1



「バイト?」
「そ、お前さえよければだけど」
 うん……とひと時考えた流川凪は、いぶかしげな目で目の前に立つ男を見上げた。
「なんで?」
「え?」
 と、何気に凪の隣に席を取りつつ、海堂碧人はしらじらしく眉をあげた。
「だってお袋が、医大生でいい子いないかっつーからさ」
 東京都内にある、私立東欧医科大学。
 もうすぐ、二限目の講義が始まる。一般教養科目の哲学。
 折りしも――入学前に知り合いになった一級上の先輩、海堂碧人もその科目を選択しているようだった。
 海道碧人。
 凪が家庭教師をしている女子高生、ミサの兄である。
 そして、個人的に少し知り合いになった前原大成――音響マネジメント会社の社長の息子。
  が、相変わらず、格好だけは際立って見事なイケメン医学生は、「俺の親父?医師免許はもう返上したんだけどさー、今は、おふくろの病院の理事やってる」と、言い張っているようだった。
「なんの資格もないけど、私」
 凪は、手渡された条件のメモを見ながらそう答えた。
 土日の午後だけか、……場所、少し遠いかも、寝たきり女性の介護……って、私でもいいんだろうか。時給――
「のった!」
「は、はえっ」
 時給2千円、これで乗らない手はない。
「へんな仕事じゃないですよね」
 が、一応念だけ押してみた。
 この碧人、最近やたら凪に話しかけてくるものの、いまひとつ信用できないし、ストーム絡みの一件では、どんな恨みを持たれているか判らないからだ。
「おふくろの病院だぜ?」
 と、医者である母親に絶対な誇りを持っている男は、鼻白んだように背をそらした。
「ぶっちゃけ、美味しい仕事らしいよ、することないし、ただ座って、話しかけたり、本読んだりするだけ」
「………?」
 それ、なんか、別の意味であやしくないだろうか。
「それで2千円?」
「金出すの、おふくろじゃねぇの、その女の人の保護者だから」
「……ふぅん」
 なんか……わけあり?
「今までの人がさ、家庭の事情で二ヶ月だけ休むってことで、その期間なんだけど」
「そりゃ、ま、いいんですけど」
 おいしすぎて怖い気もしなくもない。
「なんの病気ですか」
 ベルが鳴り、教授が咳払いしつつ入室してきた。
 周辺のざわめきが収まってくる。
「事故だって、……自殺未遂かなんかだったかな、もう十年以上も意識不明で寝たきりなんだってさ」
「へぇ……」
「結構綺麗な人らしいよ、昔女優さんだったとかなんとか」
 マイクに教授の咳払いが被さり、この話はここまでとなった。



                 2



「……………」
「……………」
 なんだろう、このどん詰まりの雰囲気は。
 取り壊し前のJ&M本社ビル4階。
 午後一時。社長室に呼ばれたのは、ストームのメンバーだけではないようだった。
 応接用のソファに座る面々。
 聡、雅之、憂也に、りょう、それから――
 将は、眉を寄せたまま顔を上げた。
 片野坂イタジ。
 三十半ばのストーム専属現場マネージャー。
 恰幅だけはいいがセンスのない背広姿、ぺったりとしたオールバックは相変わらずゴキブリじみている。
―――……今日は……顔色までゴキブリみてーなんだけど。
 小泉旬。
 年齢不詳、猫背で白髪まじりの頭髪。二十代の頼りなさと三十代の老け顔を同時にもっている、やはりストーム専属現場マネージャー。
―――……肩、落ちすぎてねーか?
「なんの話だろ?」
 将の隣に座る聡が、さすがに重苦しい空気に気づいたのか、いぶかしげに囁いてくる。
「お叱りじゃねぇの?こないだのイベントの」
「今更かよ、一週間もたって?」
 憂也とりょうも、不思議そうに首をかしげている。
「つか、なんで真咲さんが、ここにいねぇの?」
 それが気になっていた将に代わり、切り出してくれたのは憂也だった。
「……まぁ、いろいろあって、忙しくしてらっしゃる」
 と、イタジが歯切れ悪くそれに答えた。
―――ふぅん。
 将は、やや冷めた気持ちで、視線を窓の外に向けた。
 TAミュージックアワード。あのイベント以来、真咲しずくは将の前に現れない。
 どの現場にいっても、来ていない。連絡さえ寄こさない(むろん、今までも私的にもらったことはないが)。
―――ま、俺も、気持ちの切り替え時ってとこかな。
 将は、軽く肩をすくめた。
 いつまでも、振り向かない女を追いかけるほど未練がましい男じゃない。
 そう、もともと女なんて、自分の人生にさほど重要な存在じゃない。
 また、楽しくやればいい。
 適当に――お互い、楽しいだけの関係を持てる相手を探して。
「おっまたせー」
 が、
「将君?」
 けげん気な聡の視線。
「う、うるせー」
 無様なほど動揺した将は、颯爽と入室してきた女から、泳ぐように視線を逸らした。
 み……未練がましい、男じゃねぇ……
 はずなのに。
「ごめんごめん、寝坊しちゃった」
 全員のいぶかしげな視線をものともせず、真咲しずくは、すたすたと室内を横断し、唐沢社長のデスクの前で足を止めた。
 そして、
「へー、なかなか、すわり心地のいい椅子じゃない」
 社長愛用の回転椅子に、すとんと腰掛け、まるで子供のようにくるくると回っている。
「…………あの、俺らに、用って」
 どこで口を挟んでいいのか判らない全員を代表して、雅之。
 この会社の筆頭株主兼副社長兼、何故かストームのマネージャーを兼職している女は、そこではじめて、その場の空気に気づいたように顔をあげた。
「あれ?イタちゃん、まだ言ってなかったの?」
「ぼ、僕が言うんですか!」
 と、驚愕を通りこした顔で片野坂イタジがすっとんきょうな声をあげる。
「んー、男のくせに意気地がないなぁ」
「って、あなたが、何もかも勝手に決めちゃったんじゃないですか!!」
「だって、私の口からは言いにくいじゃない」
「な……、な、」
 口をぱくぱくさせているイタジを無視して、しずくはこりこりと眉の端を掻いた。
 そして、
「あのさ、解散決まったから」
 今日の予定を簡単に告げられたような、あっけない口調だった。
 将もそうだが、多分、全員が、「へー」と思って「………?」と考え込む。
 その「………?」が、「…………」になって、それから、多分全員の頭が真っ白になった。
 沈黙。
「……それ、なんの冗談……ですか?」
 その静けさを断ち切るように、ぎこちない笑いを口元に浮かべた聡が、同意を求めるように将を見た。
 が、将にも言葉が出てこない。
 嘘なのか真実なのか、けれどずっと危惧して、どこかで逃げて先送りにしていた問題。それが、ふいに目の前に突きつけられている。
 解散。
 去年の夏から、胸の底では、ずっと予感していた展開。
「冗談じゃないんだ、東條君」
「7月末日、契約期限を持ってストームは解散」
 喋りかけたイタジの言葉を遮り、今度は――やや毅然とした声で言い、女はすっくと立ち上がった。
「ってことになりましたー」
 そして、笑いをかみ殺した目で全員を見回す。
 静まり返った室内に、秒針の音だけが妙なほど響いた。
「あれ?ノーリアクション?すっごいサプライズだと思ってたんだけど」
「………いや、つか」
 最初に立ち上がったのは、雅之だった。
「そもそも、意味わかんねぇんすけど」
 口調だけは普段通りだが、しずくを見つめるその目には、雅之には珍しいほど、はっきりとした怒りが浮かんでいる。
 が、その怒りに自分でも戸惑っているのか、すぐに、歯切れ悪く視線をそらした。
「それに、そ、そういうの一方的に決められても、俺らは、その、真咲さんの所有物でもなんでもないし」
「あら、でも事務所の所有物じゃない」
 あっさりと切り替えされて、雅之の顔色がわずかに変わった。
「おい、雅、」
 聡が慌てて立ち上がり、気色ばった雅之の肩を抱いて座らせる。
 誰も何も言わない。
 重たい空気が、室内に満ちる。
「………なんにしても、いきなりすぎて、僕らも意味わかんないですよ」
 聡がようやく現実を受け入れたのか、真面目な顔になって口を開いた。
 が、冷静に言っているようで、その語尾は、心なしか震えている。
「ちゃんと、わかるように、説明して……もらわないと」
「僕らも、簡単には納得できないですし」
 続くりょうの言葉に、真咲しずくは、少しだけ気の毒そうな目色になった。
「納得できなきゃどうするの?事務所やめて、独立して仕事でもとるつもり?」
「……………」
「ユーたちが納得しようがしまいが、事務所の方針はね、変わらないの」
 そしてしずくは、場違いに楽しそうな顔で、笑った。
「それに飼い犬にはさ、従う以外に選択肢はないじゃない」
 それには、さすがのりょうも色をなして立ち上がった。
 同じく我慢の限界だったのか、がっと前に出ようとした雅之を、聡が必死で止めている。
 憂也だけが、冷めた目のまま、唇に指をあて、眉をきつくしかめていた。
「言えよ」
 将は、感情をぎりぎりで抑えながら女を見上げた。
 そういや、昔よく見たよ、こんな顔。
 この女が、とびきりのいたずらを思いついて、それを言いたくて言いたくてうずうずしている時の顔、だ。
「なんか裏があるんだろ、その話」
「唐沢君の計算では、裏も表もないけどね」
 案の定、女は楽しそうに唇の端をきゅっと上げた。
「存続の条件はひとつ」
 そして、人差し指をぴんとたて、将の方に突きつける。
「ユーたちが、唐沢君の仕掛けたゲームに完全勝利すること」
「ゲーム……?」
 初めて憂也が呟いた。
 寝起きが悪い憂也は、今朝からずっと不機嫌そうな目をしている。
「来月第二週の水曜日、つまり5月8日、ストーム新曲のリリースが決まった」
 その憂也以上に不機嫌そうに、片野坂イタジが口を挟んだ。
「その同日、ヒデ&誓也が、正式にうちの事務所からデビューする」
 解散なのに新曲リリース?
 で、ヒデ&誓也が同じ日にデビュー?
 話の展開についていけない全員が、喜んでいいのか、怒っていいのか、微妙な眼差しを交し合う。
「つまり5月8日、二つのユニットが同時に新曲をリリースする。ストーム存続の条件は、君らの新曲が、ヒデ&誓也のデビュー曲を抑え、ウイークリーオリコンで一位を獲得すること」
 そこで、片野坂は沈うつな目で咳払いをひとつした。
「しかも、三週連続でだ」
 一位
 しかも、三週連続。
「存続の条件は、それだけだ」
「………………………」
「………………………」
「………………………」
「………………………」
「………………………」
 将もそうだが、全員の顎が、その刹那落ちていた。



                 3



「ちょっと……、待てよ」
 有り得ない。
 というより、確実に不可能。
 呆然と呟いた将に、片野坂イタジは、重い嘆息を返してきた。
「柏葉君、君も判っていると思うが、勝負は初動売り上げ、いわゆる発売第一週のセールスで、ほぼ、決まる」
「…………………」
「5月13日に発表されるウィークリーオリコン一週目が勝負で、そこでダメなら二週も三週もない」
 そして、イタジは、さすがに苦しそうに言葉を切った。
「つまり君たちの解散が、5月13日の時点で確定することになる」
 将は、無言で目だけをすがめる。
―――つか、
 なんつー有り得ない条件だよ。
 ゲームも何も、解散しろっつってるようなもんじゃん、それ。
「………………」
 これが、もし単独なら。
 まだ、わずかでも可能性はあった。三週連続一位は未知の領域だが、 今のストームの勢いなら、プロモ次第では決して不可能な数字ではない。
 が、
―――よりにもよって、ヒデのデビュー曲とバッティング。
 なんとも言えない感情にかられ、将はただ唇を噛む。
 悔しいが、認めざるを得ない。
 アイドルとして、すでに緋川拓海の人気を抜き去り、日本芸能界の頂点に君臨している男、貴沢秀俊。
 そして、その貴沢を擁し、J&Mがストーム以来三年半ぶりに、満を持してデビューさせる新ユニット「ヒデ&誓也」
 J&Mデビュー組で、CD最低売り上げを更新し続けてきたストームが、到底かなう相手ではない。
「ま、そういうことだから、後の説明は、イタちゃんから聞いて」
「ちょっとまてよ!」
 出て行こうとするしずくの腕を、立ち上がった将は、咄嗟に掴んで止めていた。
「………………」
 意味、わかんねぇし。
 なんだって、この女は、こんな状況で、とことん冷静な目をして笑ってられるんだ。
 今だって、なんで、そんな目で俺を。
「………今の、真面目な話かよ」
「真面目も真面目、大真面目」
「………そんな条件、可能だと思ってんのかよ、お前」
 腕を掴む手に、力が入る。
 しかし女は、顔色ひとつ変えずに将を見上げた。
 感情の読めない冷たい瞳。
 空いた方の手が、将の頬を軽くはたいた。
「手、離して」
「…………………」
「離しなさい」
 将は、女を睨むように見つめながら、ゆっくりと手を離した。
 が、激しい憤りを感じていたはずなのに、体温が離れた刹那、ふいに不安になっている自分がいる。
 正直言えば、今、何を考えて、どう判断していいのか、将には全く判らなかった。
 ストームの解散。
 目の前には、ほぼ確実な結末が見えている。
 なのに、どうしていいか判らない。
 この土壇場で、目の前の女を信じていいかどうかさえ。
 しずくは将から離れると、全員に向き直った。
「ひとまず、新曲がリリースできるんだから、いいじゃない」
 あまりに場違いな、能天気な声。
 雅之が、唇を噛みながら、目をそらす。
 聡はうなだれ、りょうはただ、じっと空を見つめていた。
「……つかさ」
 ゆらっと立ち上がったのは憂也だった。
「いっこ、聞いてもいい?」
 不機嫌なんだか、寝ぼけているんだか判らない表情をした憂也は、髪をかきあげながら、壁に背を預ける。
「そもそも、それ、何のための新曲リリース?」
 なんのため?
 憂也の問いに、一瞬、全員が思考を止めた。
「解散確実の俺たちがさ、一体、何のためのリリースかって聞いてんだけど」
 将もまた、即座に眉をひそめていた。
 そう言えば、何のための、馬鹿げた茶番なんだろう、これは。
「なんのためだと思う?」
 しずくは、かすかに笑って憂也を見た。
 憂也もまた、静かな目でしずくを見つめている。
「俺の想像が正しければ」
 しかし憂也は、開いた口のまま、ふいに気分を変えたように肩をすくめた。
「……つか、どうでもいっか」
「ど、どうでもいいってことはないだろ、憂也」
 口を挟んだのは、聡。
 珍しく怒りを堪えるような、もてあますような、そんなぎこちない顔で、聡は立っている憂也を見上げる。
「お、俺にも、その意味判ったよ、憂也、それって、こういうことなんだろ、俺たちは、もしかして」
 もしかして。
「ヒデのデビューを盛り上げるための、話題作りっていうか、そういうことじゃないのか」
 ヒデのデビューのため。
 確かにそれもあるだろうが、それだけだろうか。
 将は、眉をひそめたまま、しずくの傍らに立つ憂也を見あげる。
 将の視線を受けた憂也は、何故か微かに笑い、なんでもないように、元の席に腰を下ろした。
「つか……そんな馬鹿馬鹿しいことに、なんで俺らがつきあわなきゃなんねぇの」
 冷めた目でりょうが呟く。
「ふざけんなよ、誰が乗るかよ、そんな話」
 苛立った口調で雅之。
 しずくは軽く嘆息し、鼻の頭を指で払った。
「あのさ、どうでもいいけど、新曲発売まで、もうそんなに時間はないの、イタちゃん、デモテープは?」
「こ、今夜には、届きます」
「これからの流れ、簡単にこの子たちに説明してやって」
「は……」
 イタジは、さすがに5人の空気を察したのか、それ以上何も言えないままでいる。
 しずくは、呆れたように肩をすくめた。
「つか、そんなに暗くなることかなぁ?先輩デビュー組の貫禄でさ、盛り上げてあげればいいじゃない、後輩のデビューのひとつやふたつ」
「解散がかかってるって、それ、あなたが言ったんじゃないですか!」
 そこが我慢の限界だったのか、挑むように声をあげたのは聡だった。
「あなたにはわからないかもしれない、でも、俺たちには」
 握り締めた拳が震えている。
「俺たちにとって、ストームは、本当に大切な、」
 聡は言葉を詰まらせる。
 気持ちは全員同じだった。だから余計に、言葉が何もでてこない。
「なんだって、不可能だと思えば不可能だし」
 が、嘆息したしずくの声は、どこまでもいつもどおりだった。
「何もかもそれまでのことよ、できないと思った時点でデッドエンド」
「それ、」
 聡が、わななくように口を開く。
「可能だと思えば、可能になるってことですか」
 すがるような声だった。
「俺、解散なんてしたくない!絶対にしたくないです!」
「俺だって、したくない」
 りょう。
「つか、本当に、解散以外の可能性はないんですか!」
 雅之。
「可能性も何も……あのさ、」
 詰め寄られたしずくは、脱力したように苦笑した。
「さっきから、話が全然進まないんだけど、やるの?それともやらないの?」
「…………」
「ようは、それだけなんだけど」
 将は、無言で女を見上げる。
「勝負事なら、私は、楽しいから乗っちゃうけどな」
 しずくは髪を揺らして、歩き出した。
 乗るって、
 将は、思わず口を開く。
「勝つ気かよ、お前」
「当たり前よ、だってこれはゲームだもの」
 振り返った顔は、いつものこの女の笑顔だった。
 しかし、将には判る、その目はわずかも笑ってはいない。
 将だけではない。全員が、しんとする。
 勝つ。
 貴沢秀俊に、いや――日本芸能界最大手、J&M事務所に戦いを挑んで勝つ。
 女が今言ったのは、まさにそういう意味に他ならない。
「負けるためにサイコロを振るなんて、そもそも面白くもなんともないじゃない」
 そしてしずくは、それ以上の質問を遮るように背を向けた。
「レコーディングは二日後の午前十時、アーベックスの第二スタジオ、全員、そのつもりで準備してきなさい、じゃ、解散」



















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