臭いな。
 なんだろ、これ。すげー現実感がねぇんだけど。
「免許証、財布、現金二万七千円、カード…」
 係員が、机の上に並べられたものをみて、ひとつひとつ確認している。
「これ、サインして」
 将は無言で、差し出された紙きれに自身の名前を書いた。
「携帯がないけど、どうしてかな」
 将を取り囲む一人が、不審げな声で言った。
「持ってないの?」
「いえ、ポケットに入れていたんですが」
 自分の声が乾いている。
 持ち物全てを出せと言われた時に気がついた。携帯電話がなくなっている。
 腕を引いて立たたされた将の傍に、見上げるほど大柄な男が立ちふさがった。
 無遠慮に、腰、体を叩かれて探られる。
「ねぇなぁ……現場、もう一回見てみるか」
「じゃ、あっちで身体検査、服は全部脱いでもらうからな」
 別室に連れて行かれた将は、全裸で身体のいたる所をチェックされた。
 同じようなことは、逮捕直後にもされた。指の指紋をひとつひとつ撮られ、全身の傷跡を調べられた。ささいな傷跡、火傷の痕、そんなものまで、どこで、いつ、そうなったかを、しつこいほど繰り返し聴かれ、何枚も写真を撮られた。
 まるで前科者か、犯罪者と決め付けた処遇。人権侵害ともいえるこのデータは、今後、半永久に警察に残るに違いない。
―――俺が、何をしたっていうんだ。
「じゃ、今度はそっち向いて」
 あまりに屈辱的な姿勢。
 うつむいた将は、自分の拳が震えるのを感じていた。
 怒ってもどうにもならないことはわかっている。
 逮捕されてから48時間は、弁護士の接見さえ許されない。ただひたすら、自分を犯罪者と決めてかかる国家権力の恫喝に耐えなければならない。
 何を言っても無駄だった。取り調べ直後から否定していることも、まるで信じてもらえない。
 相手も仕事だ、それは判っている。
 しかし、自分がいた世界とは別世界に閉じ込められ、外部との一切の連絡手段を絶たれる。それがこんなにも、心もとなく不安なものだとは、想像してもいなかった。
「俺、いつまでここにいるんですか」
「悪いな、俺らは取り調べしてるヤツとは、担当が別だから」
 留置所の職員は、取調べの刑事よりは、顔つきも目つきも人間らしかった。しかし無論、将の味方でもなければ、話を聞く気もないらしい。
 戻ってきた衣服を再び身につける。靴と、靴下、ベルトだけは戻らなかった。
 出されたサンダルは、垢脂のようなもので薄汚れ、マジックで番号が書かれている。
「……………」
 裸足の方がまだマシだ。
 そう思ったが、言われたとおり、足を通す。
 畳三畳ほどの官房は、鉄格子で覆われ、薄汚れた毛布が一枚転がっているだけだった。トイレは半分外から見える仕組みで、官房を見渡す場所には、係員が控えている。
 なんだよ、これ。
 将は呆然と、黴と汗と、泥の匂いが充満した室内を見回す。
「よかったな」
 鍵を回しながら、将をここまで連れてきてくれた男が口を開いた。
 ひどいだみ声だ。口が煙草臭かった。
「夕方まで、ここには精神障害の被疑者がいたんだ、一晩中うるさくて、眠れないところだった」
 檻が、完全に閉じられる。
 鍵を締め終えた男は、しかしそのまま立ち去ろうとはしなかった。
 将は初めて、真正面からその男を見上げた。
 藍の制服に身を包んだ男は、五十半ばかそれくらいで、肉厚な体と、将より高い背丈を持っていた。日に焼けた赤ら顔、五部刈りの短い頭髪。将を、どこか値踏みするような目で見つめている。
「……珍しい仕事してんだったな、で、親父は国会議員か」
「公務員ですけど」
「似たようなもんだろ」
 将は答えず、ただ視線を他所に向けた。
 悠介と行ったクラブや夜の街で、こういった目をした男によくからまれた。偏見と、そして好奇と侮蔑に満ちた眼差し。
 同性という種が、いかに「アイドル」をバカにしているか、将はよく知っている。
「罪状の一部、否認しているそうじゃねぇか」
「………………」
「おうおう、よせよせ、無駄な意地を張るのはよ、お前みたいなアマちゃんはな、明日にも泣いて落ちるのがせきの山だ」
 黄色い歯茎をむき出しにした男は、そう言って笑うと、警棒のようなもので、鉄格子を叩いた。
 隣り合わせの官房には、他にも拘留中の被疑者がいるようだが、みな、静まり返っている。
「明日までに認めなければよ、10日だ、最悪10日はここから出られなくなるんだぜ、坊や」
 10日。
 10日、か。
 将は、目の前が暗くなるのを感じた。
「俺、仕事があるんですけど」
 咄嗟に言っている、しかし、それは、当たり前にように鼻で笑われただけだった。
「仕事ね、ここに来ちまった者は、みんな同じだ」
「…………」
「戻りたくても戻れない、半数以上は首になっちまう、もともと社会にゃ用無しのやからだから、切られる時もあっさりだ」
 みんなはそうでも、俺の場合は――無論、そんな言い訳が通るとは思っていない。
 それでも将は、叫びだしてしまいたかった。
 今ここで、俺が仕事に穴を開けたら、ストームは。
 ストームは、本当に終わってしまう。
「やりましたって言やいいんだよ」
「…………」
「それだけじゃねぇか、素直に謝れば、せいぜい罰金刑で済む程度の罪なんだよ」
 誘導か。
 一瞬気を緩めかけた将は、たちまち頑なな殻で自身を覆い、目をそらした。
「……やったことは、素直に言いましたし、やってないことは、認めようがないですから」
 出るために、嘘をつけってのか。
 冗談じゃない。
 そのまま背を向けると、男もそれ以上話しかける気はないのか、鼻歌まじりに官房を離れていった。
 陰鬱な静けさの中、将は、初めて一人きりになった。
 汗臭い毛布は、触る気にもなれない。
 将は壁に背を預け、自身の膝を抱いてうずくまった。
 憤りとやるせなさと絶望で、気持ちが壊れてしまいそうになる。
 そしてようやく、ずっと否定し続けていたことを、虚ろな気持ちで理解した。
―――俺……逮捕されたんだ。
 現場で、手錠をかけられ、腰縄をまかれた時も、どこか非現実的で、どうしても実感できなかった。
 逮捕された。
 刑事事件の被疑者になった。
 信じられない。
 まだ、何があったのか、自分でもよく理解できない。
 ただ、ひとつ確かなのは、あの刹那、抑制の箍を外した自分が、アイドルとして――というより、社会人として、決して犯してはいけない愚行を犯してしまったということだけだった。
―――ストーム、どうなるんだろう。
 それを思うと、不安で、胸がつぶれそうになる。
 ストームは、聡は、憂也は、雅之は、親父は、萌々は、お袋は。
 それから――りょうは。
 外では、今頃、大騒ぎになっているだろうか。
 夏のコンサートツアーの打ち合わせが来週から始まる。将の仕事は今夜も深夜まで埋まっている。
「くそっ」
 連絡したくても、誰にもとれない。
 壁を叩く、鈍い痛みだけが返ってくる。
「くそっ、くそっ」
「うるせぇぞ!」
 怒声がどこかから返ってきた。
 こんな時に、何やってんだ俺。
 何やってんだよ、俺―――。




「あれ?」
 足を止めた友人が、側溝の中をいぶかしげに見つめている。
「何か光らなかった?」
「え?」
 友人の目が向けられている道路脇の排水溝。側溝蓋がはずれ、そこだけ一部、中がむき出しになっていた。
 夕方まで降っていた雨のせいか、半ばまで水がたまり、それがゆるゆると流れている。
 繁華街。
 商業ビルに囲まれた路地裏。風俗界隈、メイン通りにいかがわしい店が多いため、2人はいつもここを抜け道にして、バイト先の飲食店に通っていた。
「携帯が落ちてる」
「え、マジ」
 光は、その水流の中から見えていたもので、緑色の小さな光が、ほとんどあるかなきかの点滅を繰り返している。
「……鳴ってるの?」
「つか、携帯って、水につかったらアウトなんじゃないっけ」
 バイト先に急ぐ大学の友人と2人、足を止めたまま、水の底の光を見続ける。
「拾う?」
「えー、汚そう、どうせ壊れてるよ、パスしよ、パス」
 最初に足を止めたくせに、友人はそう言うとおぞけを震うように立ち上がった。
「放っておいても、誰かが拾ってくれるよ」
「そうだね」
 確かに、汚水まじりの汚い側溝に、今から客仕事をする手をつける気にはならなかった。
「ここだってよ、ここ」
 背後で、興奮気味の、若い男の声がした。
「ここで喧嘩、警察来て大騒ぎになったんだってさ」
「マジでー?」
 ふりかえると、呼び込み風の男が2人、すぐ背後の道路わきに立っていた。
「それで、サイレンがうるさかったんだ」
「もう顔なんて血まみれでさー、腕もぶらぶらして、あれ、骨が折れてたんじゃねぇかな」
「ひっでー」
 思わず、友人と顔を見合わせている。
―――この携帯……じゃあ?
 何か事件と関係があるとか。それはそれで、やっかいなような気がする。
「拾う……?」
「えー、面倒だよ、バイトに遅れるよ?」
「うーん」
「それにさ、もし話が親にまでいって、あたしらがこんなとこでバイトしてんのバレたら、超まずいじゃん」
「……だね、確かに」
 ためらいつつも、再び、側溝の中に視線を向ける。
「行こ、放っておいても、誰かが拾ってくれるって」
「……うん」
 男2人は、まだ事件について、面白げに話している。
―――なんか、軽い罪悪感だけど。
 ためらったまま、歩き出す。
 最後に背後を振り返る。
 弱々しい光は、暗い水に溶け込むように、やがて静かに途切れて消えた。





「黙示録」



                  1



「どなた?」
 涼しそうな声がした。
 少しだけ開いた扉。
 錆びた鉄の向こうから、ひそやかな足音が近づいてくる。
 流川凪は息を吸って、それから吐いた。
 陰鬱な雨、古びた公団住宅の四階。
 雨が黒く沁みた階段を一気に昇りきった凪の額には、薄く汗が浮いていた。
 6月の終わり、梅雨前線は一向に動く気配のないまま、東京は一転した長梅雨が続いている。
「突然申し訳ありません、私、流川凪といいます」
 年の頃は30代後半。
 扉から顔をのぞかせた女は、やや険の強い目で凪を見下ろす。
 顎がくたびれた四角い顔、頬肉が弛んで引力に負けている。全て剃った眉が、薄い線で描かれているのが、昔の流行を連想させた。
「何の御用でしょう」
「私、あの」
 迷惑そうな相手の目に、用意してきた言葉が飛んでしまいそうになる。
 凪は再度、深呼吸をした。
「医学生で、千葉の病院で、ある患者さんの身の回りのお世話をさせていただいてるんですけど」
「それで?」
 素っ気無い女の手が、ドアノブを掴む。
 どうやら、話を聞かずに締めようとしているらしい。凪は慌てた。
「その方のことで、少しお話を聞きたくて、患者さん保坂愛季さんって言われる方なんですけど」
 無言で扉を締めようとしていた女の手が止まる。
「保坂、愛季さん……お知り合いですよね」
「……………」
 固まったまま、眉だけが寄っていく。
 覚えてるんだ。
 女の表情の変化に、凪は嬉しくなって、少し身を乗り出した。
「保坂愛季さん、以前、瀬川さんと同じ事務所だったとお伺いしました」
「………………」
 しぱらく無言だった女の唇が、愛季ちゃん、と小さく呟いた。
 しかしその表情は、凪が名を名乗った時よりいっそう、険しいものになっている。
「……入院してるの、彼女」
「はい」
「なんで、」
 と、言いかけた女の唇がそこで止まる。
 その、皺のにじむ口元を見ながら凪は、病室で眠る保坂愛季が、ここに立つ女よりいくつか年上だったことを思い出していた。
 そうしてみれば、病室の中で保たれているあの美貌は、まさに奇跡だ。
 さらりとした肌といい、どこか幼げな唇といい、まだ二十代にしか思えない。
「……もしかして、あれからずっと、入院してるの」
「………はい」
 あれから。
 女が言うそれが何を指すのか、正確には凪は知らないけれど。
「で?」
 今更私に何の用?
 女の目が、今度ははっきりと疑心を吐露している。
 元女優の影が、一瞬だが、その強い勝気な眼差しに浮かんだような気がした。
「当時の記事を読んだり、芸能記者の方にも話を伺ったりして、だいたいのことは判ったんですけど、……これだけは、自分で直接で確かめたくて」
 うつむいた凪は一瞬ためらってから、顔をあげた。
「保坂さん、本当に自殺だったんでしょうか」
 そんなこと?と、女の目がいぶかしげにすがまる。
「私、そこだけがどうしても納得できなくて、私が彼女の立場だったらどうだろうってずっと考えてたんですけど、どうしても、そんな選択をするとは思えなくて」
 好きな人が苦しむと判っているのに。
 そんな選択、絶対にしない。
 自分の存在が彼の邪魔になったから――仮にそんな罪悪感に駆られたとしても、するだろうか、あのタイミングで。
 凪の感覚では、自殺とは、言ってみれば遺された人に対する物言わぬ抗議だ。決して癒されない、抗弁さえできない罪悪感だけを現世に与え、自分ひとり去ってしまうことだ。
 私なら、しない。
 同情できなくもないけれど、したくない。というより、美波涼二が愛した女とは、そんな自己中心的で弱い女だったのだろうか。
「あなた、いくつ?」
「………十八です」
「あなたには、有り得ない選択でも、そういう風にしか出来ない生き方もあるのよ」
 年上の女の余裕と自信が、高みから凪を見下ろしている。
 凪は黙って、その眼差しと対峙した。
「あなた、看護婦さん?」
「……医学生です、お世話はバイトで」
「それはあなたの、個人的好奇心を満たすための調査なの?」
「彼女の自殺未遂で、あれから十年以上、ずっと苦しんでいる人がいるんです」
 多分。
 頼まれてもいないし、望まれてもいないおせっかい。
 そこは、凪のトーンも下がる。
 凪がここ数日、奔走していることを、当の本人、美波涼二が知れば、激怒するどころではないだろう。
「私、その人を……助けてあげたいと思っています」
 彼の心を縛る闇が解ければ。
 彼が、もう一度、J&Мに戻ってくれれば。
 壊れかけてしまったものが、もう一度元に戻るかもしれない。
 いや、戻るためには、絶対に美波涼二が必要なのだ。
 J&Мにとっても、ストームにとっても。
 その意味では、凪もまた必死だった。
「傲慢ね、誰かを助けたいなんて、恵まれた将来のあるお嬢様の、傲慢よ、そんなの」
 女の目は侮蔑を含んで冷ややかだった。
「……否定はしないです。でも、私には、これくらいしかできないから」
「私のことは、どうして知ったの?」
 凪は、情報のリソース先を説明した。
「……シンデレラ、アドベンチャーか」
 それを口にした途端、ふと、女の表情が柔和になる。
「若かったのよね、あの頃は、私も。そう、その出演者を、1人1人あたってるわけ」
「………すいません、迷惑な話だとはわかってるんですけど」
「そのビデオ、まだ持ってるの?」
「え、あ、ハイ」
「ダビングさせて」
 輝いた女の目に、ふいに若さが蘇ったような気がした。
 旧姓早川明日香。
 舞台シンデレラアドベンチャーでは、ヒロインに次ぐ重要な役どころを演じていた女で、当時所属していた事務所が保坂愛季と同じだった。
 今は、番組制作会社のスタッフの1人と結婚して、専業主婦になっている。
「それが条件、話してあげてもいいわよ、当時の愛季ちゃんのことなら」



                 2


「片瀬は無理です」
 片野坂イタジは、再度言って、先を行く唐沢直人に追いすがった。
「まだ、人前に立てる状態じゃない、しかもコンサートなんて無謀ですよ、なんとかなりませんか」
「…………」
 姿勢のいい背中が止まる。
 東京、六本木。
 J&М仮設事務所。
 社長室の手前で足を止めた唐沢は、どこか疲れた目で振り返った。
 窓の外は、陰鬱な雨が続いている。
 暗い影が、2人の男の間に横たわっているようだった。
「片瀬はなんと言っている」
「……片瀬は、」
 イタジは言葉を詰まらせる。
 そのまま何も言えないでいると、イタジよりはるか頭上で、唐沢が嘆息する気配がした。
「昨夜、俺のところに、片瀬から電話があった。こんな時だから頑張りたい、すぐにでも東京に戻らせてくれとな」
「……………」
 それは、片瀬が。
 イタジは、ただ、唇を噛む。
 あいつは、自分の状態が、まるで判っていない、何も見えていないからだ。
 実の所、東京へ戻る、戻らないの件では、何度も片瀬との間で言い争いになっている。
 父親との不仲も原因のひとつだろうが、しかしそれでも、柏葉事件で揺れている今の東京に戻るよりは、何倍もマシだとイタジは思っていた。
「いずれにしても、これは正式決定だ。コンサートツアーは中止だが、7月31日に、1日だけ臨時公演をやる、そこでストームにファンの前で謝罪させる」
「……謝罪のための、コンサートですか」
「それがけじめだ」
「柏葉抜き、ですか」
 そう聞くと、唐沢の頬に神経質な震えが走った。
「柏葉は、いまだ犯行の一部について、黙秘、否認をしているそうだ」
 それはイタジも知っている。
 その結果、決定された拘留期間は10日。
 すでに最初の逮捕から一週間が経過しようとしている。
「じゃあ、出られる目処は」
「被害者は全治二ヶ月の重症だ、しかも相手は、カメラのフィルムを柏葉に奪られたと言い張っている。初犯にしろ、事情があったにしろ、……最悪、強盗罪も視野にいれて、警察は取り調べをしているそうだ」
「…………」
「柏葉が否認を続ける限り、最悪、もう10日の再拘留も覚悟した方がいいのかもしれん」
 事件当夜、さながら戦場のような忙しさに見舞われた事務所は、今は、怖いほど静まり返っていた。
 数日間、情報収集と、マスコミ規制に奔走した唐沢は、傍から見ても危ういほど疲弊していたが、その唐沢やスタッフの願いもむなしく、柏葉将の事件は今、最悪の状態に移行しつつある。
「柏葉は、お前にも、何も話さないか」
「……………」
 事件後、面会に行って見た柏葉には、かつての輝きの片鱗さえ見られなかった。
 憔悴し、うつろな目は、イタジの問いかけにも満足に答えない。
 かび臭い面会室、その背後がすぐに、柏葉が留置されている留置所だった。
 暗い、汗と泥が入り混じった異臭が漂っている。排水はどうなっているのか、正直、耐えられない匂いもそこに混じっている。
 逮捕時と同じ服を着た柏葉は、髭もそれないのか、薄く不精髭が生えていた。彼の潔癖性を知っているイタジには、その痛々しい境遇に、言葉さえでてこなかった。
 顧問弁護士の榊に言われたとおり、着替えと電気髭剃、歯ブラシ、シャンプー、本、菓子の類を差し入れた。
 柏葉の弁護士は、ただし榊ではなく、柏葉家が選任した、榊曰く敏腕弁護士がつくらしい。
「……バカな男だ、頭だけはいいと思っていたが」
 唐沢は再度、嘆息する。
「無断で撮影されたフィルムを取り返したのなら、柏葉の権利も主張できるし、まだ世間への言い訳もたつ、なのに、何故認めない」
 それだけではない。
 イタジが知る限り柏葉将は、目撃証言がある暴力行為すら、一部を否認しているという。
 さらにいえば、当夜、なんのために現場に赴き、被害者と何の話しをしたのかも、一切語らず、沈黙しているという。
 否認するから、出られない。
 黙秘しているから、信用されない。
 そうして、世の中の騒ぎだけが、ますますヒートアップして過熱していく。
 事件が起きた現場も、アイドルとしては最悪のロケーションだった。
 風俗界隈。一筋抜ければ、ファッションヘルス等の店がにぎやかに溢れている。
 それに加え、柏葉が薬物を使用していたとか、同じメンバー内で暴力が恒常的に行なわれていたとか、有り得ない記事も飛び出している。
「柏葉家からは、何か情報が入ってきますか」
 イタジの問いに、唐沢は、苦い目で首を振った。
「うちが申し出た援助も一切断ってきた、あそこは最初から、息子の芸能界入りに反対していたからな」
「……………」
「柏葉に関しては、静観するしかない、……正直、手の打ち用がない」
「父親の方も、今、必死なんでしょうね」
 イタジにも、それしか言えなかった。
 今、日本で最大の関心事でもある北朝鮮外交。
 柏葉将の父親は、その矢面でもあるアジア太平洋州局長である。
 そして、内閣総辞職を受けて、今月の半ばに行なわれる総裁選。
 柏葉の父親は、新総理になることが確実視されている安部幹事長の懐刀とまで言われている男で、新内閣発足後は、事実上外務省のトップである政務次官の座が確実視されているという。
 政界再編の真っ只中にある父親の方が、むしろ息子より注目され、結果として、一アイドルの不祥事は、国家規模の騒ぎにまで発展した。
 次期首相候補が、この件に関して発言するまでになっては、もう唐沢にも、なすすべがないのだろう。
―――うちの事務所も、柏葉も、袋叩き状態だな。
 イタジは、陰鬱な思いで目を伏せる。
 何一つ情報規制ができないまま、ただ、ひたすら柏葉を、そして管理者でもあるJ&Мを非難する記事に、沈黙を守るしかない経営陣。
 大阪からも、東京からも、Kids――いわゆる、アイドル予備軍と呼ばれた研修生が、何人か辞めた。
 この騒ぎの中、スポンサーが、J&Мのタレントを使うことを敬遠しはじめ、オファーの数が、激減したとの噂もある。
「片瀬が、柏葉との面会を望んでいる」
「知っています、……ただ、それもまだ、難しいと思います」
 その要請は何度も受けたが、イタジとしては、首を縦に振ることは出来かねた。
 今、片瀬をダメにしているのは、堂々巡りの自己否定と、何もかも自分のせいだという病的なまでの自責の念だ。
「片瀬は、おそらく、柏葉の事件さえ、自分のせいで起きたと思っています」
「……………」
「今の柏葉と会えば、……ますます片瀬が追い詰められるような気がするんです」
「……………」
 2人の背後でエレベーターが止まり、スタッフが何人か降りてきた。
「いずれにしても、コンサートは、柏葉を切り離して考えるしかない」
 唐沢が歩き出そうとする。
 コンサート。
 これだけは、無理だ、イタジは慌ててその腕を掴んで止めていた。
「唐沢社長、はっきり言いますが、今の片瀬は病気です」
「……………」
「それも、相当重症の神経症です。眠れない、食べられない、感情の抑制もできない、人前にさえ出られないし、何か不用意に話かけられると全身が硬直する、そんな状態で、ステージに立てると思いますか」
「たった1日だ」
「しかし」
「じゃあ、どうしろと言うんだ、今のJの状況で、スポンサーの要請が断われるのか!」
 初めて唐沢が声を荒げた。
「コンサートツアーの中止、あらゆる出演予定番組のキャンセル、降板、億単位で損をこうむったのは、うちだけじゃない、スポンサー企業も一緒じゃないか!」
「………………」
「柏葉はもう終りだ、いずれ復帰させるにしても、1年や2年の休養で許される事件じゃない。柏葉家の意向もある、おそらく、このまま引退という流れになるだろう」
「ストームは」
「………………」
 イタジの問いに、唐沢はかすかに眉を寄せて、背を向けた。
「それは、あいつらが決めればいい」
「4人で続けるという、意味ですか」
「続けられるというのならな。いずれにしても、ストームに仕事はもう入らない、当分、どこからもオファーなど絶対にない」
「………………」
 これが、現実で、これが本当に結末か。
 まるで、底なしの闇に、1人取り残されたような気分で、イタジは、ただ呆然と自身の足元を見つめる。
 あれだけ頑張って、苦楽と涙と歓喜を共にしてきた連中が、こんなに、あっけなく。
 光の下から、表舞台から消えていこうとしている。
「そういう意味では、埼玉は、ストームとしての最後のコンサートだ」
「………………」
 唐沢の声が、少しだけ優しくなったような気がした。
「片瀬には、なるべく負担をかけない演出にしよう、……いいものにしてやってくれ」














 
 ※この物語は全てフィクションです。



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