊下に出ていた。
 六本木、J&M仮設事務所。
 隣接する会議室では、なにわJamsのデビューに向けたプロジェクトチームが、朝からずっと会議を続けている。
 柏葉将の逮捕を受け、形ばかり延期されたデビューは、七月二十日にすでに内定していた。
 無論、贖罪の意図があっての延期ではない。これもまた、戦略のひとつだと前原は心得ている。
 所属タレントの事件でさえ、次の新星の輝きに利用しなければいけない、残酷なようだが、これも芸能界で生残るための手段なのだろう。
「僕も今回は気が乗らない……こんな大きなキャパを仕切らせてもらえるなんて、夢みたいな話なんだけどね」
 タレントの前では決して漏らしてはいけない本音を、つい前原はこぼしていた。
 J&М側が、急きょ組んだスケジュール。
 本来、今回のツアー企画からははずれていた前原が呼ばれたのも、また急なことだった。
 時期が時期だけに、躊躇しなかったと言えば嘘になる。
 が、ストームをデビュー前から見守り、愛してきた前原には、これが最後なら自分が、という気負いがあった。
 だからこそ、その最後で、ストームらしい明るくて、どこかバカバカしい演出が禁止されているというのは、なんとも言えず、悔しくて虚しい。
「ストームのコンサートは、こう……楽しいっていうか、エンターテイメントの極致みたいなとこが売りだと思うんだけど」
「わかります、今回はそうもいかないからね」
 頭の後ろに腕を回しながら、憂也。
「だっていえねーでしょ、メンバー1人に前科つくかつかないかって時に、いえーい、もりあがろうぜーっなんてさ」
「ははは」
 綺堂だけが普段通りだ。
 前原は、少し安心する。
「……ま、今回は仕方ねーのかな」
「そうだね」
「それに、最後にするつもりなんてないしね、俺」
「……………」
 思わず見下ろした綺麗な横顔からは、何かの感情を見出すことは難しかった。
「じゃ、俺次の仕事はいってっから」
「おう、頑張れよ」
 軽く手を上げて、綺堂が駆けていく先には、新任マネージャーの姿が見える。
「……………」
 前原は、軽く嘆息して歩き出した。
 柏葉将は、もうストームには戻れないだろう。戻れないというより、戻らないに違いない。戻ってしまえば、ストームが柏葉の道連れになって仕事から干されてしまうからだ。
 綺堂が、今、小さな新星として、1人で輝こうとしている。
 そんな綺堂にマイナスイメージをつけることを、事務所も絶対に許さないだろう。
 柏葉が欠けたストームか。
 それはもう、ストームであってストームではない気がする。
 午後にみたネットニュースで、早稲田大学が、柏葉の退学処分を検討しているという記事を読んだばかりだった。
 釈放されれば、もしかすると柏葉は、日本を出てしまうかもしれないな、と、ふと思う。
 あれだけ顔が売れたスターが、国内で、これからどうやって平凡な人生など歩めるだろう。
―――どうなるんだろうな、これから。
 前原は暗い気分のまま、うつむいて歩き出した。



                  10


「……真白…」
 助手席の母親が振り返る。
 真白は、数珠を握り締めたまま、首を横に振った。
「じゃあ、ここで待っていなさい」
 ため息と共に父。
 暗めのスーツに身を包んだ2人が、車を降りる。
 店の仕入れ用に使っているバン。
 広い後部座席に、真白は一人、取り残された。
 路上端の空地に止めた車。ほんの数メートル先に、大きな純和風の邸宅がある。
 ブロック板で囲まれた広大な敷地、年代がかったいかめしい門扉。木々に覆われた邸内の様子はこの位置からはうかがい知れない。
 澪の実家。
 一区画離れた場所にあるそこに、真白が訪れたのは今日が初めてだった。
 喪中。
 そんな張り紙が、遠目にも見える。
 かえって迷惑になるのでは、と母は気乗りではないようだったが、父は、どうしても焼香だけはあげに行くと言ってきかなかった。
 7月初旬。
 町は静けさを取り戻し、真白の周辺からも、中傷、誹謗や、記者めいた人たちの姿が消えた。
 これもまた、残酷なことだけど、東京で起きている事件の方が、芸能ニュースとしては美味しいからだろう。
 柏葉将逮捕のニュースは、真白にとっても、心臓が止まるほどの衝撃だった。
―――柏葉君……大丈夫なんだろうか。
―――澪、すごくショックなんじゃないだろうか。
 そう思うと、辛くて苦しくて、息さえもできなくなる。
 今は、もう、何も考えたくない。
 澪と、ストームと過ごした日々の記憶は、自分の人生から切り離して、もう二度と思い出したくない。
 ふいに、背後から車が近づいてくる気配がした。
 真白は、身を縮めたまま、窓の傍から顔を離す。
 真白が乗ってるバンを通り過ぎ、白のクーペが片瀬家の前に止まった。
 運転席が開き、すぐに、見覚えのある人が降りてくる。
 シャツにズボン姿、暑そうにネクタイを緩めた人は、そのまま背後席の扉を開けた。
 東京で何度か見た顔のその男が、扉の中に向かって声をかけているようだった。
―――あ、
 最初に出てきたのは、ジーンズに包まれた足だった。
 真白は喉で声をたて、目を見開いた。
 心臓が、その刹那音を立てて、壊れてしまった気がした。
―――澪……?
 長く伸びた髪が、澪の横顔を覆っていた。
 頼りない足取りで車を降りた澪は、そのまま、扉を開けた男に抱き支えられる。
 ストームのマネージャー、澪がいつも、「イタさん」と呼んでいる男だ。そのイタさんに、何か言葉をかけられているようだが、澪はまるで無反応、ただ空虚な目であらぬ方向を見つめている。
 痛々しいほど痩せた腰まわり、伸びっぱなしになっている髪。
 イタジに支えられ、まるで引きずられるようにして歩き出す。
 削げた頬、乾いて潤いのない、青白くそそけだった肌。
―――歩けない……の?
 衝撃で、真白は、全身が固まっていた。
 どうしたの?
 なんで、そんなになっちゃったの?
 肩を支えられた澪の背中が、門扉の中に消えていく。
「りょ、」
 飛び出しかけていた。
 そして、はたと手を止める。
 出て、どうなるだろう。
 声をかけてどうなるだろう。
 澪を。
「…………澪……」
 見開いた目から、涙が零れた。
 あれだけ輝いていた澪を。
「……ごめん、………」
 こんな風にしてしまったのは、自分なのに。
 全部、私のせいなのに。
 なのに、今更――。
「……助けて………」
 もう、いらない。
 何もいらない。
「神様、お願い、澪を助けて……!」
 こんな恋なんて、いらない。
 何もいらない。
「……お願い……」
 澪が、もう一度輝いて笑ってくれるなら。
 もう、なにもいらない―――。















 
 ※この物語は全てフィクションです。



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